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悪役令嬢と理想の正妃

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 殿下はマリーの細い腕を引いて部屋の中に引き入れると、自分はそのまま部屋から出ていってしまった。
 二人きりで殿下の私室に残されてしまった。
 俺とマリーは向かい合ったまま、しかしマリーが顔を上げないため目は合わせられないまま立ち竦む。
 先ほどの話を聞いたばかりだ。俺の中でもまだ整理しきれない話のため、彼女にどんな声を掛けていいものかわからない。
 俺の送った緋色のドレスに身を包んだマリーは、仄かに薔薇の香りを纏っている。俺を真似しているのだろうか。悪い気はしない。
「……殿下のお考えは、その、率直に申し上げるのであれば突飛で、許されざるものに思えました」
「マリーも既に話を聞いていたのか」
「はい。ティアナ様にお話をする前に伺っておりました」
 俯いたまま、マリーは体の前で組んだ指先を絡ませる。
 彼女の表情は見えず、その感情は測れない。
「……ティアナ様を正妃のままとし、私を妾の一人に迎え入れ、ティアナ様と私の子を殿下のお子として後継者として育てるだなんて、そのようなおそれ多いこと……」
 マリーの回答は俺が求める回答そのものだった。
 殿下のお考えは間違いだ。そう答えることこそが、正しい正妃の姿だろう。
 しかし、わかっているのに殿下の言葉が俺の中に引っ掛かる。
 俺にも、マリーにも、幸せになって欲しい。
 そう言ってくださった、殿下の言葉が。
「……マリー」
「はい」
 自分が幸せになるなんて、今まで考えたこともなかった。
 殿下の幸せと、この国の将来。そして、最近はマリーの幸せも願っている。
 そこに、自分の幸せも入れて良いのだろうか。疑問は残ったまま、俯くマリーの手を、俺の両手で包み込んだ。
「俺は殿下の婚約者となり、ゆくゆくは正妃となることがマリーの幸せだと思っていた」
 手の中で、マリーの拳が強く握りしめられたのがわかった。
 緊張を解きほぐすように彼女の手を撫で、俺は言葉を続ける。
「……それは本当にマリーの幸せか? 俺が押し付けただけなのだろうか」
 俯いていたマリーが、勢いよく顔を上げた。
 そのまま口を開き、しかし、すぐに口を閉ざして目を伏せた。
「……はい。正妃となりこの国のために生きていくことが出来るのであれば、これ以上の幸せはありません」
 感情のままに吐き出そうとした言葉を殺した彼女が、冷静になって選んだ言葉は俺が理想とする形そのままだった。
 それが本当の心なのだろうか。
 彼女は、俺が教えた通り、俺が理想とする娘の姿を辿っているのだろう。
 模範解答だ。俺の教育の成果が出ている。
 しかし、俺が今聞きたいのはマリーが飲み込んでしまった言葉の方だ。
「……すまない、マリー。俺は君に正しさを強制しながら、自分勝手なことを言おうとしている」
「え?」
「幻滅してくれて構わない。マリー、俺は君と共に生きてみたい」
 緩やかに見開かれた瞳。
 俺が自分の欲だけを言葉にするなんて、思いもしなかったのだろう。
 一度口にしてしまうと、もう躊躇う必要はなかった。俺は目の前のマリーの体を抱き寄せると、逃がさぬよう強く抱き締める。
 少しでも拒む素振りを見せるのであれば、すぐに解放するつもりだった。
 しかし、マリーは恐る恐るといった様子で俺の背中に手を伸ばす。
 躊躇いがちに触れる指先。俺のドレスを掴むその手は、震えていた。
「君も俺と同じ気持ちなのか?」
 マリーは俺の腕の中で、一度だけ頷いた。
 満開の花束を胸に抱くよりも慎重な手つきで、彼女の体を腕に閉じ込める。
 鼻先を掠める柔らかな髪からは、仄かに甘い香りが漂う。花か果実か。それとも、彼女自身か。
「……俺はずっと殿下の婚約者を演じながら、殿下に相応しい女性を探していた。礼儀正しく、立ち振舞いも美しく、心根が正直で、他人を憎むことなく、知識や教養も身に付けた娘を、ずっと探していた。そんなときに、君と出会った。君は俺が探していた娘にはまだ遠かったが、素質はある。そう思った。磨いていけば、いつか必ず殿下に相応しい娘になるだろうと」
 しかし、それはただの誤魔化しだった。
 俺は自分が惹かれていった理由に、殿下を使っていただけだった。
 少しずつ成長していきながらも、本質は変わることのないマリーと共に過ごす中で、この穏やかな日が永遠に続けば良いとさえ思っていた。
 それが、許されないことだとわかっていたから、俺はずっと自分の心から目を逸らし続けた。
 殿下の指摘通りだ。
 俺がマリーを正妃として相応しいと思ったのは、俺の理想に近い娘だったからなのだ。
「君はよくやってくれた。俺の望む通りの振る舞いを、言葉を、選んでくれた。正妃の話もあっさり受け入れたのは、俺がそれを君に望んでいたことに気付いたからだろう?」
 耳元で、マリーが息を呑む音が聞こえた。
 図星だったらしい。彼女はずっと、俺が求める女性の姿を慎重になぞり続けていた。
「……私、ティアナ様が思うような出来た人間ではないのです。勉強は元々好きでしたけど、躍りや作法は苦手で。でも、ティアナ様の側にいられることが嬉しくて、私が出来るとティアナ様が喜んでくださるから、それが、嬉しくて」
「あぁ」
「だから、私は駄目な人間です。私、いつか領地に戻り父の力になりたいと勉強を教えていただいていたはずなのに、気が付けばティアナ様との時間が大切になっていき、ずっと、続けば良いと思うようになってしまったのです。そんな私が、ティアナ様の仰る正妃に相応しい娘なはずがありません……」
 これが、彼女の本心か。
 先ほど呑み込んでしまった声。
 なんて心地よく響くのだろう。
 マリーの言葉を、嬉しいと思う。そんな俺も、きっと駄目な人間なのだ。
 胸の奥に火が灯るように、心が熱を持つ。
「マリー、殿下の提案はきっと君に多くの苦労を掛けると思う」
「……はい」
「形上は俺が正妃となり、殿下のお心は妾にある。君は忘れられた妾と笑われるかもしれない。子を産んでも、自分の子として育てることも出来ない。俺は女性として振る舞わねばならないから、公の場でマリーと過ごすことは出来ないだろう。不自由ばかりだ。……それでも、俺と共に生きたいと思ってくれるのだろうか?」
 マリーの肩に手を起き、抱き寄せていた体を離す。
 見下ろす彼女は頬を桃色に染め、はにかんで頷いてみせた。
「私はそれを、苦労だとは思いません」
 自然と頬が緩むのがわかった。
 幸せという波が、足元を撫でているようだ。
 両手でマリーの頬を包み、顔を上げさせた。俺の意図を察してか、マリーは黙って目を閉じる。
「……あ」
 口付けようと唇を近づけたものの、自分の姿を思い出し躊躇ってしまった。
 美しいドレスに艶やかな緋色の髪。王子様とは程遠い姿では、マリーにも申し訳がなかった。
「ティアナ様……?」
「あぁ、すまないマリー。この姿のままというのはどうかと思ってな……」
 しかし、俺の心配など吹き飛ばすように、マリーは僅かに口角を持ち上げると俺の胸へと飛び込んできた。
「マリー?」
「どのようなお姿でも構いません。私は、ティアナ様ご自身に惹かれているのです」
 脆く細い体を抱き締め、俺はもう一度片手でマリーの頬に触れた。
 ドレスを身に纏い全てを欺いてきた俺は、口付けと共にこの唇にもう一つ大きな嘘を重ねる覚悟を決めた。


 サフィール殿下が学園をご卒業なさると同時に、婚約者であるティアナとの婚姻が発表された。
 そして、婚姻と同時に二人の妾が迎え入れられる。
 一人は、ティアナが妹のように可愛がっていたロードナー伯爵家の娘マリー。
 マリーを妾に迎え入れ、生家に援助をして欲しい。それは、伯爵家の困窮ぶりを見かねたティアナがサフィール殿下に対して頼んだ最初で最後の我が儘だったという。
 そしてもう一人は南の小国。コルテカ王国の王女アザリナだ。
 元々は陛下の側室にとコルテカから差し出された娘であったが、あまりにも歳が離れすぎていたため殿下の妾となることが決まっていた娘だ。
 サフィール殿下とティアナは変わらず仲睦まじく過ごしてはいたが、サフィール殿下の熱のある瞳は常にアザリナへと向けられていたことは周囲にも知られていた。
 それでも、殿下とティアナの間には二人の男児と双子の女児が産まれ、サフィール殿下は後継者の不安もなく後にこの国の王へと即位した。
 もちろん、アザリナとサフィール陛下の間にも子は産まれたが、彼女が一切の野心を持たなかったため後継者問題が起こることもなく平和な治世が続いていた。
 その間にも他国との同盟関係により、何人もの娘が陛下の妾として迎え入れられた。それでも、陛下のお心はアザリナに向けられ、ティアナに与えられるものは陛下からの絶対の信頼と親愛だった。
 そしていつか、人々はアザリナと共に妾となったもう一人の娘を忘れていった。表舞台に立つことの少ない彼女は人々の記憶から緩やかに切り取られていった。
 しかし、彼女を目にした誰もが口を揃えてこう言うのだ。
 忘れられた妾のはずなのに、彼女はとても幸せそうだ、と。
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