魔法使いの弟子の勤労

ルカ

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第八話 大嵐の到来

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 ミラーがいなくなり室長直属になって以降、テアの職務の幅は地味ながらも広がりをみせていた。
 そのうちの一つ、植物園の清掃にテアは向かっていた。相棒の掃除用具を片手に石畳の凹凸の上を歩き、中央棟の出入り口前を通った時だった。
 偶然、中から出てきたフィッツレイモンドと鉢合わせた。
「ごきげんよう」
 フィッツレイモンドはテアに向かって優雅に挨拶をした。いつか見せた勇猛さは成りを潜め、無難な微笑みを顔に作っている。
「こ、こんにちは」
 動揺して足を止めたテアの様子に構わず、つんと顔を前に向け去っていく。
 職務の幅の広がり以外にも、テアの周りには変化が起きていた。フィッツレイモンドは「観察」しに現れることは無くなった代わりに、勤務中にテアの姿をみかければ他の学校職員にするのと同じく形式的な挨拶をしてくるようになった。
「こんにちはぁ」
 続いて出てきた他の生徒達もテアに挨拶をする。彼女を遠巻きに見ていた生徒達の中に、フィッツレイモンドが普通に接するのを見て真似をする者が出てきていたのだった。
「こんにちは……」
 テアは気恥ずかしくて声が小さくなってしまう。嫌ではなかったが、むず痒かった。
 そんな彼女の前を通過する生徒達の中で、急に立ち止まる者がいた。テアが気付いて視線を向ける。
「あ」
 テアは彼女の事を思い出して小さく声をあげた。以前魔法でスカートを直した、低学年の女子生徒だった。
 二人は見つめ合って目を丸くしていた。少し動揺してから、テアは挨拶をしようと思い直し口を開いた。
「こん……」
 途端に、女子生徒は無言で走りだした。
「(え!?)」
 たちまち小さな後ろ姿は校舎の中へ消える。
 テアは立ち尽くしていたが、硬直した彼女を不思議な目で見る生徒達の視線で我に返り、慌てて歩き出した。
 目的地である植物園は実習棟の裏にあり、二棟のガラス張りの温室を中心に構成されている。テアの担当は周囲の掃除のみで、温室内に入ったことはなかった。
 そこに辿り着くまでの間、テアは先ほどの女子生徒のことを考え落ち込んでいた。
「(なんだったんだろう、私の事忘れたわけじゃなさそうだったけど、スカートの裁縫の魔法、実は上手くいってなかったとか――)」
 考えながら温室の前に辿り着いたテアは、そのガラス戸が目に入って異変に気付いた。
「(――えっ割れてる!?)」
 出入り口のガラス戸に、小指ほどの大きさのヒビが入っていた。慌ててよく確認すると、穴が開きそうなほどではなく、ヒビは浅く一筋で済んでいる。
「(どうしよう、室長に言――)」
 そう考えていると、テアの脳裏にいつかの大穴が開いた教室の姿が浮かんだ。それに比べれば、目の前の破損のなんと小さな事か。
「(こんな事くらい自分でどうにかしろって言われるかも……)」
 幼い頃、パン屋でそう叱責されたことを思い出した。
 室長は見た目こそやる気がなさそうだが、その実校内で日々起こる様々な問題に対処する忙しい身である。それに加え、勤務より修行を優先させてもらっている身でまだこんな事も出来ないのか、エヴァンズの弟子ともあろう者が――と管理室の皆に呆れられる想像も加わり、テアはエプロンの腰もとの袋から杖を取り出した。ガラスは未経験だが、陶器などの修復魔法なら履修済みだった。
 杖を構えつつも、まだ逡巡していた時だった。
「それ、直さないでいいわ」
 驚いたテアが振り向くと、木箱を抱えた見知らぬ人物が立っている。目が合うと微笑んで応えた。
 身長が高くズボンを履いていたのでテアは混乱したが、女性の声だった。
「私もさっき来た時気付いてね。戻ったら直すつもりだったの。魔法の痕跡がないか見てから」
 女性は木箱を地面に置き、テアのすぐ横に来ると指の先にルブの光を灯した。それをヒビにかざす。
「時折出るらしいのよね。薬草を盗むために魔法を使って侵入しようとする生徒が。十代のイタズラに向く薬の材料にはなるからね――うん、魔法の跡は無いわね。最近風が強いから何か飛んできたかしら」
 ルブに照らされたヒビを女性は落ち着いて解析していたが、横で見ていたテアは「跡」というものが何を指すのか全く分からなかった。
 確認し終わってヒビを拭くように消してしまうと、柔らかい表情がテアに向く。全体の中性的な印象よりも女性的だった。
「ここの担当になったブライアントさんね? いつもありがとう。ここのガラスは特別でね、オルレッド先生特製の対魔力と物理衝撃に対する二重の特防魔法が行使してあって、ヒビも不届き者を惑わすための偽反応なの。簡単にこじ開けられたりする事はないと思うけど、もし今後、異変があったらまずあなたの上長か私に報告してくれると助かるわ」
 柔らかな物言いだったが、テアは青ざめた。未遂ではあるが理解の浅い仕事であるにも関わらず勝手な事をするところだった。
「すみませんでした」
 テアは恐縮しきって謝罪した。そんな彼女を少し眺めてから女性は口を開いた。
「じゃあ、詫びとして今から私の仕事を手伝ってくれる?」
 恐る恐る視線をあげたテアに微笑む。
「私は植物薬学を担当しているローレン・ウィー・ブルーベル。お目にかかるのは初めてね」

 ガラスの温室は湿度のある暖かい空気で満ちている。
 土に植えられた様々な植物を横目に、二人は温室の隅に設置された作業台に着席していた。 
 ブルーベルはティーセットの並ぶ卓上に小さな鉢植えを置くと、細長い指で光を散らせた。
「彩りにね」
 目覚めるように薄紫色の花が開き、テアは小さく感嘆の声をあげた。
 テアは「詫び」として、籠一杯の植物の房から実を取り出す仕事を手伝った。だが二人がかりで行った作業はあっと言う間に終わり、今はブルーベルが魔法で出したティーセットで茶会が始まっている。
「(勤務中なのに、お茶なんてしてていいのかな……)」
 勧められるままお茶を飲み、所在なさげな彼女を見てブルーベルが笑う。
「ふふ、実は仕事を手伝ってもらったのは口実なの。あなたとお話してみたくて」
「私と?」
「ええ。あなた、人体操作特別学のエヴァンズ先生のお弟子さんでしょう」
 テアは嫌な予感がして固まった。ミラーや出会い頭のフィッツレイモンドを思い出していた。
「ああ、警戒しないで。あなたとお話したかったのは『師弟仲間』だから。私の魔法名はウィージニア。この指輪は師弟の契りの耳輪を加工したものよ。あなたの耳のものと同じ」
 テアにかざして見せたブルーベルの左手の小指に、金色の指輪が光っていた。植物の蔦を模した繊細な細工が施されているそれを、テアは食い入るように見つめた。
「ブルーベル先生も、弟子を?」
「弟子も師匠も。これは私が師匠役の時の物。修了したとき指輪に加工したのよ」
「すごい、きれい……」
「ありがとう。あなた達の耳輪も素敵ね。無垢な感じが清々しくて美しいわ」
「――全然、違うんですね、あの、私たちの物と……」
「耳輪を形成するのはそれぞれの師匠の抽出魔法に拠るからね。個性の表現、とも言えるわ」
 自分の耳輪との差にテアは衝撃を受けていた。ブルーベルのものと比べると、師の抽出した耳輪はあまりに飾り気がなく武骨に思える。テアはふとメイジーが言った「美的感覚もあんまり……」といういつかの台詞を思い出してしまった。
「私は元々黄道十二宮会の植物園に在籍していたの。その時は師弟仲間なんて珍しくなかったんだけど、去年ここに出向してからはとんと出会わなくなってしまって。だからかしら、あなたを見たら自分の弟子を思い出しちゃったわ。お誘いしてご迷惑だったかしら?」
「いえ、そんな。迷惑だなんて。私も、師弟仲間に会えるのは初めてで、なんと言うか……」
 一生懸命に首を振るテアを見て、ブルーベルは目を細めた。
「ブライアントさんはダンデライオンの綿毛のようね。風と遊ぶ妖精。危なっかしくて可憐で、ずっと眺めていられるわ」
 テアはブルーベルの言っていることが理解できずポカンとした。
「私も自分の弟子は可愛かったけど、あなたのような弟子ならきっとエヴァンズ先生も可愛くて仕方ないでしょうね」
「カワ、イイ…………?」
「そうじゃないの?」
「そう……でしょうか?」
 テアは困惑しきってしまった。そもそも彼にそのような感情が備わっているかわからなかった。
「ふうん。エヴァンズ先生って思ったより淡白なのかしら」
 ブルーベルはカップに口を付けた。ズボンを履き長い足を組む姿は男性的だが、耳にかかる柔らかい髪などの細部に女性が見て取れる。
 異端な恰好にも関わらずそれを我が物とし堂々としている彼女が、テアにとっては神秘的ですらあり、興味深かった。
「――あの、ブルーベル先生は、お弟子さんとはどんな感じで……?」
 その問いかけに思い出すものがあったのか、ブルーベルは目じりに小さな笑い皺を作った。テアはその表情に素直な慈しみを感じた。
「それはそれは、魔法以外のことも沢山話したし、喧嘩もしたわ。双子の弟子だったから主張も倍なの。修行についても、こちらがせっかく順序を考えているのに、やりたい魔法を優先させろと声を揃えてくる」
「で、弟子なのに、そんな感じなんですか……」
「弟子だから、なんじゃないかしら。やる気があるのは師匠としては嬉しい事でもあるし。ブライアントさんは普段エヴァンズ先生に言わないの? こういう魔法がやってみたい、とか」
「言ったことが無いです」
「言ってみたらいいのに。折角貴重な属性の師匠なんだから。記憶忘却なんて、エヴァンズ先生の実演は高学年でしか見れないんでしょう」
 テアは初耳だった。そして、言われてみれば記憶の忘却や操作に関する魔法はまだ目の当たりにしていない事に気付き、密かに興味が湧いた。
「そういう特別な魔法だって、思い立った時にねだれるのが弟子の特権よ。それともエヴァンズ先生、自分の指示以外許さないタイプ?」
「そうじゃない、と、思います」
「でしょう? もっとお互いに腹を割って、色んなことを話してみたらいいんじゃないかしら。 師弟関係は一生ものなんだから」
「一生もの……ですか?」
「修行自体は十年前後――人によってはもっと差があるかしら? それくらいで終わるけど、やっぱり自分の師匠も弟子もずっと特別ね。師匠には親より定期的に会うし、弟子はいまだに造園の仕事の愚痴を手紙で飛ばしてくる。二倍の分量でね」
 ブルーベルに言われてテアは修業期間の平均を今知った。果たしてこの修行の日々はどれほどで終わるのか、これまで日々をこなしていくのに精いっぱいで考えたことが無かった。
「そういえば、師匠で思い出したけど――」
 ブルーベルはカップを置いた。
「もしかしてその眼鏡ってエヴァンズ先生が作ってくれたの?」
 テアはきょとんとした。何故眼鏡とエヴァンズが繋がるのか、脈絡が掴めなかった。
「え……? いいえ、これは家族からもらったものです」
「あら、そうなのね。私の師匠も物体抽出はかなり洗練されていたけど、視力を調整できるほどの魔動具は作れたかしらってちょっと気になってしまって。ご家族に得意な方がいらっしゃったの?」
「……? 何を?」
 戸惑うテアの様子を見てブルーベルも不思議そうに付け加えた。
「その眼鏡、抽出魔法で作ったのよね? さっきガラスの魔法の痕跡をみようとした時に、偶然だけどその眼鏡にも痕跡が見えて――」
 光が散って視界を覆った。
「(――え?)」
 平衡感覚が崩れ、頭の中が回る感覚がテアを支配した。
「ブライアントさん?」
 テアがブルーベルの呼びかけで彼女の顔を見た時、既にその視界を覆った光は跡形もなく消えていた。
「――? あれ? 今、光が?」
 額に手をやって瞬きをしているテアに、ブルーベルが首を傾げる。
「ちょっと、大丈夫? 目を回したようだったけど貧血かしら。医務室に行く?」
「――いえ、大丈夫、です……」
 テアの視界を覆った光は彼女にしか見えていなかった。気分の悪さなどはなかったが、何が起きたのか理解できずテアは戸惑っていた。
 心配したブルーベルが口を継ごうとした時、ガラス戸が開いた。
「失礼します――あら」
 戸の開く音に顔を向けた二人は、そこに立つフィッツレイモンドの姿を確認した。
「フィッ」
 途端にテアが椅子から跳ねて直立した。
「今日はよくお会いしますわね。ブライアントさん。お茶会とはご優雅なこと。施設管理のお仕事はもうお終いで?」
「あ、あの、その――」
 ブルーベルが笑った。
「フフ、あんまりいじめないであげて。私が無理に誘ったのよ。入ってきてフィッツレイモンド。委員会の報告書?」
「はい。確認のサインを貰いに伺いました」
 フィッツレイモンドは紐で綴られた冊子を手にしていた。彼女の入室に代わってテアは茶会の主に小さく声をかけた。
「あの、ブルーベル先生、では私、これで……」
「そう? 本当に大丈夫?」
「はい。お茶、ごちそうさまでした。とても美味しかったです」
「どういたしまして。あっそうだ、今度はフィッツレイモンドも一緒に三人でお茶をしましょう」
 朗らかな提案に、テアは固まってフィッツレイモンドの顔を見た。フィッツレイモンドも一瞬だけテアに目を向けた後
「ええ。是非に」
 と、余所行きの微笑みでブルーベルに答えた。
「また声をかけるわ。それじゃ、修行頑張ってね」
 ブルーベルが微笑んで手をひらりとする。その手の指輪がキラリと光った。
 テアは礼をすると静々とガラスドームから退去した。
「(び……っくりした。突然フィッツレイモンドさんが現れるとは思わなかった)」
 テアは歩きながら平時よりも早く打つ心臓を抑えた。いまだにフィッツレイモンドには慣れない。
「……」
 芝生を踏んでいたテアの足がふと止った。指でつるをつまみ、眼鏡を外すと黙ってそれを見つめた。ブルーベルが眼鏡について指摘したことを反芻していた。
「(ブルーベル先生が言っていたこと……本当なのかな。この眼鏡が、魔法で? 知らなかった、そうなの?)」
 随分昔に家族に与えられ、自分の一部となって久しかった。あるのが当たり前で今までは深く考えたことが無かったが、不思議なほど気になって仕方がなかった。
「(魔法の跡が見える魔法、っていうのが、私にも使えるようになれば分かるのかもしれないけど……)」
 テアはブルーベルが「エヴァンズ先生にやってみたい魔法を提案してみては」と言ったのを思い出していた。
「(でも、いいのかな、そんなこと言ってみて)」
 ベイカー家で最後までパン作りを教えてもらえなかったテアは、知りたい魔法を師匠にねだるなど想像したこともなかった。
「ブライアントさん」
 テアは足が地面を離れてすっ飛んでいくかと思うほど驚いた。背後に立つのはフィッツレイモンドだった。
「ア、ど、え? フィ、フィッツレイモンドさん? ブルーベル先生と、お話があったんじゃ」
「終えてきたわ。大した用じゃないもの。校舎に戻ろうとしたら、偶然、あなたに追いついたから。追いついたついでにひとつご忠告さしあげるわ」
 フィッツレイモンドは艶のある長髪をひと撫でし整えた。偶然追いついた割には速足をしてきたように息があがっている。
「ブルーベル先生には、生徒の――特に女子生徒の間に秘密の『ファンクラブ』があるの。あの方、人当たりがとても良ろしいですし、園芸作業のために男性のような装いをされているところがミステリアスで好奇心を誘うらしいわ。先生の『お茶会』に招かれるなら〝その覚悟〟で参加されるのをお勧めいたします」
「エ?」
「一対一でお茶会をしたなんて彼女らに知れたら、あなた、ミラーどころじゃなくてよ」
「えええぇ……」
 テアは眉をハの字に下げている。
「も、もしかして、フィッツレイモンドさんも、なんですか……?」
「私は違うわ」
 フィッツレイモンドはきっぱりと答えた。
「私がブルーベル先生の統括する緑化委員に所属していることがその証拠。ファンクラブの方々は対象を信仰するあまり、恐れ多くて近付けないんだそうよ。確かにブルーベル先生は素晴らしい先生ですけれど、一教師を想うあまり理性を失って、牽制しあうとか陰湿な嫌がらせをするとか、私には全くもって理解出来ない世界だわ」
 溜息を吐くフィッツレイモンドに、彼女がある教師を想うあまりその弟子の観察を日課にしていたのをテアは思い出していた。
「お解かり? お茶会に臨むなら、何かあってもご自分で始末をつけるつもりでいることね。ファンクラブごときでエヴァンズ先生のお手を煩させるような事が、あっていいはずないんだから」
「(あ、やっぱりエヴァンズ先生の為なんだ……)」
 彼女に気圧されていたテアはその真剣さが腑に落ちた。
「それだけです。失礼」
 一気に言い終わると、フィッツレイモンドはケープをくるりと翻して歩き出した。テアは呆然とその場に立ち尽くしていた。嵐に巻き込まれた挙句振り落とされた心地だった。


「ブライアントさん、デネブ達の水の取り換えって終わってる?」
「はい、終わってます」
「ありがとう助かるよ」
 登校し、勤務に就いているテアがいるのは言伝鳥を飼育している鳥小屋だった。
そこは尖った屋根を持つ石積みの建物で、室内では鳥たちが金網で区切られた住居にそれぞれ収められている。
 テアと作業をしているのはミッチェルという男性で、彼は教員ではなく言伝鳥の飼育・訓練を担う専門職「バードマスター」である。彼本人は熊のような恵まれた体格をしている。
 ミッチェルの手伝いも、テアが室長の直属になってから増えた職務の一つだった。室長に指示された時は果たして自分に務まるのかテアは不安だったが「鳥たちのお世話の仕方は僕がイチから説明するから、一緒に頑張ろ!」と励ますミッチェルの人柄に支えられて、担当を続けていた。
「そういえばさ、ブライアントさんの地元にはマグパイの数え歌っていくつまであった?」
 ミールワームをピンセットで摘まんでいたテアにミッチェルが話題を振る。
「歌……? あの、マグパイを一羽だけ見かけたら悲しみ、二羽見れば幸せがやって来る、っていうおまじないはありましたけど……」
 回答の間手を止めたテアに、お預けをくらっている鳥がけたたましく鳴いた。
「うわわ、ごめんデネブ」
 テアがせっせと餌をやっているマグパイはデネブという名で、いつかエヴァンズ邸の窓を蹴飛ばして来訪を知らせた言伝鳥だった。なかなか自己主張が強く気に入らない事があると人にも蹴りをお見舞いさせる傾向があり、お世話を始めた当初犠牲者になりかけて以来テアは気を付けている。
 一方で丸みのある体とつぶらな瞳には可愛らしさを覚えており、まじまじと見るとその瞳の奥深い黒さに、どこか自分の師匠を思い出してしまうのだった。
「それそれ、一羽は悲しみ二羽は喜びがってやつ。二羽だけなんだね」
「はい。でも言い伝えだけで、歌は無かったです」
「そうなんだ。地域差だね。僕の所だと何羽見たかで何が訪れるか占うついでに、子供が歌って数を覚えるナーサリーライムだった。全部で三十五羽まであったよ」
「そっそんなに?」
「こんな感じで――一羽は悲しみ、二羽は喜びが♪三羽は娘で、四羽は息子が♪五羽は――」
 気さくなミッチェルが仕事の片手間に他愛のない話をするのはいつもの事だった。彼が陽気に数え歌を披露していると、開けていた窓から鳥が入って来た。黒い体に橙色の嘴を持つブラックバードだ。
「アルタイルおかえり。ああ、こんなに濡れてしまって」
 校内連絡を担う言伝鳥はバードマスターの腕で羽根を休めた。外は今朝から雨が降っており、ミッチェルは魔法でアルタイルの水気を返還し乾かす。
「テア・ブライアント殿。至急管理室まで戻ってください。ヘンリー・スミスより」
 言伝を再生すると、アルタイルがスミス室長に似た男性の声で告げた。
「私? すみません、戻って大丈夫ですか?」
「うん、もちろん。ありがとうね」
 テアは鳥小屋の外に出た。登校時より雨は勢いを増して、風が木々の葉を揺らしていた。
「――五羽は銀、六羽は金が♪」
 雨の中走り出すと背後からバードマスターの歌声の続きが漏れ聞こえたが、すぐに掻き消えた。鳥たちのさえずりと共に、そのナーサリーライムは誰に聞かれる為でもなく紡がれている。
「――七羽は秘密、誰も知らない秘密が――♪」

「戻りました」
 管理室の扉を開けたテアは、各々持ち場に就いているはずの管理員達が全員着席している光景に目を丸くした。
「ブライアント席に着いてくれ」
 テアが恐々と着席すると、スミス室長が再び口を開く。
「昨晩から続いているこの雨だが、パーペンディック先生によればこの後来る強い嵐の前段階らしい。通過は今日の夜から明け方にかけて。管理室はそれに備えた対応をする」
「この時期に強い嵐って、珍しいですね」
「先生の図盤にも突然現れたんだと」
 室長達の話を聞きながらテアは緊張していた。彼女が勤務を始めてこのような緊急会議が開かれたのは初めてだった。
「対応についてだが、予め施設の見回りと補修、撤収をしておく。それに加え――先月、北座学棟四階六番教室で起きた事故で経年劣化が確認されたため、来月行うはずだった一部窓ガラスの防御強化魔法の更新を、嵐に備え念のために今日中に全て終わらせるように、と校長から指示が出た」
「「「え?」」」
 テア以外の管理員全員が声を上げた。
「今日中って、校長、本気で言ってるんですか」
「う、受けるんですか、室長……?」
「受けるも何も、指示が出れば私達はやる以外ない」
 テアは場に広がる動揺の意味がわからず神妙な面持ちで目を左右に走らせている。
「今日中に私達五人で手分けして防御強化魔法をかけるっていっても――何枚の予定でしたっけ……」
 明らかに動揺する管理員達に室長は気怠そうに返した。
「二百八七枚」

 エヴァンズの研究室に、テアは走って向かっていた。この時間帯は師匠の授業の空き時間であり、毎週修行が行われる。
「失礼します……!」
 息を上げながら研究室の扉を開くと、机に着席していたエヴァンズが悠然とテアを見た。
「あ、あの」
 息を整える間もないまま、テアは勇気を振り絞って聞いた。
「私に、窓ガラスの防御強化魔法って、で、出来るんでしょうか……」
 意を決したつもりだったが、語尾はみるみる弱くなってしまった。
 緊急会議で窓ガラスの件が発表された後、室長はその場でテアに防御強化魔法が行使できるかを訊ねた。一枚でも負担を分け合いたい管理員達の視線は期待と懇願を帯びて彼女に注がれる。テアはまだその魔法を習っていなかったが、その視線に対して即座に「出来ない」と答えることが出来なかった。
 結果、ブルーベルが助言してくれた「やってみたい魔法を自ら師匠に提案してみる」という弟子の勇気は、図らずもここで発動されることになってしまった。
「程度によって可能だ」
 弟子の問いに、エヴァンズは冷静に返す。
「窓ガラスの強化は範囲としては物体操作。君は現状、物体操作魔法の行使に問題はないので、行使範囲内」
 そう言って上げた片手に、壁の棚から本が抜け出てきて収まった。テアは面食らったが、我に返って師匠の机に近寄った。
「防御強化は大きく分けて二種類。魔力による変異を防ぐ変異抑止、魔力以外による衝撃から守る破損防衛。破損防衛ならどの程度の衝撃に対応するかでルブの割合と難易度が変わる。行使するのはどの種だ?」
 エヴァンズが開いた本にはどうやら防御魔法の手順等が記されているようだったが、そこまでの丁寧で迅速な指導をテアは想定しておらず話の早さに若干戸惑っていた。
 師匠が弟子のやる気を嬉しがっているかその表情からは窺えないが、少なくとも無下に扱ったりしないのは理解した。
「あの、えっと、魔力以外の方の、嵐に耐えられるくらいのものが……」
 テアは緊急会議の件を説明した。
 聞き終わったエヴァンズが防御強化魔法の手順を解説し、手始めに研究室の窓に行使することになった。
「(I.240/V.220/A.490/T.600/L.10……)」
 杖を構えたテアは頭の中で純素割合を再確認した。数字の羅列を身の内に浸透させ魔力への感覚を研ぎすます。
「窓よ、その身に嵐に耐える守りを」
 唱えると、行使の成功を知らせるルブの光が瞬いた。
 が、次の瞬間、窓にはめこまれていたガラスにヒビが入った。靄のように広がり全体を白く染めると、砂に等しいガラス片となり床に散って積もった。
 さらさらとガラス片が鳴る音が落ち着いて、エヴァンズが冷静に言う。
 「強化がかかりすぎてガラスが形を保てなくなった。まるっきりの失敗ではない」
 驚いて絶句し、失敗に青ざめていたテアがぎこちなくエヴァンズに顔を向けた。
 風雨が吹き込んだが、師匠の悠然とした様子はそよ風とでも思っているようだった。
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