魔法使いの弟子の勤労

ルカ

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第十二話 転覆の予感

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 医者の診断と師匠の助言に従って、テアは仕事を休んだ。
 学校への連絡はエヴァンズがした。問題なく了承された事、室長から「こちらの事は気にせずお大事に」という簡潔な伝言を預かった事を、テアは彼から聞いた。
 休養の始めの内はとにかく眠るしかなかったが、日数を経て、不調なく起きていられる時間が増えていった。

 平日の昼間の商店街は穏やかな空気感で、店先に椅子を出し雑談をする店主たちの姿も見える。テアは石畳の歩道を一人で歩いていた。
 抱えている袋の中の購入品は、メイジーに買い物を頼まれた果物の瓶詰だった。
「急ぎの物ではありませんので、お知り合いとお茶をされてきても、どこかお寄りになってきても問題ありません」とも言われている。
 体調が改善してきたテアに医者はリハビリとして外出を勧めたのだが、彼女の場合、家の周囲をぐるぐると回ってすぐに帰宅してしまう。それは体調の問題ではなく、皆が働いている日中の理由ない外出に後ろめたさを感じていたからだった。
 メイジーのことだから、その後ろめたさを汲んで買い物を頼んでくれたのかもしれない――とテアは歩きながら思った。
「(うわっ)」
 突如街の景色が滲んで慌てた。涙が流れ落ちないうちに眼鏡の下をこする。
 この間エヴァンズの前で大号泣して以来、何故かテアの涙腺は全くもって『ポンコツ』になっていた。ふとした瞬間に水漏れしてしまう。今なら噓泣きの芸すらこなせそうだった。
「(これ困るな……仕事とか修行の時に起きちゃったら――)」
 そう考えて、休止状態になっている両方の事が胸を衝いた。特に修行については――テアは自分の生活に、ぽっかり穴が開いてしまったような気になっていた。
 師匠であるエヴァンズと過ごす時間は以前に比べればめっきり減ったものの、夕食後の時間に学校の様子を聞いたり、メイジーと一緒にした庭いじりについて報告したり、他愛のない会話をしている。それだけでもテアは不思議と安心した心地になる。
 しかし、それだけで穴が埋まることは無かった。
 これは無くしてしまってからテアが気付いたもので、修行、というより、仕事も修行も含めての〝魔法を使わない日々〟は、自分にとって手持無沙汰で隙間だらけだった。
 これまでを振り返ってみれば――魔力への感覚を研ぎ澄ます時の静けさ、新たな魔法を得た時の心の躍り、行使の瞬間の何とも言えぬ騒めき――それらから離れてしまうなど、今思えば考えたことすらなかったのだ。
 ただの手段や義務であれば生じない、この懐かしさと手放し難さは何なのか――と思いを巡らせかけた時、足が止まった。
 何故か不安が湧いて出た。
 テアは戸惑ったが、視線を下げたまま袋を抱え直すと、石畳を小さな歩幅で歩き始める。
「(もう帰ろう、かな。でも、せっかくメイジーさんがああ言って――)」
「ブライアントさん」
 テアは驚いて顔を上げた。前方に人が立っている。それは見慣れた顔ではなかったが、たった一度会っただけでも忘れることなど出来ない人物だった。
「あっ! マ……マーティンさん?」
 曇り空の下で髪と瞳の明るい色が際立っている。体躯をベルトで締めた軍人らしいロングコートが一層目を引いた。
 テアの前に現れたのは、師匠の兄弟弟子、ウィリアム・ウィーレベッカ・マーティンだった。
「覚えててくださったんですか。嬉しい」
 晴れやかな笑顔のまばゆさに、テアはつい目をしばたたかせてしまった。
「幸運です。ここで出会えるとは思っていませんでした――よろしければ、お茶でも?」
「え? あ……」
 テアは戸惑ったが、メイジーに言われた事を思い出した。
 師匠の兄弟弟子からの誘いを断る意思も理由も無く、テアは誘われるまま商店街を少し出た所にある喫茶店へ彼と赴いた。路面席で向かい合って着席する。
「この間は夜更けに失礼いたしました」
「いいえ……あの、マーティンさん」
「ウィリアムと呼んでください。ウィルでも。私も名前でお呼びしても?」
「ア、はい」
 ウィリアムは微笑んだ。
「それで、何でしょうかテアさん」
「あ。あの、エヴァンズ先生なら、お仕事中なのでお家に帰るのはもう少し時間が……」
「ああ、構いません。彼に会うために来たのではありませんから」
 店員が二人分の紅茶を運んできて、軽く礼を言ってからウィリアムが続ける。
「実は彼とは諍いの最中でして、進んで会う気は起きないんです」
「諍い?」
「ご心配なく。よくある事ですよ。それに私が会いたかったのはテアさんです」
 諍いというのがテアは酷く気になったが、碧い瞳は構わず涼やかにこちらを見つめている。テアはなんとなくたじろいで真っ直ぐに顔を向けられなかった。
 テアがリーブラに来てから最も見慣れている男性といえば己の師匠だが、それと比べるとこの兄弟弟子は年代と背丈以外の全てがあまりにも違う。
 軍人という印象よりも威圧感の無い顔つきは涼やかで、物腰は礼儀正しい中に愛想の良さを感じる。加えて、その容姿はどうしても人目を引くらしく先ほどから路面席の横を通り過ぎる人々――特に女性――が彼へ視線を投げるのにテアは気付いていた。
 あまり居心地は良くなかったが、本人は慣れたものなのか余裕でいる。彼がカップを口元に運ぶのを見て、テアも真似をするように手を付けた。
「貴女との事をオリヴァーから聞いていて、私にも弟子が出来たような気持ちでいたんですよ。貴女は特別なんです」
「そんな、キョウシュクです」
 師匠が難なく名前呼びされているのを耳にしたのは初めてで、本当に長い付き合いの間柄なのだと実感した。
「単に貴女の師匠が私の兄弟弟子だからというだけではなくて――テアさんは〝源脈〟というものはご存じでしたか?」
「げんみゃく……? いいえ」
「血の繋がった家族の〝血縁〟、その魔力版と捉えていただければいいでしょう。師が弟子を取り己の魔法を授けたなら、師弟の魔力は同じ方向に流れる一つの〝すじ〟となる――」
 言いながらウィリアムの指が宙に線を引いたのを、テアは目で追った。
「祖の師匠から末端の弟子へと繋がっていくその魔力の流れこそを、血よりも魔法使いは尊ぶ、という古い思想です」
「魔法使いの……古い思想」
「今の私達の中にも残っていますよ。黄道十二宮会の師弟申請は行きましたね?」
「はい」
「あれなどはいわば公式の家系図作りです。単なるお役所仕事に格落ちしてきていますが、意義深いものとして百代以上を保っている大きな源脈も少なくありません。それと――」
 テアに向けて、ウィリアムは自分の右耳をとんと指でさした。ゴミでも付いていたかと思ったテアが慌てて確認すると、耳輪が触れた。
「師弟の耳輪の役割は源脈の誇示と証明。婚約指輪にも似ています。互いの連帯と責任、あるいは有望な弟子を他に手出しされない為など――大きく違うのは師匠から耳輪を外された、つまり破門された瞬間に消滅するぐらいでしょうか。ただ、似ていようが婚姻も血縁も、源脈には到底適わないと魔法使い達は考えていました」
 テアはいつか師弟関係を「結婚より重要」と言ったフィッツレイモンドの事を思い出した。あれは彼女の個人的見解ではなく、おそらくこの見地に基づいたものだったのだ。
「元の意味はそうであっても、それが魔法使いの作法だから、以上に考えていない者も少なくありません。少なくともオリヴァーにとっては権威的で取るに足らないようです。私達の師匠は無名で彼女自身も拘りが無かったですし、源脈としては新興というのもあります」
「無名……?」
「誰の弟子にもならなかった、魔法名の無い魔法使いの事。同時に彼女こそが私達の源脈の〝祖〟であり、オリヴァーがどう捉えていようと彼の弟子になったテアさんは、私と同じく祖である彼女の源脈を汲んでいるという事です」
「そう、なんですか……」
「私達の師匠に興味が湧きましたか?」
「エッッ。その――」
 そんなに聞きたがりな顔をしていたかとテアは恥じた。
「――はい。どんな人なのかと、とても……」
 エヴァンズから少し聞いて以来、彼の師匠がどんな人柄だったのかは強く興味の湧くところだった。
 ウィリアムは微笑んでからカップを置いた。
「師匠の事を貴女に伝えられるのは嬉しいんです。残念ながら、彼女は少し前に病で亡くなりましたから」
「え……」
 それはエヴァンズとの会話からは得られなかった情報だった。触れてはいけない話題だったかと戸惑うテアの一方、ウィリアムは軽やかに語りだした。
「私達の師匠はそれはもう――『めちゃくちゃなひと』でした。好物は己の享楽と他人の葛藤。行動の判断基準はおもしろいか、おもしろくないかの二択。そのようだから、どんな無益も顧みない善人のように見える時も、どんな情も歯牙にもかけない悪人のように見える時もあります。予測なんて誰も出来ない。極めつけに、彼女の死を弟子達が知ったのは既に墓に収まった後でしたが、どうやら本人だけは事前に死期を悟っていたようなんです。本当に勝手な人でしょう? ですが反省も後悔も存在した事がありません。あのひとの選択はあのひとにとっては、いつでも正しいんです」
 テアはどう反応すべきか困った。
「言動は傲慢の権化のようでもあったけれど、それに見合う稀有な魔女でした。普通、行使できる系統には偏りが有るものですが、彼女はさながら歩く魔法博覧会です。普通なら有り得ない。兄弟弟子二人が分担してやっとの幅です。オリヴァーは主に人体操作を、私は恥ずかしながらその才が無かったので、その他を」
 彼が人体操作を使えないことを知ってテアは少し意外だった。
「……そもそも私が師匠の元へ送り出されたのは、まだ一族の誰も持たない人体操作を習得し源脈をより豊かにする為でした。私の身内は魔法使いが多くて、血縁と源脈が混沌とした家だったんです。その肝心の人体操作の才が無いとわかった時点で、一族は私を家に戻す予定だったんですが――私は自分の意志で、師匠の元に残りました」
 それまで手元のカップに視線を下げていたウィリアムは、テアに目を向けると少しだけ口角を上げた。
「師匠はどんな時も『おもしろいと思う方に行けばいい』と私達に言っていました。私にとって師匠との修行の日々は……めちゃくちゃでしたが、自由で、飽きることのない『おもしろい』ものだったんですよ、他の何処にも存在しない。だから残って、自分の出来る範囲で師匠の魔力の流れを汲みました。そのおかげで修了してからも、自分の望む道を見つけ自分の力で進むことが出来た。師匠が私に授けてくれたのは魔法だけではなく、この生き方。今の私は、師匠が導いてくれたから存在するんです」
「――大切な方だったんですね」
「ええ。今もずっとそうです」
 カップを傾けるウィリアムをテアは垣間見た。彼が真摯に師弟関係を語る様子は、自分も現在進行形の身としては感じ入るものがあった。
「ところで、テアさんは今日はお休みですか? 学校の施設管理、でしたよね」
「あ、ハイ」
「お仕事の方は、いかがですか?」
 テアは口ごもった。自身が休職中の身である事――おそらくその理由も――までは彼がエヴァンズから聞いていない事を悟ったが、言い辛かった。
「色々と気遣いがあって大変でしょうね。お察しします」
 話を切り上げたウィリアムに、テアは助かったが気を遣わせてしまったかと思った。
「私も今日は久しぶりの非番なんです。先月からロンドンに駐在していて――私の職業はご存じですか?」
「軍人をなさっていると。あの、大変なお仕事ですね」
「いえ。これはこれで面白いものですよ。やりがいがある」
 ウィリアムは席から見える街の様子に目を向けた。
「テアさんは、今現在蒸気や機械等がもたらしている生活の革新は全て、非魔法使い達が魔法を参考に夢想し実現に至ったものだ、という一説をご存じですか?」
「いいえ……そうなんですか?」
「あくまで一説です。世界に先駆けたこの国の革命的な〝変化〟は、魔法使いの存在無しに為し得なかった……という傲慢な一部の主張なのかもしれませんね」
 彼につられてテアも街中に目を向けた。花が彩る石造りの家々を背景に、買い物を抱えた人や馬車が通り過ぎていく。のどかだった。
「変化とは――総括すれば『選択の拡大』と言えます。薪、石炭に蒸気、ガスでも電気でも。もう『薪か魔法か』の中で生きる必要は無い。魔力が無い者も、文明と資本の力があれば容易く大抵の、もしかすれば魔法以上の事を成せます」
 ベイカー家の竈の事が頭をよぎったテアは、いつのまにかウィリアムの顔がこちらを向いていたのに気付いた。
「いくつかの国では人を乗せて空を飛行する機械の研究開発が進んでいます。近いうちにホウキの自立飛行の威光も翳るのでしょう。この世のモノの価値が相対で決まるというのなら、やはり魔法の価値も昔のままではいられない……というのは、あまりに短絡的で、現実を見ていない。稀有な魔法に限った話でもありません。火起こしが出来ない過酷な環境や水の補給が絶たれた前戦において、純魔法が粗末にされるでしょうか。文明の末路である戦争の場において魔法使いの価値は、絶対です。それが非道徳的で致命的な場であればある程尚のこと。そういうモノ、なのです。私の仕事は」
 戦争、という響きは街ののどかさとあまりに対照的で、テアは不穏な気配に怯えた。しかし、見つめるというよりは最早テアの中を覗き込むようなウィリアムの視線に、強く捉えらて身じろぎが出来ないでいた。
 その時だった。何かが派手に割れる音が辺りに響いた。
 驚いたテアが目の前の軍人からそちらへ顔を向ける。ウィリアムの背後の席で、店員が運んできた陶器のシュガーポットを床に落としたのだ。
 謝る店員を、客の男性が制止し手を伸ばすと
「(あ!!)」
 ひっくり返って割れたポットに修復魔法を行使した。テアは咄嗟に目を瞑ったがルブの光が瞼の裏に透けた。
「……テアさん?」
 直視は免れた。大事には至らないはず――と思いながらも、目を瞑るテアの心臓は早鐘を打ち始めていた。眩暈は軽いが息が苦しくなり始めた。居間で倒れた時の事が頭をよぎる。
「(――嫌、またあんなのは、怖い)」
 項垂れてテーブルに肘を付いた。視界の端から光が浸食し始め――
「!」
 テアはテーブルの上の手の感覚に目を開いた。
「テア。わかるか?」
 息苦しさの中視線だけを向けると、その手を握っていたのはウィリアムだった。
「我を失うな。手の感覚に集中を」
 手を包む力強さに、混乱に支配されかけていたテアの意識が目を覚ました。しかし手の感触と息苦しさの中で別の記憶が頭をよぎった。
「――暴発が、するかも、ッ、触ら……」
「心配ない。何も不安に思わなくていい」
 テアはなんとか顔を上げた。ウィリアムに動揺は無く、見つめる瞳は澄んでいる。
「吸うよりも吐く息に注意を。長くゆっくり。そうだ」
 テアは縋る思いで従った。その様子を見ながら、ウィリアムが落ち着いて言い聞かせる。
「それに、俺はきっと君が思うよりかは弱くないさ。もし暴発が起きたって構わない。人体操作でも、何でもかければいい。君の魔法で傷ついたりしない」
 惑うテアに、ウィリアムは何でもないように笑ってみせた。
 なんとか回数を重ねるごとにその呼吸は深くなっていった。
 やがて酸素が取り込まれる実感が出来るようになって、項垂れていたテアが上体を起こした。
「――ん。手の熱も戻って来たな」
「あ……ありがとう、ございます……」
「ほら、言っただろう。心配ないって」
 ウィリアムは握っていた手をテアに寄せてから離した。
 テアは余韻で胸を抑えていたが、呼吸は落ち着きつつあった。思ったよりひどくならなかった事と、ウィリアムの対応のどちらに対しても少し呆然としていた。
「長話に付き合わせてしまって申し訳なかった。立てるか?」
「はい……」
「送ろう」
 店を出た二人はエヴァンズ邸に足を向けた。ウィリアムは車道側に並びテアに合わせてゆっくりと歩いた。
「……あの」
 それまで黙って歩いていたテアが口を開く。
「さっき起きた事、エヴァンズ先生に、話しますか……」
 二人の横を馬車が通過し、車輪と蹄の音が近付いて遠ざかった。
「お伝えした通り、彼とは今気まずい仲でしてね。私が来たことはあまり知られたくない。なので、今日の事は私とテアさんだけの秘密にしておいていただけると助かります」
 テアが見たウィリアムはにこりと笑ったが、その笑みはすぐに消えた。
「……テアさん、もしかしてルブの光を目視するとああなるんですか」
 テアは動揺で目を丸くする。
「――どうして」
 ウィリアムは少し考える風に顔を正面へ向けた。
「貴女の力になれるかもしれません」
 立ち止まると、コートのポケットから何かを取り出しテアに差し出した。
「改めて連絡します。これは転字帳。魔法で文章のやり取りができますので持っていてください。鳥を使うよりは手軽でしょう」
 テアが受け取ったそれは小さなメカニカルペンシルが付属した、掌ほどの大きさの金属表紙のメモ帳だった。
「今日はここまでで。あまり家に近付くと使用人さんにまた睨まれてしまうかもしれませんから。もし、また症状が出たら私の対処を思い出してみてください」
「はい。あの、本当にありがとうございました。助かりました」
 恐縮するテアにウィリアムが微笑む。
「テアさんは素直で、とても良い子なんですね。それに強い」
 心当たりがなさ過ぎてテアは挙動不審になった。
「そ、そんなことは」
「貴女はもっと自分に自信を持つべきですよ」
「はあ……」
 目を白黒させているテアへ、ウィリアムはまた綺麗な笑みを向けた。
 二人は別れの挨拶を交わし、テアはウィリアムの後ろ姿を見送った。曲がり角に彼の姿が消えても、しばらく余韻で歩き出せなかった。彼は彼の兄弟弟子と違った。見た目の印象だけでなく、教えてくれる物事の視点も、何もかもが、あまりにも違かった。
 テアは彼から手渡された魔法のメモ帳に目を向けた。
「(あ、これ、メイジーさんが言ってたところの『紙片』か……)」
 応えてはなりませんよ――と注意した使用人の事を思い出し、逡巡してから、それを手持ち袋の奥にしまいこんだ。


「――と、ナツメグと、キャラウェイシードと――」
 晴れた日の午後。エヴァンズ邸の三人は居間に集っていた。大人しく並んでいる師弟の前で、使用人が製菓の材料の点呼をしている。
 ――その光景のきっかけは前日のことだった。
 昼過ぎの居間の卓で、メイジーは繕い物を、テアは湯気の立つココアをすすって眼鏡を曇らせていた。
 ココアは普段ならば朝一番の栄養源として朝食に供されるが、近頃のメイジーはそれのみでは飽き足らず隙あらばテアに提供している。
「ブライアント様は、シトロヴィア・ケーキはお食べになるんですか」
 使用人の問いかけでテアはカップを置いた。耳慣れない言葉だったが商店街を歩いた折、店の張り紙にその字面を見たことを思い出した。
「いいえ。リーブラの名物か何かですか?」
「魔法使いの集落でならありふれたものです。彼らの伝統行事で年に一度のシトロヴィア・デイに食べる物で、今年は再来週の二十八日」
 ウィンフィールドには無かった行事だとテアは思った。同時に、それが学生合同階級試験の翌日であるとも。
「本来は子供が大人の下でケーキを手作りするところまで含めての行事だそうです。毎年この家では出来合いを夕食のついでにお出ししていただけで、エヴァンズ様はどうせ製菓になどご関心はありませんし、そもそも主役の子供がいませんし。ですが――」
 メイジーは縫物から目を離してテアをじっと見た。
「お作りになってみますか?」
「え」
「魔法使いの行事というのを、ご経験なさってみるのもよろしいかと」
「子供という歳でも……」
「私やエヴァンズ様から見ればまだまだ新芽でございます」
 テアはなんだか恥ずかしかった。
「詳しいレシピは私が製菓店に聞いてまいりますが、伝統に則れば調理の際は魔法使いの大小が必要とのことですし、エヴァンズ様もお誘いになってみますか?」
「エヴァンズ先生を? お忙しいんじゃ」
「明日は休日です。ケーキは堅焼きして一週間以上熟成させる物ですし、ブライアント様も復職なさってお忙しくなる前で、万事丁度良いのではないでしょうか」
 使用人はそう言って、手元で玉止めした糸をハサミでぷつりと切った。
 その晩、メイジーがエヴァンズへ声をかける際テアはどぎまぎしていたが、師匠は淡白に「そうか」「わかった」と参加を承諾した。興味が有るおかげなのか全く無いおかげなのかテアにはわからなかった。
 台所は三人が入ると詰まるので、日の明かりが入る居間を臨時の作業場とした。卓上に材料や道具が並べられ、いよいよ行事が始まろうとしている。
「――ラム酒漬けレーズン。それに魔法使いの大と小。はい。必要なものは全て揃っておりますね」
 メイジーの点呼が終わると、それまで黙って立っていたエヴァンズが口を開いた。
「ナッツは入らないのか?」
 横にいたテアも驚いたがメイジーはもっと驚愕した。彼が調理に口を出すなど、天変地異の前触れかと思われた。
「――はい。リーブラの場合は入らないと。地域差があるものだと製菓店のご主人が言っていました」
「そうか。入っていなかったのか」
「(毎年食べさせてたはずなのに今気付くんです!?)」
 使用人はこの男が主人でなければどうにかしてやりたかった。
「もしかして、エヴァンズ先生も作ったんですか? 子供の頃に」
「ああ。シトロヴィア・デイは古の魔法使いに由来する、魔力の成熟を願う日。若年は純魔法が組み込まれた制作手順でケーキを作り、一年間の成熟度合を確認する」
「だから魔法使いの子供と大人で、なんですね」
「(……なるほど。魔法教育に関する行事ですから、全くご興味が無いわけでもない、と)」
 弟子に説明するエヴァンズを眺めていて、メイジーは合点がいった。
「あ。だったら私も――純魔法で?」
「手動でもいい」
 メイジーは、テアとその師匠の顔を見た。休養の間テアは全く魔法を使わないでいた。
 逡巡する様子を見せてから、弟子はおずおずと口を開いた。
「純魔法なら眩暈は起きないですし、今日は体調も良いですし、本当の本当に。あの……もしよかったら――魔法が出来るか、見ていてもらっても、いいでしょうか」
「ああ。わかった」
 師匠の悠然とした承諾で、テアは顔を上げた。
「杖、取ってきます!」
 跳ねるように居間を出たテアを見て、メイジーは「及第点ですが、鍛錬の成果ですね」と内心で誇った。
 テアが杖を手に戻ってくると、三人は早速作業を開始した。
「ブライアント様、卵黄も混ぜてください」
「はい」
「湯煎にはこの鍋を」
「エヴァンズ先生、ここで水魔法ですか?」
「ああ」
 久しぶりの魔法行使は緊張したが師匠が見ていてくれる安心感があった。その全てがテアは懐かしくて密かに心を躍らせていた。
 エヴァンズは弟子の監督役が主だったが、他の二人が手を離せない時はボウルを任されて無表情で中身を混ぜたりもした。作業中のテアが、メイジーにこっそりと話しかける。
「メイジーさん、台所にナッツってありますか?」
「ございますよ」
「あの、入れたら、変ですかね……」
 ためらいがちに言うテアを眺めてメイジーが答える。
「いいえ。きっと美味しいと思います」
 作業を経て数時間後、ケーキが焼きあがった。その仕上げに魔法使いの大小二人がそれぞれ土魔法・抽出で作ったネトルの葉の形の細工をケーキに添えた。
「テアの抽出はよく成形出来ている」
「ええ。葉の形が大変繊細で、ネトルそのもののようでお見事です」
「そ、そそそんなことは……」
「エヴァンズ様のは何でございましたっけ? ブーツ?」
「ネトルの葉だ」
 主人と使用人の真顔のやりとりにテアは小さく吹き出してしまい、慌てて口元を隠した。大人二人の視線が向いた。
「どうして泣くんですか!? 笑ったと思ったのに」
 メイジーが驚きの声を上げたので、テアも目を丸々とさせた。
「エッ、あ。あの私、なんだか目がポンコツになったみたいで、あの、泣いているわけじゃないんです」
「〝涙腺が緩んでる〟と言うんですよ。ああ、台布巾で拭かないで!」
 メイジーがハンカチを押し付ける。テア自身も、吹き出した拍子に落ちた涙の意味が分からず戸惑っていたが、気丈に振舞っていた。
 エヴァンズはその様子を黙って見つめた。

 その夜の、夕食の終わりの頃だった。
 ケーキ作りは無事に終わり、当日の実食を待つのみとなった。臨時作業場の役目を終えた居間は整然とした姿を取り戻している。
「テア、この後もう一度居間に来てくれ」
「はい」
 テアは飲んでいた紅茶のカップを置いた。改まって何だろう? とエヴァンズに顔を向ける。次の彼の一言に固まった。
「魔法を教える」
 夕食を終えた後、自室へ戻ってテアは扉を閉めた。
 完全に扉が閉まった瞬間、それまで物静かに歩いていたテアは高揚のあまり部屋の中を駆けた。
「(修行が再開する! 魔法の!)」
 既に医者から復職の許可は出ていたが、修行の再開について師匠から聞くのはこれが初だった。逸る気持ちのまま棚から紙束やら辞典やらを引っ張り出し杖を掴むと居間へ向かった。着席して少し経つと、エヴァンズが現れた。
 彼は席に着いてから、手に持っていた一枚の紙を卓上に置いた。浮足立つのを抑えながらテアはその内容をちらりと見た。
「(純素割合……? 全魔法の座学かな)」
「これは、人体操作の割合だ。五感混乱のいくつかと、記憶の忘却・改変」
 テアは思わず師匠の顔を凝視した。
「人体操作の割合は辞典には載っていない。これは私の感覚で記したものだ。誤差はあるかもしれないが、参考程度にはなる」
「(そんな、貴重なものを……私に?)」
「君のルブへの状態と、これまでの修行内容を鑑みればまだ習わせることではない。段階を踏めなくてすまない。これは今習得すべきという話ではなく」
 冷静に告げながら、エヴァンズは卓上の紙をテアの方に寄せた。
「君が必要とした時のために、渡しておく」
「――……エヴァンズ先生、」
 テアは呟き、師匠の瞳を覗いた。その黒色はいつもと変わらず、どこまでも静かだった。
「(――どうして、今の私に、そんなものが必要な時が来ると思うんですか――何を、あなたは――知って――)」

 だめ! 聞いてはだめ!
 知ってしまったら、きっと何もかもがこぼれ落ちて、もう元には戻らなくなってしまう!

 テアの胸の内は千切れそうに対極を叫んだ。ひっくり返って割れたシュガーポットの無残な姿を思い出した。いつか聞いた雨音に紛れる泣き声が頭をよぎった。
 溢れ出そうな言葉を飲み込んで、エヴァンズから目を逸らす。手を伸ばし、引き寄せ、テアは純素割合の紙を受け取った。
 受け取ったが――その数字を素直に記憶へ刻み込むべきなのか、わからなかった。
 昼間の明るい喧騒が嘘のように、居間は夜の静けさで満ちているばかりだった。

「――十三時から三部が始まりますのでそれまでに受験者の確認を。試験監督の交代がありますからその間――」
 夕方の校庭を、クラブ活動や寮に向かう生徒達がちらほらと行き交っている。その最中で、職員達が明日の学生合同階級試験に備えて動線確認をしていた。
「――A会場とB会場に分かれてもらいますから、ブライアントさんはこちらで誘導をお願いします」
「ハイ」
 団体に連なっていたテアが返事をした。
 テアが施設管理室に復職してから約一週間が経っていた。今日まで問題なく勤務を続けられた為、当初の予定通り当日の誘導員を担うことになっている。
 運営本部職員の説明が他の誘導員に移って、テアはひとつ息を吐いた。その目がふと向かいに立つ職員達の内のある一人に定まった。それはいつもの無表情なエヴァンズで、彼も動線確認に参加していた。
 いつもであればその黒い眼をなんとなく眺め続けてしまうのだが――テアは彼がこちらに気付く前に、顔を逸らした。
「誘導はもちろんのこと、何か困っている受験者がいないかにも目を向けてくださいね」
 職員の説明に代わって総指揮官ガーディリッジ校長の咳払いが入った。その視線は時折だが確実にテアを捉えている。
「受験票の紛失、迷子、腹痛、あるいは不審者。彼らの今日までの努力を粗末にしたら教育機関の名折れ。何があっても滞りなく受験できるよう、当日は絶対に彼らを〝守る〟という意識でお願いしますよ」
「ヒャい」
 返事が裏返って、テアは口元を手で隠した。
 明日の確認が終わり解散となると、テアは一緒に参加していたスミス室長と管理室へ戻った。その道中、まとわりついて離れない校長の圧に、テアは意図せず長い溜息をついてしまった。
「校長先生のあれは食前の挨拶だ。重圧は丁度いい塩梅に受けておけばいい」
 横をのっそりと歩く室長が気怠げに言って、テアは自分の溜息に気付いて慌てた。
「あの、でも……確かに校長先生の言う事は、そうだなとは、思うんです」
 芝生の上で勉強会を開く生徒達を、復職後に何度も見かけた事をテアは思い出していた。エヴァンズの研究室に居る時に生徒が質問に来る事もあった。数日前に遭遇したアイリーンも受験生の一人らしく、テアも当日に会場にいる事を聞くと「がんばります!」と奮起していた。
 彼女らが報われてほしい、とテアは心から思っていた。
「でも私、純魔法しか使えませんし、もしも何か……守るなんて、私には……」
「今更何言ってるんだ」
 しまった余計な事を、叱られる、と思ったテアは咄嗟に室長の顔を窺った。
「施設管理の職務は学校の日常が、日常のまま続くように管理修繕していくこと。床磨きのひとつ、草刈りのひとつ、それで生徒の日々を守ってきた。ずっとやってきたことだろう」
 テアは直ぐには腑に落ちず呆けていた。上司がそれを横目に見る。
「手に余る事が起きたらエヴァンズ先生でも誰でも呼べばいい。適切な連携も仕事の内だ」
「あ……。はい」
 テアが我に返った時には上司は既に正面を向いていた。彼の言う事をはたして正しく理解出来たのか、曖昧なまま返事をした。
 二人は連れ立って、彼らの本来の職務へと戻っていった。
 その後、定時に勤務を終えたテアはエヴァンズと純魔法の応用について話しながら下校した。メイジーに迎えられて帰宅し、夕食を取り、居間で純魔法の実技を師匠に見てもらい、修行を終えると身支度し、翌日の準備をして、眠った。
 復帰したテアはまだ全魔法は避けているものの、無事に安定して規則正しい生活を取り戻していた。それは以前と同じの、仕事と修行の日々だった。
 ――表面上においては。


 朝霧の残る校庭に生徒達の姿はまだ見えない。代わりに数人の職員達が、学旗を校舎に掲げる作業に就いている。
 それを横目に、テアは校舎内の道順を最終確認の為ひとり辿っていた。
 階級試験本番の今朝は、いつものエプロンではなく私服の余所行き姿でいる。
「(第一部はAとBとCの会場が使われるから、ここで誘導して、受験票を失くした子がいたら本部の受付所に案内して――)」
 打合せ内容を振り返っていると、テアにじわじわと不安がせり上がってきた。
 果たして今日の職務を完遂できるか、全く自信が無かった。「もっと愛想よく」と言う校長の圧に鏡の前で口角を引っ張り上げて鍛錬もしたが、結局当日の緊張が全てを覆ってしまう。
「(と、とにかく、やるしかないんだから……)」
 奮起なのか諦めなのか微妙な気持ちのまま中央棟前を校門に向かって歩いていく。その途中で、テアは校舎脇の石畳に佇む黒い人影に気付いた。
 今朝も一緒に出勤した見慣れた姿だというのに、テアの身が少し固くなった。
「(エヴァンズ先生)」
 今日の彼女を緊張させている一端を担っているのは、彼でもあった。内勤が主の彼と顔を合わせる時間は少ないが、弟子の仕事ぶりで泥を塗るわけにはいかない。
「(――あれ? 先生達は中で会議中じゃなかったっけ)」
 テアが不思議に思っていると、薄い霧の中表情が見えるか見えないか程の離れた所に立つエヴァンズが、手招きをした。
「(? ……何かあったのかな)」
 それに応じテアが彼に近付くため歩き出すと、エヴァンズもローブを翻して歩き始めた。
 普通にすると距離が開いてしまうだけなので小走りで追う。エヴァンズはどんどん先へ行ってしまう。やはり何かあったんだ、とテアは思った。
 二人は順に門番の前を取り校門を抜けた。壁伝いにしばらく進んだところで、やっとエヴァンズが立ち止まった。
「エヴァンズ先生?」
 テアは少し息を上げながら、追いついた師匠に声をかけた。エヴァンズが振り返る。その表情はいつもと変わらず、冷静で悠然として、黒色の瞳は凪いでいて――
 崩れた。
「――~~~~!!!!!」
 テアの悲鳴は声に成らずただ喉を突き抜けた。
 見慣れたエヴァンズの、頬が、瞳が、髪が、ぼろりと崩れて無残に落ちた。崩壊は止むことなく続き、あっという間に師匠の全ては形を失い重力で地面に叩きつけられた。
 テアは激しい動揺で平行感覚を失くした。立っていることもままならなかったが倒れはしなかった。後ろに立つ人物が、両手で彼女の肩を支えたからだ。
「心配ない」
 テアは張り裂けそうなほど目を見開き戦慄いていた。口を手で抑えていなければ身体中がひっくり返って出てきそうだった。
「あれは貴女の師匠ではありませんから」
 定まらない視線をなんとか動かして、師匠だったはずのものに焦点を合わせた。そこに生命の面影は無くただ土塊のようなものが地面に伏している。
「少し、私とお出かけしましょう。テアさん」
 ウィリアムが、美しく微笑みかけた。
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