魔法使いの弟子の勤労

ルカ

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第十三話 ある魔法使いの生について

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 一番近い集落から馬車に乗って二十分ほど、周囲ではいくつもの丘がなだらかな高低差を作っている、林の中。その館はあった。
 館の女主人によって客間へ通されたエヴァンズ夫人はその上等さに身がすくむ思いがした。調度品は優美な装飾が施され所々に金がさりげなく輝いている。
「どうぞ、お座りになってくださいませ」
 促されるまま、連れてきた息子と共にソファに腰かけたエヴァンズ夫人は、テーブルを挟んで相対する女主人に顔を向けた。
 その顔つきは幼げな垂れ目と紅が縁取る口の大きさが不釣り合いで端正とは言い難いが、目を惹く妙な魅力があった。それに加えて後頭部で豊かに纏められたブルネットの髪や、淑女然とした振る舞いは彼女の印象を絢爛たるものにしている。
 人伝いに聞いていた年齢より若く見えるが、年齢不詳というのがエヴァンズ夫人が受けた印象だった。
「あの、改めまして、初対面で突然訪ねてきたご無礼をお許しください。私があなた様の事を知ったのは――」
「ああ、わざわざご説明させるお手間をかけるのは恐縮ですわ。これまでも色んな方が様々な伝手でこの館を訪ねていらっしゃいましたから、気にしておりません」
 微笑む片手間に閉じた扇子を一振りすると、光が散って卓の上にティーセットが出現した。エヴァンズ夫人が目を白黒させている一方で女主人は涼やかに勧めた。
「魔女の茶でよろしければ、どうぞ?」
 エヴァンズ夫人はこの女主人の噂を人伝いに集めた時に、彼女の異名も知った。
『人喰らいの魔女』
 それがこの女の形容。
 内心ギクリとしたが、引くわけにはいかないエヴァンズ夫人はカップを手に取ると口を付けた。微笑む女主人はそれを見てから口を開いた。
「それで、玄関口で仰いましたけど、そちらのご子息を私の弟子に、という目的でこちらを訪れになったと。そういうことでしたね?」
 母の横に座るオリヴァー少年は女主人に対し挨拶の一言も無く、ただ無表情でそこに居る。
「はい。オリヴァーは、息子は、魔法を持って生まれましたが一年前から使っていません。口も利けません。理由は――」
 エヴァンズ夫人は一年前に、オリヴァー少年の人体操作属性が発覚し親友との間に何が起きたか、自分達周囲が彼に何をしたかの全てを話した。
 女主人は実に悲痛という表情で「まあそれは」「お辛かったでしょうね」と適宜相槌を打ちながら、カップの取っ手を軽々と摘まみ口元へ運んでいた。
「――オリヴァーがこの状態になって、先生は魔法が彼を狂わせたのだと言いました。夫は医者をいくつも探しましたが、息子に一向に変化は無く、私は……私は、魔法のせいで息子がこうなったのではないと、思います。オリヴァーにとって魔法は楽しみで、生き甲斐でした」
「奥さま、貴女も?」
 女主人からの突飛な質問に夫人は戸惑った。
「私……は楽しみも何も、嫁いだ先で重宝されるようにと、水魔法だけを、ですから……でも、オリヴァーは違ったんです。私が子供の頃、町の老人から聞いたことがあります。魔法はその力を捨てるか育てるか選ぶことが出来るけど、中には『魔法使いとしてしか生きることが出来ない』定めの者がいるのだと」
「ただ経年しても魔力が減るどころか増えていく体質の方が、稀にいるらしいですわね」
「この子がそうだったのなら……私達の過ちは、あまりに罪深い」
「ご子息からあなた方が魔法を力尽くで奪おうとした事――が?」
 扇子で隠した口元から魔女の声が響く。
「はい……そもそも、楽しみかどうかは知りませんけど、でも、自分の魔法を疎む魔法使いなんて……いるんでしょうか。魔法は自分と分けられるものでしょうか? 手足の延長、いいえ、いいえ。何て――」
「己の芯、魂の一部、とでも?」
「それを、そんなものを、特殊だからと言って他人がどうにかしようと思ったのが間違いだったんです。あんなに苦しませた。私達が、私が……こんな風にしてしまった、生きているのにまるで、死んだように……」
 エヴァンズ夫人は苦し気に息子の無表情を見つめた。女主人は口元を扇子で隠したままその様を眺めている。
「思ったんです。この子にとって、魔法を取り戻す事こそが、自分を取り戻す事なのかもしれないって。だから今日まで探したんです、手段の限りを尽くしてこの一年。この子が苦しむことなく魔法と生きていけるように、その術を教えてくれる方を。私が辿り着けた人体操作の魔法使いは貴女しかいなかった。貴女しか!」
 懸命な母親を女主人は静かに凝視していた。
「オリヴァーに魔法を教えてやってください。どうか、どうか――この子を、救ってください」
 直後の不可思議な音に、エヴァンズ夫人は女主人が咳き込んだのかと思った。それは違った。女主人は笑いを堪えることもせずに噴き出したのだ。
 天井が突き抜けるかと思われるほど豪快に魔女は笑った。
「――――はぁ、失礼。ついおもしろくて。今までもこの館には弟子志望共が蠅の幼虫のように湧いて出たけれど、『救ってほしい』だと? よりにもよって人喰らいの魔女に!? そんな動機を述べたのは貴女が初めてだエヴァンズさん。とんでもない傑作!」
 その豹変ぶりにエヴァンズ夫人は意味が分からず唖然とした。
 魔女の手の扇子がついと動くと同時にオリヴァー少年の周囲に光が散った。彼は大人たちの前で立ち上がりその場で優雅に回って見せると、歯を覗かせて笑った。
「ふぅん。筋は死んでないのか。熱病が原因ではないな」
 魔女は彼にひとしきり喜怒哀楽の表情をさせてからもとの無表情へと解放してやった。魔法が解けたオリヴァー少年は特に反応もなくソファへ身を戻した。母親は久方ぶりの息子の笑顔に感動する暇もなく、ただ呆然とするしかなかった。目の前の魔女の異名が、人を食ったような偽りの淑女ぶりからくるのか、人を支配し弄ぶその魔法からくるのか、エヴァンズ夫人には知れなかった。
「貴女の演説実に楽しませていただいたエヴァンズさん。対価としてご子息を弟子とし、我が魔法の全てを授けるのもやぶさかではない」
「――ほ、本当、ですか……?」
「だが、エヴァンズさん」
 魔女は身をのり出して夫人へ顔を寄せた。
「ご子息が〝救い〟とやらを受けて見事甦ったとして、その彼が、貴女方の所へ戻るとは限らない」
「――え?」
「魔法使いとは実に薄情極まりない生き物だ。もし貴女が言ったようにご子息が『魔法使いとしてしか生きられない』定めの者であるならば、猶のこと。彼は血の拠る所など顧みず、ひたすら魔力の流れを飲みながらその波の行く先を追うことになるだろう。貴女は死に物狂いで我が子の生きる術を見つけ出してやったというのに、母子のその尊い絆は彼にとって思い出にすらならない。彼は人の子である前に、孤独な魔法使いなのだから。なればこの瞬間が、血を拠り所とする親子の別れの場となるかもしれない」
 魔女の瞳が細まった。
「それでもいいのか?」
 エヴァンズ夫人は今日一番の苦悶の表情を浮かべた。その身の内を引き裂いていたのは彼女の人生で最も苦痛を伴う葛藤だった。
 しかし、答えを出すのに時間はかからなかった。母親はたとえ己が魔女に食われようが構わない覚悟で今日ここを訪れていたから。
「はい。それでオリヴァーが生きていけるのなら、構いません」
「そうか」
 魔女の目尻が垂れた。この耐え難き試練を楽しむ魔女の非道徳を非難する余力は、エヴァンズ夫人には無かった。頭を垂れた。
「どうか、オリヴァーを、よろしくお願いします。生きていけるように、どうか……レベッカさん」

 そうしてオリヴァー少年は魔女の館へ預けられることとなったが、すぐに弟子となったわけではなかった。
「ひと月。様子を見て魔法を行使するそぶりが無ければ弟子にせず送り返す」とレベッカは条件付けて母親を見送った。
 オリヴァー少年は命令すれば従順だが魔法だけは使わなかったので、本来であれば魔法の修行に費やされる時間に、レベッカは別の事を教え込み始めた。
「少年。私はマナーというものを好んでいる。マナーは思いやりなんぞではない。スポーツ、ゲーム、反射神経だ。心底どうでもいい相手に身振り一つで敬意を捧げる人間関係の造花。上っ面を取り繕って机の下で足を踏み合う紳士淑女の武闘。観戦も参戦も実に楽しい。お前は仕込み甲斐があるぞ。お前のような無礼で情緒もクソも無い人間が、然も思いやりに溢れた紳士ぶって周囲を誑かすさま、ふっふふふ、想像で既におもしろい」
 オリヴァー少年にレベッカの独特な趣味など理解出来るものではなかったが、どうでもよかった。ただ黙って教えを受けるだけだった。彼は自身の衣食住にはとんと無頓着だったが、礼儀作法教室に巻き込まれる形でかろうじて生活の規律が取れていた。
 それ以外は基本的に放任で、レベッカは戯曲を読み耽ったりパイプ煙草をふかして過ごしたり、一人で外出して翌朝に帰宅することもあった。
 ある日には、レベッカは突如オリヴァー少年と同世代の少年を連れて館に帰ってきた。
「ウィリアムだ。これの親類に預けられた。お前たちの内早く人体操作を使ってみせた方を弟子にする。私は寝る」
 そう言って欠伸をしながらレベッカは寝室に引っ込んでいった。
 何故レベッカが突然弟子候補を増やしたのかも、彼女には愛想の良かった金髪の少年が何故こちらを睨んでくるのかも、オリヴァー少年は知ろうとするまでもなくどうでもよかった。ただ黙って住人の加わった館での暮らしを続けるだけだった。

 期限のひと月まで、あと少しという日のことだった。外出からレベッカが帰宅すると居間が荒れていた。その中心にいたのは半泣きのウィリアム少年で、何故かその場でスキップし続けている。
「おや随分楽しそうだな。相方は何処に遊びに行ったんだ?」
 レベッカが扇子を一振りし人体操作を解除してやると、やっと足が止まったウィリアムが口を開いた。
「オリヴァーが、アイツ、喋れるのに嘘ついてたんです! 僕に魔法をかけて逃げて……」
 レベッカの不在中、弟子候補二人は居間で留守を担っていた。ウィリアム少年が杖を片手に自主鍛錬をしていた一方で、オリヴァー少年は窓辺の椅子に腰かけてぼうっと過ごすだけだった。我慢ならなくなったウィリアム少年はつかつかと彼に歩み寄った。
「オマエがいつまでも横着だからレベッカさんが魔法を教えてくださらない! 礼儀作法ばッかり。なんであんなのに僕まで付き合わなきゃいけないんだ!? オマエも魔法使いなんだろ、レベッカさんの弟子候補なら鍛錬ぐらいしろよ!」
 館生活での鬱憤をぶちまける相手をちらりと見ただけで、オリヴァー少年はうんともすんとも言わなかった。それがウィリアム少年をむきにさせた。怒り心頭の彼がオリヴァー少年の手に無理やり杖を持たせようとすると、初めてオリヴァー少年が反応を示した。それは明らかな拒否で、逃れようとする彼を追いかけまわし、椅子が倒れ花瓶が落ちた。花瓶から零れた水で足を滑らせたオリヴァー少年に迫った。
「来るな!」
 オリヴァー少年が振り払うような動作をすると光が散って、ウィリアム少年の身体が急に後ろに引いた。
「!?」
 自分の意思とは関係なくその場で足踏みが始まり、指の一本も自由にならなくなった。初めて受ける人体操作の感覚に彼が愕然としている内に、オリヴァー少年は居間を飛び出した。
 館を出たオリヴァー少年はひたすら走った。どこに向かっているかは分からなかった。全力で走るのは久しぶりですぐに心臓が悲鳴をあげたが、それでも立ち止まらなかった。
 限界を迎えて足を引き摺ることしか出来なくなった頃、木製の柵が彼の進路をふさいだ。奥では何やら工事をしている様子だった。オリヴァー少年はそこで力尽きた。
 その場に倒れこむと土埃が舞ってむせた。呼吸は細く、悲痛な叫びのような音が喉からしている。
「(ここで、おわり)」
 地にめり込むかと思うほど体は重く、血の気が引いた手足は凍ったように動かない。何もかもが信じられぬほど苦しくて、苦しくて、心臓が止まってくれた方がいっそ楽だとオリヴァー少年は思った。瞼が降りていく。
「(もうどこにもいけない)」
 目が閉じると、真っ暗な――あの部屋と同じ真っ暗な――閉塞感が彼の五感を覆った。
 それが一瞬だったのか、何時間も経っていたのかは、彼には知れなかった。
「レベッカさん! いました、こっちです!」
 その耳に足音が届き、瞼がうっすらと開いた。
「おい! なにしてるんだよ」
 地面に手足をつき耳元で声を張るのはウィリアムだった。オリヴァーが目だけを動かして彼を見る。
「――レベッカさん、オリヴァー、なんか変です……」
 悠然と歩いてきたレベッカが、ウィリアムの後ろから覗き込む。
「〝魔力バテ〟か。準備体操も無しに張り切るからだ」
「医者を?」
「食べて寝れば大方治る」
 扇子を一振りすると、倒れているオリヴァーの前に食べ物の詰まった籠と水の入った瓶が現れた。ウィリアムがそれを掴む。
「ほら」
「もういい……」
「なにがもういいんだよ馬鹿!! 死んじゃうぞ!」
「この程度死にはしない」
「死なないらしいぞ!」
 ウィリアムがちぎったパンをオリヴァーの口に詰めた。飲み込めずもて余しているところに水が注がれて、飲み込んだ。
「……え、何だって?」
 何かオリヴァーが口を動かしたのに気付いてウィリアムが聞き直した。
「怖い」
 横たわるオリヴァーは確かにそう言った。
 戸惑っているウィリアムに代わって、レベッカが見下ろしながら問いかける。
「何がだ」
「魔法が怖い」
 その黒い瞳は誰の事も見つめていなかった。乾いているのに、泣いているかのように形だけが歪んだ。
 狂気が少年の心を殺してから、彼の人生は彩りを失くした。歓喜も葛藤も慈愛も喪失も、見失った。何もかもが曖昧で、わからなくなってしまって、どうでもいいものになった。
 そのはずなのに、どうしても姿を失くさないものがあった。
 恐怖。
 この身にとりつく魔法への恐怖。何もかも、自分すらも無意味にしてしまう、忘却魔法の恐怖。
 それはいつも背後から少年を見つめていた。見つからないように声を殺し過ぎ去ってくれるのを願った。それでも暗闇はいつまでも後ろにあった。逃げても逃げきれなかった。
 生きている限りこの恐怖が付きま纏うというのならもう生きていけない。なのに心臓は、簡単には脈打つのを止めてくれない。
「ぜんぶなんて、忘れさせるつもりなかった……」
 みじろぎもせず、声に力は無く、そんな彼にウィリアムはどうすればいいのか分からないでいた。
「教えてやろうか、少年」
 悠然とした声が降ってきた。
「恐怖に対抗する方法を」
 少年二人の目がレベッカを見上げる。
 開かれていた扇子を閉じた拍子に、彼らの前の柵が部分的に立ち消えた。
「それをひきずっておいでウィリアム」
 柵の内側へ歩いていきながらレベッカが言った。ウィリアムははたと「なんで僕がこいつのためにここまで……」と思ったが、レベッカの命なのでオリヴァーに肩を貸した。
 柵の中には鉄道の線路が敷かれていた。それに沿って少し進むと工事の音が間近になり、鉄材の山から作業員が顔を出した。
「オイ何してんだアンタら! 入ってきちゃ駄目だろ」
「汽車に乗って帰ろうと思っているのですけれど、ここから乗れるかしら?」
「ああ乗れるぜ、三か月後には。アンタの目が見えてんなら線路がここまでしか出来てないのがわかるんだろうが、それとも悪いのは頭の方か?」
「そう。ご案内どうもありがとう」
 扇子の奥で魔女は微笑んだ。
「線路が無いなら魔法で作ればよろしいのに」
 パチン、と扇子が閉じられたと同時に、光が連なって彼方へ駆けて行った。鉄の直線が草地の遠くまで一気に引かれる。次の扇子の一振で大きな光の塊が弾けて現れたのは、黒光りの蒸気機関車だった。
 オリヴァーもウィリアムも、集まってきた作業員達も、目の前の光景に全員が言葉を失くしていた。
「――ハ……な……魔法、か……? なんなんだアンタ……?」
「いいえ。知っているでしょう? この私を」
 口元で扇子が開かれると周囲で光が散った。
「はい。〝人喰らいの魔女〟様」
 人体操作にかかった作業員は胸に手を当て、気高き従者のごとく振舞った。他の作業員達もそれに続きレベッカの両脇に整列する。彼らの内数人は機関車に上る彼女のために手や背中を差し出し階段となった。
「行くぞ、少年達」
 二人は黙ったままだったが、ウィリアムがオリヴァーをひきずって、レベッカの待つ機関車の運転部へよじ登った。
 作業員達が見送る中、三人を乗せた機関車が走り出した。みるみる加速し大きくなる揺れに、少年二人は窓枠にしがみついた。
「窮屈だな。開けるか」
 頭上に掲げた扇子が降ろされると屋根が消えて景色が広がった。途端に強く風が吹き込んでレベッカの帽子は飛ばされてしまったが少しも気にとめてはいない。草原を走り林を抜けると前方を見ていたウィリアムが叫んだ。
「線路が無い!!」
 途切れた線路に機関車が進路を失う直前、その黒い塊は宙に浮いた。オリヴァーは思わず掴まっていた窓枠から顔を覗かせ下を見た。地面は遠ざかり線路は小枝のようで、終わりの見えぬ数の雲が丘の向こうに湧いている。
「うあはははは! なんだこれ! 夢でもこんなめちゃくちゃなのって無い!」
 風で金髪も服もめちゃくちゃになっているウィリアムが声を上げた。彼が館に来てから無邪気に笑ったのはこれが初めてだった。
「恐怖に対抗するもの。それは『知る』ことだ、オリヴァー」
 上昇から平行移動に移り風圧が緩んだところで、レベッカが口を開いた。
「恐れとは未知から生じる。底が知れればどうとでもなる。その魔法のなんたるかを〝全て〟理解し己の制御下に置けばいいという話だが、到底手の届かぬものであろうよ――が、望みはあるのだ」
 レベッカは扇子を閉じ、天に向けて両手を開いた。
「この世の何より優れた最高の魔女が、今、お前の目の前にいるのだから」
 空の眩しさがオリヴァーの目に映った。魔女を見つめる彼を、ウィリアムが口惜しさと諦めの混じった表情で見ている。
「だが弟子入りなんぞは好きにすればいい。お前たち二人とも血縁がそうさせようとしただけだ。行く道はお前たちが選べ、おもしろそうな方向をな」
「えっ?」
 ウィリアムが目を丸くした。
「僕も? ですか? 弟子はどちらか一人って話だったんじゃ。人体操作を使ったんだから、オリヴァーが……」
「あ? そうだったか。まあ一匹も二匹も大差ない。それにお前、だったらオリヴァーを探さずに放牧しておけば良かったんじゃないか?」
「それは――その、勝負というのは正々堂々と戦うべきであって、不戦勝などマーティンの誇りを……」
 口ごもるウィリアムをレベッカはおもしろそうに眺めている。
「好きにしろ」
 どちらともなく、少年二人は顔を見合わせた。

 この日以後、少年二人の右耳には師匠と同じ型の(一粒の宝石が輝く繊細だが豪勢な)耳輪が光る事となった。彼らの師匠は、好奇心旺盛な冒険家でもあり淡白な薄情者でもあり、その予測不能さに弟子達が巻き込まれることも多々あった。だが、地上に降りた機関車の中で行われた「これより、私は私の持つ魔法の全てをお前達に授ける」という師匠の宣誓だけは、不思議と律儀に守られ続けた。
「知らない事は聞け。何度繰り返そうが構わないが、知ったかぶってこの私の話を無為に聞き流すような真似をするなら、その勇気を称えて熱々のミルクティを馳走する。右の鼻穴から紅茶、左の鼻穴から牛乳、口から砂糖。喉で飲み頃だろうよ」
 オリヴァーはついぞなかったが、ウィリアムはティーポットを鼻穴に差し込まれるところまでいった。
 レベッカは趣味の礼儀作法には詳しかったが(教室は修業の合間も気まぐれに続き、不慣れなオリヴァーに対し育ち良いウィリアムはここで自尊心を保った)行事ごとには無関心で、シトロヴィア・デイも「ケーキを作らないなんて有り得るんですか!?」と驚愕するウィリアムがきっかけで初年度に一度だけ作った。製作中にラム酒付けのレーズンをレベッカがつまみ食いで食い尽くしたので、やけにナッツの食感ばかりが悪目立ちするケーキになってしまった。
 一方で、兄弟弟子二人の間では時折だが悶着が起きた。それは毎回、オリヴァーの目に余る鈍さや無頓着さに対してのウィリアムの小言から始まった。オリヴァーの無感動さは並の人間なら呆れて見放してしまう程のものだったが、ウィリアムの自己主張の強さもまた並ではなかった。熱量を増して癇癪を起こしたウィリアムがついに杖を持ち出すと、人体操作からの逃亡でオリヴァーの逃げ勝ちとなった。普段は上品に振舞うウィリアムが癇癪を起すほど苛立ち、無表情なオリヴァーがうとましさを滲ませて対処するのは、互いだけだった。
 喧嘩の頻度は経年と共に減っていき、鍛錬の一環としての疑似決闘がそれに置き換わった。恐怖への対処にオリヴァーは魔法の何たるかを師匠から一欠片も漏らさずに受けていった。負けん気の強いウィリアムは才の無かった人体操作とは別の系統を師匠から汲んでいった。
 その中で、初めは人体操作の逃げ勝ち一辺倒だった兄弟弟子対決は拮抗するようになり、稀に喧嘩が再発すれば長引くようになり、互いの魔力が尽きて年相応の単純な取っ組み合いに発展したこともあった。
 師匠はそんな兄弟弟子を操って中庭の池にまとめて落とした。
「素人のへろへろの取っ組み合いなど、見てて娯楽にならん」と言って。

 予測不能で気ままな師匠とその兄弟弟子たちの修行は、別個の冒険譚として仕立てられ得る濃さで年月を積み重ねた。
 やがて、兄弟弟子の年齢が十代の終わりに差し掛かった頃。
 修了が見えてきた二人は再び『行く道』を選ぶ時期を迎えた。
「俺は館を出たら軍で働く」
 話すウィリアムは馬車が行き交う通りの様子を眺めている。その日師弟は下界に下りて、店先の兄弟弟子は店内にいる師匠が出てくるのを待っていた。
 初めて聞く話にオリヴァーは無表情な顔を向けて訊ねた。
「どうして、軍人に?」
「持つ者が国に果たす当然の義務だ――というのは建前で、俺は師匠の源脈を確立させたい。百代千代と流れるものの〝祖〟として君臨するに相応しい実力の魔法使いが、あの人以外にいるか?」
 企みに笑んだ表情は瞳の色と同じく涼やかだった。
「本人が名声の類いに靡かなくとも、その魔力の流れを汲んだ後進達が活躍すればその名は自ずと刻まれる。まずは俺だ。弟子の一人二人じゃまどろっこしい、軍の魔法部隊を従える。分隊に大隊に師団軍団、果ては国か世界か? 俺が昇れば昇るほど師匠の源脈が裾野を広げていく。達成し甲斐があって面白そうだ」
 オリヴァーは興味が有るのか無いのか知れない『ふぅん』と言うような表情で、ただ兄弟弟子の語りを聞いていた。
「お前はどうするつもりなんだよ」
「どうしたらいいと思う」
「俺が知るか」
 そうか、と無表情に答えるオリヴァーに、言い放ってからウィリアムはほんの僅かばつが悪かった。
 見てくれはすっかり大人の紳士で、魔法だって人並み以上。だというのにこの兄弟弟子には、未だに幼子じみた危うさがあるのをウィリアムは知っていた。ここが間違いなく人生の岐路のひとつであるにも関わらず、立志の自我が見えてこない。
「だったら一緒に来るか?」という言葉が浮かんで、ウィリアムは己の迂闊さに舌打ちしそうになった。
「(めんどくさすぎる。そもそもこいつが誰かの下や上で働くなんて無理だ)」
 溜息を吐いてからオリヴァーに目を向けた。
「……この先もそばに置いてもらえないか、師匠に頼んでみろよ」
 ウィリアムは師匠を尊敬していたが、改善の見られない享楽主義や不摂生に関しては複雑で、心配の種だった。
「今更お前の鈍感さに期待はしないけど、師匠だって歳を取るんだし、何も無いよりはましかもしれない」
 それに厄介事は一ヶ所に集まってくれていた方が駆けつける労力も省けるとふんでいた。
「わかった。そうする」
 オリヴァーは無表情に頷いた。
「嫌だ」
 明くる日の気候の良い庭先のテーブルで、戯曲を読む片手間にレベッカが回答した。
「そうですか」
 向かいの椅子に座るオリヴァーは朴訥にそれを承った。嫌ならば仕様が無い。
「お前も誰かに従う必要はもうないだろう。やりたい事もやりたくない事も、人体操作が代わりに為すじゃないか、お前の為に何だって」
 本から顔を上げたレベッカは、愉快そうに目尻を垂らした。
「肉体の自由を奪って人間を家畜代わりにしたっていい。道義を忘れさせた女を飽くほど侍らせても、どこぞの妃を虜にしてもいい。為政者を操って戦を静めても荒ぶらせてもいいし、国を盗るなり作るなり、お前が王になったっていいんだぞ?」
「師匠がそうした方が良いと言うならそうします」
「それじゃあつまらん。筋の知れた新劇に興味は無い」
 レベッカはあっさりと本へ目線を戻した。
「ウィリアムは軍で働くそうです」
「ああ」
「働くって何ですか」
「別に何でもない」
 風になびいたページをレベッカの指が抑えた。それは師弟が出会った頃よりも細くなり、刻まれている線の数は増えた。
「何処かへ至る道すじのひとつに過ぎん」
「何処へ至るんですか」
「思い描いた場所か、思いもよらなかった場所か、果てまで分かりはしない。誰かの手に引かれ誰かの手を引いて、至極厄介な道中になることは確かだ」
 オリヴァーは『ふぅん』というような表情で聞いていた。
「何だお前、ウィリアムが勤め人になると聞いて人並みに焦りでもしたのか?」
「いいえ」
「だろうな」
 そう言うと師匠は本に顔を向けたままになった。
 彼女の指摘は当たってはいなかったが、オリヴァーの中に正体不明のわだかまりがあるのは確かだった。
 彼は恐怖を克服するために修行を始めた。いまや自らの魔法の力に怯えることは無く、その全てを制御出来るようになっていた。レベッカが教えてくれた事は本当で、確かに恐怖は霧散していった。
 あの時「もうどこにもいけない」と思わしめた魔法は今は逆に彼へ自由を与えている。師匠の言う程ではなくとも、確かに魔法があればどうとでもなる。何処へ向かうべきか真剣に案じなくとも別にどうでもいいのだ。
 しかし、それでは何かが欠けて足りなかった。
「焦り」でも「不安」でもなく、そのわだかまりを敢えて言葉にするとしたら「腑に落ちない」だった。

「昔、長期実験に誘われて黄道十二宮会の研究所に居たことがある。なかなかおもしろかった」
 その日明け方に帰ってきた彼女が、寝室から居間に降りてきたのは昼過ぎのことだった。
 着席した師匠の唐突な話に、水差しを取ろうとしていたオリヴァーの手が止まった。「師匠が帰ってきたらとにかく水を飲ませろ。ジンに手を出す前に!」と、士官学校の関係で出かけているウィリアムから言い付けられていた。
 レベッカが弟子を置き去りに夜更けに出かけ、翌朝に酒気を纏って帰宅するのは昔からよくある事だった。変化と言えば、加齢による衰えなのか深酒の余韻で気怠そうにしている頻度が増えたくらいだった。
「その時に、リーブラだかスコーピオだか、十二宮会の魔法学校で人体操作の講座を持ってほしいと頼まれた。断ったが、以来何度も何度も蒸し返されている。次こそ忘却させようと思う程には意気地がある」
 魔法の専門学校。その存在は耳にしてはいたが、魔法使いによる魔法使いの為の魔法教育の場、そういうものが確かにあるのかとオリヴァーは思った。
 頬杖をついたレベッカが至極だるそうに続ける。
「それで、次はお前に狙いを定めたらしい。人体操作なら弟子でもなんでも構わないようだ。あの校長はしつこいぞ。今のうちに忘却でも改変でもかけといたらどうだ」
 背後で栓が開く音がして、酒の入ったグラスが宙を飛んでレベッカの手に収まった。
 オリヴァーは何も言わなかった。
 ただ、胸につかえていたものがすとん降りて、急に全てが腑に落ちた気がしていた。
 かつて「もうどこにもいけない」と絶望し、それでも生き延びた、魔法ただひとつしか持たないこの身が尽きるまでの使い途。
 何もかも見失った自分が、ただひとつどうにもならなかった恐怖を相殺し再び息が出来るようになったのは、レベッカが魔法を授けてくれたから。
 魔法を知る事が。授けられる事が。それだけはどうでもよくない事であるのを、何よりも致命的である事を、知っている。今の自分にあるものはこの授けられた魔法ひとつで、そのたったひとつを知りたいと望むひとがいて、授ける為の場があって。
 だとしたら行かない理由は無い。
 それは初めからそこにあったように当然で自然で、疑問の無い選択で、欠けていた部分を悠然と満たした。
「わかりました」と答えたオリヴァーが、後日リーブラ魔法学校への就職内定を報告した折には、レベッカは虚を突かれて大いに笑いウィリアムは「オリヴァーが……教師……?」と愕然としていた。
「私の弟子のくせに両方が勤め人か。よりによって固くて面白みのない職とはなあ」
 扇子を閉じると、レベッカはにやりと笑った。
「まあ、それはそれでおもしろいか」

 こうして、二人の弟子は人喰らいの魔女の館から巣立っていった。一人は軍人、一人は教師となるために。
 そのうちかつて狂気に取り殺され生きながらに死んだ少年が、同じ命の輝きを取り戻すことは二度と無かった。しかし師匠から授かった魔法はついに恐怖の闇を追い払い彼に平静をもたらした。
 かつての少年は一人の魔法使いとして、新たな生を以て彼の道を悠然と歩んで行くこととなったのだった。
 オリヴァー・ウィーレベッカ・エヴァンズとして。
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