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御者
十二
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歩き慣れたはずの病院の廊下は、いつもより長く感じられました。松本先生の背中について歩いておりますと、どうにも不思議な心持ちになるのです。
幼き頃に見上げていた異国の香りのする長身の紳士。それが今は、私の視線の下にあるのです。それでも、松本先生は都会的な雰囲気は色褪せることなく、想い出のままにございました。
「弘くん、君は幾つになったんだね?」
「二十三になります」
私の不躾な視線に気づかれてしまったのか、松本先生が横目で私を見やるものですから、私は少し動揺してしまいました。
「それで、君はまだ朝倉家の下男に甘んじているのかね」
先生は呆れたように溜め息を吐きました。まるで聞き分けのない生徒を嗜めるような口ぶりです。
「朝倉もいつまで資金繰りが持つのやら。直之くんもあのような身体になってしまってはね」
「どういう意味でしょうか」
「君は、随分と直之坊っちゃんに献身的なのだね」
先生は、その場で足を揃えて立ち止まりますと、私を見上げて薄く口角を持ち上げて見せました。
「満州国に渡る気はないかい?」
思わぬ言葉に、私は目を見開きました。
無知な私に、松本先生は優しく語りかけてくださいます。
満州国とは、我が国の関東軍が占領した植民地であり、大日本帝国が干渉する傀儡国家でございます。
正式に満州国が設立してからは、まだ一年も経ってはおりませんでしたが、旦那様は何年も前から満州の開拓事業に携わり、松本先生に新たな事業の一辺として会社を興すように命じられているのだそうです。こうして帝国に戻って来たというのも、新しく雇い入れる人材を募るためでございました。
「新しい国が激変していく様を、間近で見たくはないかい?」
満州に渡れば、財を成せる。まるで夢物語のような話を語ってみせる松本先生は、私を通して、何か違うものを見ているようでございました。それは、あの伊豆の一夏を思い起こさせます。
「なぜ、私のような下男なぞを構うのですか?」
「……なぜだろうね。どうも君のような出生で不当な扱いを受ける人間を見ていると歯痒く思うのだよ」
松本先生の気紛れな善意は罪深いものでございます。私の存在など、十三年余りも忘れ去っていたというのに、こうして思いつきのように手を差し伸べ、私の心を揺るがそうとなさるのですから。
「私は朝倉の下男で満足しておりますから」
やっとの思いで返答した私に、松本先生は眉を曇らせました。
「朝倉の家では、どのような仕事をしているんだね」
「馬車の御者をしております」
「馬車かい。時代は自動車だよ」
些か棘のある物言いに、今度は私が眉を曇らせてしまいます。そんな私に、松本先生は何やら小さな紙切れを差し出しました。
「まあ、いい。気が向いたら連絡をくれたまえ」
おずおずと紙切れを受けとろうと手を出せば、松本先生は、じぃと射ぬくような眼差しで見上げてくるのです。
「弘くん、無欲とは怠慢の基なのだよ」
松本先生は、物覚えの悪い子供に言い聞かせるように、ゆっくりとおっしゃって、紙切れを私の手の中に握らせました。
「あの、先生、」
「なんだね?」
視線で言葉の続きを促す紳士に、私は「なんでもありません」と言葉を濁すしかありません。松本先生は、「いい返事を待ってるからね」と微笑んで、病院を去って行かれたのでございました。
幼き頃に見上げていた異国の香りのする長身の紳士。それが今は、私の視線の下にあるのです。それでも、松本先生は都会的な雰囲気は色褪せることなく、想い出のままにございました。
「弘くん、君は幾つになったんだね?」
「二十三になります」
私の不躾な視線に気づかれてしまったのか、松本先生が横目で私を見やるものですから、私は少し動揺してしまいました。
「それで、君はまだ朝倉家の下男に甘んじているのかね」
先生は呆れたように溜め息を吐きました。まるで聞き分けのない生徒を嗜めるような口ぶりです。
「朝倉もいつまで資金繰りが持つのやら。直之くんもあのような身体になってしまってはね」
「どういう意味でしょうか」
「君は、随分と直之坊っちゃんに献身的なのだね」
先生は、その場で足を揃えて立ち止まりますと、私を見上げて薄く口角を持ち上げて見せました。
「満州国に渡る気はないかい?」
思わぬ言葉に、私は目を見開きました。
無知な私に、松本先生は優しく語りかけてくださいます。
満州国とは、我が国の関東軍が占領した植民地であり、大日本帝国が干渉する傀儡国家でございます。
正式に満州国が設立してからは、まだ一年も経ってはおりませんでしたが、旦那様は何年も前から満州の開拓事業に携わり、松本先生に新たな事業の一辺として会社を興すように命じられているのだそうです。こうして帝国に戻って来たというのも、新しく雇い入れる人材を募るためでございました。
「新しい国が激変していく様を、間近で見たくはないかい?」
満州に渡れば、財を成せる。まるで夢物語のような話を語ってみせる松本先生は、私を通して、何か違うものを見ているようでございました。それは、あの伊豆の一夏を思い起こさせます。
「なぜ、私のような下男なぞを構うのですか?」
「……なぜだろうね。どうも君のような出生で不当な扱いを受ける人間を見ていると歯痒く思うのだよ」
松本先生の気紛れな善意は罪深いものでございます。私の存在など、十三年余りも忘れ去っていたというのに、こうして思いつきのように手を差し伸べ、私の心を揺るがそうとなさるのですから。
「私は朝倉の下男で満足しておりますから」
やっとの思いで返答した私に、松本先生は眉を曇らせました。
「朝倉の家では、どのような仕事をしているんだね」
「馬車の御者をしております」
「馬車かい。時代は自動車だよ」
些か棘のある物言いに、今度は私が眉を曇らせてしまいます。そんな私に、松本先生は何やら小さな紙切れを差し出しました。
「まあ、いい。気が向いたら連絡をくれたまえ」
おずおずと紙切れを受けとろうと手を出せば、松本先生は、じぃと射ぬくような眼差しで見上げてくるのです。
「弘くん、無欲とは怠慢の基なのだよ」
松本先生は、物覚えの悪い子供に言い聞かせるように、ゆっくりとおっしゃって、紙切れを私の手の中に握らせました。
「あの、先生、」
「なんだね?」
視線で言葉の続きを促す紳士に、私は「なんでもありません」と言葉を濁すしかありません。松本先生は、「いい返事を待ってるからね」と微笑んで、病院を去って行かれたのでございました。
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