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プロローグ

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「右よし、左よし、後ろよし。……よし、どこにもいないな!」

 クルスデイル国王太子ライオネルは、夕焼けに染まる学園の校舎の白壁に張り付いて、きょろきょろと視線を彷徨わせた。

「殿下、ごきげん――」
「しー!」

 下校中のご令嬢の優雅な挨拶を遮って、ライオネルはまたきょろきょろと視線を右に左に向ける。

「……殿下、またやっていらっしゃるわ」
「大変ねえ」

 おっとりと頬に手を当てて、令嬢たちは無言で一礼すると、くすくすと笑いながら去っていく。
 ライオネルがクルスデイル国の王都にある貴族専用学校フリージア学園へ入学して早一か月。
 ライオネルのこの様子は、すっかりフリージア学園の名物になりつつあった。
 最初は怪訝がられたものだが、最近はみな生暖かい視線で見守る――もとい、楽しんでいる。

(くそっ、俺はすっかり道化師扱いだ!)

 ライオネルは舌打ちして、もう一度左右と背後を確認すると、「よし!」と気合を入れて校舎の外に出た――途端。

「殿下ぁ~~~~~~‼」

 調子っぱずれな歌声のような声が響いてきたかと思うと、校舎の影から猛然と一人の令嬢が走って来た。
 ふわふわと風になびく金色の髪、今の時期――五月のさわやかな空と同じ青い瞳。小さな顔に大きな瞳。クルスデイル国の国獣モモンガのような愛らしいカニング侯爵令嬢エイミーは、外見の愛らしさからは想像できないほどの勢いでどーんとライオネルに突撃すると、そのまま両手両足を使ってひしっと彼に抱き着いた。

「~~~~~~っ」

 ライオネルは言葉にならない悲鳴を上げて、そのままちゅーっと顔を寄せてくるエイミーの顔面を片手で押しのけた。

「どうしてお前はどこにでも湧いて出てくるんだ‼ まさか黒い害虫のように何千何万と増殖しているんじゃなかろうな⁉」
「うむむむむ……! ぷはっ! 嫌ですわ殿下、わたしまだ分身の魔術は習得しておりません」
「そんな魔術は古今東西探したところでどこにもないわ‼」

 貴族の通うフリージア学園は、魔術学校だ。
 貴族の子女は魔力を持って生まれることが多く、そんな彼らに魔術の使い方と危険性を学ばせるために存在しているのがこの学園なのである。
 きちんと魔術が何たるかを学ばなければ、傲慢な貴族の中には魔術で他人をいたぶろうとする輩が現れる。魔術による他者への暴力を防止し、そしてノブレス・オブリージュを学ばせるために四十年前の国王が設立したのがこの学園だった。

 それはさておき――

「いい加減離れろ! どうしてお前は俺に付きまとうんだ!」
「あと五秒。今日はまだ殿下の匂いを嗅いでいませ――」
「やめろ嗅ぐな‼」

 すーはーと大きく深呼吸したエイミーにぞっとして、ライオネルは今度は両手で彼女の顔を押しのけた。
 この小さな体の一体どこにこんな力があるのか。力いっぱい押しのけているのにエイミーは意地でも張り付いて離れない。

「ひどいです殿下、わたし、殿下の婚約者なのに」
「今すぐどこかに頭をぶつけて記憶を消去したい事実をわざわざ口にするな‼」

 そう、ライオネルが何よりも絶望したい事実は、この変人モモンガ令嬢エイミー・カニングが、婚約式を交わした正式な自分の婚約者であるということだ。

(父上め、とち狂いやがってっ)

 こんなのを王妃にしたら国が亡びると何度も何度も父親である国王に奏上したライオネルであるが、エイミーと婚約して十一年、その訴えが通ったためしは一度もない。
 何故ならどういうわけかこの変人エイミーは、その頭が痛くなるような性格さえ目をつむれば有能なのだ。
 入学試験もライオネルを抑えて堂々の一位。
 文武両道で「音痴」という一点を除けばできないことはないと言わしめる才女である。
 その美点をすべて打ち消してなお余るほどの変人であるのに、今のところ被害者がライオネル一人という点でこの最大の欠点が「問題なし」とされているのだ。

(問題大ありだろう! 父上も大臣たちも馬鹿じゃないのか⁉)

 エイミーの家がカニング侯爵家というのも大きかっただろう。
 カニング侯爵家は由緒正しい家柄で、さらに何代にも渡って王家へ貢献してきた重鎮だ。
 エイミーの兄パトリックも、次期宰相とささやかれるほど聡明で、また仕事ができる立派な男である。
 そんな立派な家庭にあって、どうしてエイミーのような娘が生まれたのかは甚だ謎であるが、とにかくエイミーの欠点と言えばその「性格」を置いてほかはない。
 つまり、その性格の被害者がライオネルただ一人であるので、みな口をそろえて「問題ない」と言うのである。
 馬鹿にしている。

「って、手のひらの匂いを嗅ぐなっ!」

 ライオネルに張り付けないとわかると手のひらの匂いを嗅ぎはじめたエイミーに、ライオネルは悲鳴を上げた。

「殿下、今日もいい匂い」
「やめろ‼」

 どういうわけかこの変人は、昔からライオネルのことが大好きなのだ。
 どれだけ嫌いだ離れろと言っても、鋼を通り越してダイヤモンドのような硬度の精神で追いかけまわしてくる。

「殿下、今週末はお城に遊びに行ってもいいですか」
「絶対だめだ来るな!」
「お菓子を焼いていきますね」
「人の話を聞け!」
「わたし、ゆっくり夜まで語り明かした――」

 まったく話の通じないエイミーに、ライオネルはとうとう我慢の限界に達した。

「だから嫌だと言っているだろう‼ 言っておくが、俺はまだお前に落とし穴に落とされたことを許したわけじゃあないんだからな――――――‼」

 熟れた果実のような色に染まった五月の空に、ライオネルの絶叫が吸い込まれていった。


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