その男、幽霊なり

オトバタケ

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霜月

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 家庭的で妙に落ち着く食堂の椅子に座って待っていると、厨房に入っていった恩田さんが器の乗ったトレイを持って戻ってきた。

「クラムチャウダーとパンしかないけど」

 申し訳ない、と言いたげな表情でトレイをテーブルに置く恩田さんに、そんなことないです、と言うように首を振る。
 てっきり和食が出てくるもんだと思っていたので意外だったが、牛乳を使った料理が好きな俺には大満足の食事だ。

「いただきます」

 向かいに腰掛けた恩田さんが大きな掌を合わせ、豪快にクラムチャウダーを啜り始める。

「遠慮なく頂かせてもらいます」

 俺も手を合わせ、クラムチャウダーを口に入れる。
 温かくて優しい味に、頬が弛む。

「旨いかい?」
「はい」
「そうか、良かった。これは俺が採ってきたアサリなんだよ。パンもウチで焼いたやつだから食べてみてくれよ」

 目尻に深い皺を浮かべて嬉しそうに笑った恩田さんが、パンの乗った皿を押してくる。
 皿にこんもりと盛られた楕円形のパンを一つ掴んで頬張ると、皮はサクサク中はフワフワで、小麦の素朴な味がして旨かった。

「旨いです」
「そうか、良かった良かった」

 俺の答えに満足そうに微笑み、大きな口でパンを頬張る恩田さん。

「君は、おじさんとチューするのがそんなに嫌だったのかな?」
「はい?」

 二個目のパンを頬張っていると、早々と食事を終えた恩田さんが眉を下げて拗ねたように聞いてきた。

「人口呼吸をしようとしたら、やめろ!って飛び起きただろ?」
「いや……あれは、その……変な夢を見ていたというか……」

 そうだ。あの時、恩田さんの唇が触れるなんて気持ち悪くて嫌だと思い、飛び起きてしまったんだ。
 恩田さんはいやらしい目的で唇を合わせるつもりじゃなかったのに、拒否するような行動をしてしまって申し訳なさと恥ずかしさで俯いてしまう。

「いやいや、別に怒ってるわけでも拗ねてるわけでもないからな。この子以外とはチューしたくないって思う相手がいるのかなって思っただけなんだ」
「え……いや……その……」

 恩田さんの唇が触れると思った時、気持ち悪くて嫌だと思うより強く、この唇には触れさせたくないと思った。
 俺の唇に触れていいのは……

 脳裏に浮かんだのは、半透明なのに瑞々しく艶やかで、程よい弾力のある温かな唇だった。
 なんで、男の唇を思い浮かべてしまったんだ?
 まるで、男としかキスしたくないみたいじゃないか。

「助けたお礼に、じゃないけど、おじさんの昔話を聞いてもらってもいいかな?」

 自分の思考回路に困惑していると、恩田さんが茶目っ気たっぷりの声で聞いてきた。
 顔をあげると、声からは想像できない哀愁の漂った表情をしていて、聞いてしまってもいい話なのか一瞬迷ってしまったが、受け止めて欲しいと訴えているような眼差しに静かに頷く。

「おじさんの大切な人はね、この海で亡くなったんだよ」
「え……」

 いきなりのハードな告白に、狼狽えてしまう。
 でも、恩田さんの表情に悲愴感はなく、亡くなった大切な人を思い浮かべているのか幸せそうに微笑んでいる。

「ソイツは海が大好きで海で死にたいって常々言っていたから幸せな最期だったんじゃないかなって、二十年経った今なら思えるんだ」

 二十年……。
 俺が生きてきた年数よりも長い間、恩田さんは大切な人の死の哀しみに耐えてきたのか。

「ソイツがいなくなって初めて気付いたことがあってね、どうしてもっと早く気付かなかったんだって凄く後悔したんだ」

 幸せそうだった恩田さんの表情が、曇り始める。

「ソイツがいなくなって初めて、ソイツを愛していたんだと気付いたんだ」

 大切な人に向けたような切ない声色で告げられる愛の言葉に、きゅっと胸が締め付けられる。

「葬儀が終わって落ち着いた頃、ソイツの部屋の片付けを手伝いに行ったらね、ソイツの日記をみつけたんだ。中を読んでびっくりしたよ。俺への愛の言葉がびっしり綴られていたんだ」

 モノクロの世界で、恩田さんの大切な人の日記だけが桃色に輝いている光景が脳裏に浮かぶ。

「ソイツは俺を愛してくれていた。そしてそのことを俺に伝えてくれた。でも、俺はソイツに愛していることを伝えられていないし、伝える術もない」

 もどかしそうに顔を歪める恩田さん。

「恩田さんの想いは大切な人に届いていると思います」
「そうかな? 実はね、海に潜っている時、ソイツの声が聞こえた気がしたんだよ。それで急いで海面に上がったら溺れている君をみつけたんだ」
「じゃあ俺は、恩田さんの大切な人に助けて貰ったんですね」
「あぁ、ヒロはライフセーバーをやっていたからね」

 ヒロ? 恩田さんの大切な人の名前かな?
 海が大好きでライフセーバーをやっていた女性ならば、健康的で活発そうで恩田さんに似合いそうだな。

「ヒロ……、ソイツはね、広幸って名前なんだ」
「ひろ……ゆき?」
「幼馴染みで親友でライバルで、あまりにも近くにいすぎたから自分の気持ちに気付けなかったんだ。今思い出したんだけど、ヒロが俺以外の奴とじゃれあっていると無性に苛々してたんだけど、あれは嫉妬だったんだね。男同士とか親友とかいう括りに縛られ過ぎて、大切なことを見落としてしまっていたんだな」

 広幸という名にまさかと思っていると、予想通り大切な人は同性だったと、同性だから気持ちに気付くのに遅れてしまったと教えてくれた恩田さん。

「ゲイの告白なんて聞いて気持ち悪かったかな?」
「いいえ、恩田さんにずっと想われている広幸さんに会ってみたいなと思いました」

 びっくりはしたけれど、気持ち悪いなんて微塵も思わなかった。
 全く読んだことはないが、純愛の恋愛小説を読んだ後はこんな感じになるんだろう、切ないけれど温かな気持ちになっている。

「ヒロに会いたいからって、また死にかけてはいけないよ。君を大切に想っている相手に俺みたいな気持ちを味あわせたくない」

 ふと、風呂場での不安げな男の表情が脳裏に浮かんだ。
 何故だか急に不安になって、男はどこにいるんだろうと食堂を見渡すと、俺と恩田さんの座る机の後ろの壁にもたれ掛かって神妙な面持ちでこちらを見ていた。
 恩田さんの話を聞いて思い浮かべるのは男のことばかりで、可笑しくなってしまったような思考回路をリセットするように、無心で食べかけのパンを頬張った。

 昼食を終えて服が乾くまでの間、お世話になったお礼に夕飯の仕込みの手伝いをしたり、食堂やロビーのテーブルの拭き掃除をしたりした。

「ありがとうございました」

 宿泊客のチェックイン可能な時刻の午後三時になる少し前、乾いた服に着替えて民宿の玄関で頭を下げる。

「また遊びにおいでよ」
「はい。次は客として泊まりにきます」
「じゃあスイートルームを用意しとくから、大切な人と泊まりにおいで」

 ガハハと豪快に笑う恩田さんの言葉に、頬が熱くなっていくのを感じる。

「君は素直で可愛いな。大切な人の前でも照れずに本当の気持ちをちゃんと言うんだよ。俺みたいに後悔しないようにね」

 こそこそと耳許で囁いてきた恩田さんが、茶目っ気たっぷりにウインクして見送ってくれる。

 民宿の前の海沿いの道路を駅に向かって歩く。

「いい人に助けて貰えたな」
「惚れてしまいましたか?」

 ぽつりと呟いた俺に、右隣を歩く男が揶揄するように言う。

「もし惚れたとしても、恩田さんは広幸さんしか見てないから一生片想いだな」
「そうですね」

 広幸さんがいるだろう空を見上げて笑いながら言う俺に、男もクスクス笑いながら答える。

「また泊まりに来ましょうね」
「あぁ。夏に温泉はキツいから寒い時期がいいな」
「そうですね。人も疎らですし、手を繋いでも抱き合っても不快ではないですし」
「はぁ?」

 ニヤリといやらしく笑う男に眉を顰めると、すっと左手を差し出してきた。

「なんだよ?」
「不快ではないか確かめてみませんか?」
「アンタにも助けてもらったし、仕方ないからその馬鹿な実験に付き合ってやるよ」

 はぁと溜め息を吐き、差し出された掌に自分の掌を重ねる。
 ほんのり、温もりが伝わってくる。
 嬉しそうに繋がれた掌を見つめている男の背後に広がる大海は、広幸さんが大好きだった海だ。
 その海と広幸さんとの思い出を護るように、ここで暮らし続けている恩田さん。
 今は離れ離れの二人があの世で再会できて永久に共にいられますように、と願いながら恋路浜を後にした。
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