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第三話 妖怪と犬和郎
〈無瞳子の虎〉
しおりを挟む「無瞳子の虎だと?」
聞いたことのない言葉だと秀次は問いただした。
そもそも日ノ本に虎という生き物は生息していなかった。
戦後、静岡県三ヶ日町において虎の下顎骨が発掘されたことから、約二万年前、日本列島がまだ大陸と陸続きだった頃には生息していたが、それまでの長い時間の果てに絶滅したと考えられている。
ゆえに、この時代の日本人は本物の虎を見聞きしたものはいなかった。
虎を題材とした絵画等は、唐の国から伝わってはいたが、お手本となったものを写したものをさらに写した、そもそも骨格がおかしく、眼口耳鼻、髭と尾と、前後の脚、牙爪までも、実物に似ておらず、特徴的な丸い瞳は猫のような縦長の瞳に描かれ、まさに諺に言う「虎を画きて、狗になる」となっていたのである。
もっとも、虎という勇猛な生き物の存在は知れ渡っていたので、加藤清正などは唐攻めの際にわざわざ虎退治に出かけていたという。
秀次も「虎」は知っていても、「無瞳子の虎」というものは耳にしたことがなかった。
「はい。かつて足利義直公が京を統治為されていた時代のことです。当時の管領・細川政元のもとに竹林巽風という画家が一枚の画を持ち込みます。この巽風という男がいわく付きの男でして、奸計、妖術、殺しとなんでもござれの大悪党であったようです。その画が、まさに〈無瞳子の虎〉であり、この画には瞳が描き込まれておりませんでした」
「その巽風が描いたものなのか?」
「いえ、作者は巨勢金岡といい、宇多天皇が朝鮮の王族より生きた虎を贈られた際に、巨勢に写生させたものです。巨勢は百日余も通いつめ、何十枚もの下画を重ねた後、とうとう一枚を仕上げました。怒り狂った迫力満点の虎の絵だということです。ただ、どういう訳か瞳が描かれていませんでした。これを天皇がお聞きになられると、巨勢は「自分が虎の魂をもすっかり画に写し取ってしまったからでございます」と答えました。巨勢が言うには「魂を抜き取られた虎はじきに死ぬであろう。すると、ここに描かれた虎が絵の中から抜け出して人を襲ってしまう。そうはならないよう、あえて瞳を描き入れなかったのだ」と。事実、虎はその言葉通り、瞳なしの画の完成とともに死んだそうです。宇多天皇は、その画「無瞳子の虎」に目の玉を描き入れることなく手元に置かれていたとのことです。それが応仁の乱の後、御所から紛失し、いつのまにか巽風の手に入ったものと思われます」
確かに興味深い話だったが、秀次にはどうということもないもののように思われた。
だが、前田玄以の表情は真剣そのものだ。
その点では最後まで聞いてみる価値があるだろう。
退屈していた彼にとって、面白い話はなによりも好物であった。
「細川政元は画そのものは気に入りましたが、なにしろ、瞳が描き込まれていないことが不満らしく、画家でもある巽風に加えるように命じました。その際に、巽風も画の由来については語ったそうですが、今日の支配者といっていい管領・細川政元の命に逆らえず、瞳を描き入れました。それによって、巨勢の警告が蘇ったのか、とたんに白額斑毛の大虎が画より飛び出し、巽風をかみ殺し、警護の武士達をなぎ倒して、城外に逃げてしまったとのこと。この大虎が京の都を荒らしまわり、人を食い殺したことから、武士たちをかき集め、大軍で退治にあたりますがすべてしくじりました。このときの被害については、侍所の所司代の記録が残っております」
「まて。つまり、玄以はその大虎がまたも京を襲っているというのか」
「御意。幾つかの証言より、確実なことかと」
「そんな馬鹿な話は聞いたことがないぞ。絵から、飛び出した虎が人を食うなど…… まるで一休宗純ではないか」
呆れた顔をする秀次に対して、それを否定したものがいた。
「それ、確かに事実かと」
「犬和郎、おぬし……」
玄以の話を珍しく黙って聞いていた親兵衛が確信をもって頷いた。
二対の視線が驚きをもって集まっていく。
「どういうことだ?」
「なに、わんもこの件について秀次どのに献策しようと思っていたところでね。ちょうど、玄以どのが言っていたこととほぼ同じさ」
「おぬしも、こんな荒唐無稽な話を信じておるのか」
「なに、ついさっきわんもこの〈無瞳子の虎〉にばったり出会ったばかりでね。あれをそのままにしておくにはいかないと、告げにきたんだよ」
「なに!」
さすがの秀次もこれには驚いた。
京都所司代の長として司法に現実主義をもって接している前田玄以が、画から生きた虎がでてくるなどという戯言をいい、その虎を目撃したと幼いくせに歴戦のいくさ人のごとき武人が追随するのだ。
真剣に取り組まなければならない事件かもしれない。
「だが、玄以。おぬしはどうして〈無瞳子の虎〉とやらのことを確証をもって語れるのだ」
「お忘れですかな。それがしはもともと僧でありました。織田さまにお仕えする前は、尾張小松原寺の住職でもありもうした。この世ならぬ怪異、人の世に蔓延る妖魅については、常に目を見開き、聞き耳を立てております。それが、ここ数日に顕著に表れるようになり申して」
「……胤栄さんがたまにお屋敷に来るのは?」
「うむ。胤栄坊にも此度の騒ぎについては色々と助力してもらっておる。ただ、〈無瞳子の虎〉までが出てくるとはさすがに思おておらなんだ。かつて、退治されたものだからな」
「知っているよ。うちのご先祖様がやったんだから」
「なに? 今、何と言った?」
すると、親兵衛は特段気にした風もなく、飄々と答えた。
「百年ぐらい前に、うちのご先祖さまがその化け虎を退治したって話。見つけたときはびっくりして忘れていたけれど、ついさっき婆さまに教わったのを思い出したんだ。うちに伝わる話では、その、さっき名前の出た細川政元って管領さんに頼まれて、ご先祖さまが弓をもって山まで狩りたてに行ったらしい。まさか、今でもこんな事が起きるなんて思ってもいなかったぞ」
呆気にとられる二人を尻目に、親兵衛は立ち上がり、
「よし、そうと決まれば退治にいこうか。どうも、八代目親兵衛としての、わんの仕事のようだしな」
と、嘯くのであった。
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【作者注】
日本で最初の動物園である上野動物園において、トラが初公開されたのは1887年(明治20年)である。大変な人気ものであり、来園者が急増したそうである。そのため、作中にある宇多天皇への生きたままの虎の献上については疑問視されており、滝沢馬琴の創作だと考えられている。
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