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第2章 同棲生活
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自分でも気づかないうちに千歳を怒らせてしまったのか。
そう不安に思う唯だったが、翌朝の千歳は落ち着いていた。むしろ唯の体を気遣うように上目遣いで「大丈夫ですか?」と声をかけてくる。大丈夫、と反射的に答えそうになるが、唯はまったく大丈夫ではなかった。
腰がものすごくぐったりとしている。疲労感がすごい。ちょっとした衝撃で簡単にその場に崩れ落ちてしまいそうな頼りなさがあった。
原因は唯が寝落ちするまで、体を触られ続けたことにあるのだろう。千歳に体を触れられていないのに、下腹部がじんじんと疼いていた。
一方で千歳は爽やかな朝に似合う清らかな雰囲気をまといながら、コーヒーカップ片手に新聞を読んでいる。優雅だ。とても人の情欲を煽るだけ煽った男には見えない。
唯が千歳を観察していると、視線に気づいた千歳は不思議そうに目を瞬く。
「どうかしましたか?」
「いいえ……」
千歳はあの時の唯の痴態を蒸し返すようなことはしなかった。
昨晩のことを思い出してしまうのは唯だけなのだろう。
──あんなにも艶と熱をたっぷりと含んだ声で唯の名前を呼び、女の悦びを優しく教えてくれたのに。
その差を見ていると、唯はやはり契約は契約なのだと改めて理解する。演技なのだ。愛し合っている恋人のように思えてしまったのは、彼の特技でもあるのだろう。
千歳は年が若く見た目も軟弱そうに見えるからか、初対面の取引先からは大抵侮られていた。けれど、千歳はその態度に怒るどころか得をしたとばかりに、彼らの印象を利用して得たいものを得る。とはいえ、千歳が一方的に利を得るような契約はしないが。
だから昨晩の行為も、千歳が考えた結果なのだろうと信じることにした。きっと、唯が本気にならないように調節してくれるだろう。そうでなければ、仕事のために恋人役を引き受けた意味がない。
(副社長と結婚する人、苦労しそうだな……)
未来で彼の隣にいるであろう女性に、唯はすこし同情した。
千歳がお見合いをするのは午後の六時。彼は早めに退勤する準備を始めていた。
(そういえば、夕飯はいらないのかも)
たぶん、すこし早めの夕飯をお見合い相手と食べるはずだ。そうなると今晩は一人でご飯を食べることになるのか。唯は一人前の食事のために広いキッチンを使うことに躊躇いがあるので、どこか食べに行こうと考える。
もうすこしすれば、残務処理も終わりそうだった。
「月野さん、夕飯は食べないで待っていてくれますか」
「へ」
千歳に言われた内容に、どういうことなのか分からず首を傾げる。
「お見合い場所はレストランですよね」
「はい」
「時間的にも夕飯を食べると思うんですけど」
分かっているのか、困ったように笑う千歳に唯は内心で頭を抱えた。
「……量を少なめにしてもらいます。だから俺の夕飯も作って待っていてもらえますか。長引かないようにしますから」
「無理して食べなくていいですよ。今日は私も、どこか外食でもしようかなって考えていたんです」
唯は気を遣わなくていいと伝えたつもりだった。
しかし、千歳の表情が晴れることはない。
「俺の楽しみを奪わないでください」
「楽しみって……」
そんなに美味しい料理を作ったつもりはない。むしろ普段千歳が食べているものには劣るはずだ。
それとも、家庭料理自体が珍しいから食べたいのだろうか。千歳ならば有り得るかもしれない。
「……じゃあ、軽く食べられるものを作っておきますね。食べ過ぎてお腹を壊して欲しくないですから」
「はい」
妥協案を話し、どうにか千歳は了承してくれた。
彼がすこしでも無理に食べようとする素振りがあれば、没収すればいい。
千歳の胃袋が一般的な男性に比べれば小さいことを唯は知っていた。
これで会話は終わりかと思いきや、千歳は未だに唯のデスクの前にいる。彼は控えめな笑顔を見せると、ふらりと隣にやってきた。
「いってきます、唯」
部屋には誰もいないのに、唯の耳にすこしも声を零さないように手を添えて囁いた。
「ここ、会社なんですけど……」
「でも俺は退勤したので、副社長ではなくて唯の恋人ですから」
言いたいことを言えたようで、千歳はすっきりとした顔で部屋を出た。
その後ろ姿を見送っていると、不意に唯の唇がピクリと動く。
「……行かないで」
口にした言葉に、唯自身が驚き口元を押さえた。
「ん?」
酷くまずいものを食べたかのような顔をして、周囲に誰もいないことを確認する。
「何、言っているんだろう」
とんでもない失言だ。
昨晩、千歳にねだられても絶対に言わなかった言葉である。
あれは今言うものなのかな、と思うと自然に口から零れていた。
(言ったところで、本当に行かないわけがないのに)
嘘だろうと何だろうと、そんな不毛な言葉をわざわざ伝えるつもりは微塵もない。
唯は馬鹿らしいとばかりに、お見合いのことを頭から追い出して残った書類に目を通した。
軽いものを作ると宣言はしたが、何を作るかは具体的に考えていなかった。冷蔵庫を開けば、何もかもぎっしり入っているので材料には困らない。
その分、作れるものの選択肢がありすぎて困ってしまうという贅沢な悩みが発生するのはいつものことである。
「和食……かなぁ……」
昨晩残った副菜もあるから、料理時間はそれほどかからない。
メインは鱈と豆腐を蒸した野菜あんかけだ。ふわふわと膨らんだ鱈を見ていると、一口味見をしたくなる。食材がいいものばかりなので、何を作っても美味しく見えるし、実際に美味しい。他の肉や魚も、ただ焼いただけでも唯には美味しく感じるだろう。
味噌汁も出来上がり、後はご飯が炊けるのを待つだけになった頃、スマホから着信音が鳴り響く。
お見合いが終わった千歳からだろうか。
リビングに置いている鞄の中からスマホを取り出す。
それを見て、「はー……」と声が出る。
すっかり忘れていたが、一矢だった。そうだ、これがまだ解決していないと唯は頭が痛くなる。千歳に体を滅茶苦茶にされて、恐怖も不安も吹き飛んでいた。
通話を繋げることも切ることもせず、唯は一矢の電話だけ無音になるように設定を変える。
今はまだ、千歳から連絡があるかもしれないのだ。マナーモードにしていたせいで、彼からの連絡に気づかなかったなんて事態は避けたかった。
(それにしても、もう電話なんてないと思っていたのに)
千歳と駅で会ってから今まで、一矢からの着信はなかった。時間的にも仕事を終えた頃に電話をしているのだろう。
やはり一度は出てみた方がいいのだろうか。
(どうしても伝えないといけない用件があるなら、メッセージが来るよね?)
何度、電話をかけても出ないでいる相手にメッセージの一つも残さないのは不穏だった。それ以外に何か接触があるわけでもなく、ある意味で害はない。
(どうしよう……)
唯の知る一矢は飽きっぽい人間だ。別れた相手に粘着するような行動をいつまでも続けるはずがない。
そうこう考えていると、玄関付近から音がする。ハッとなり顔をあげると、ちょうどリビングに入ってくる千歳がいた。彼は唯を見るなり、ほっと表情を緩める。
「ただいま、唯」
「おかえりなさい」
スマホを置くタイミングを失った唯は、さりげなく鞄の中に入れようと思った。
だが、それよりも先に千歳は不自然なくらいに唯の元へまっすぐ向かい、彼女の手を取る。
「もう浮気ですか」
からかいを含んだ笑みに、唯は掴まれた手を見た。
持っているスマホは表向き。タイミングの悪いことに、画面は一矢から電話が来ていることを知らせていた。
「……違います」
せっかく昨晩、言わないようにしていたのに――
唯は降参ですと言わんばかりに項垂れた。
そう不安に思う唯だったが、翌朝の千歳は落ち着いていた。むしろ唯の体を気遣うように上目遣いで「大丈夫ですか?」と声をかけてくる。大丈夫、と反射的に答えそうになるが、唯はまったく大丈夫ではなかった。
腰がものすごくぐったりとしている。疲労感がすごい。ちょっとした衝撃で簡単にその場に崩れ落ちてしまいそうな頼りなさがあった。
原因は唯が寝落ちするまで、体を触られ続けたことにあるのだろう。千歳に体を触れられていないのに、下腹部がじんじんと疼いていた。
一方で千歳は爽やかな朝に似合う清らかな雰囲気をまといながら、コーヒーカップ片手に新聞を読んでいる。優雅だ。とても人の情欲を煽るだけ煽った男には見えない。
唯が千歳を観察していると、視線に気づいた千歳は不思議そうに目を瞬く。
「どうかしましたか?」
「いいえ……」
千歳はあの時の唯の痴態を蒸し返すようなことはしなかった。
昨晩のことを思い出してしまうのは唯だけなのだろう。
──あんなにも艶と熱をたっぷりと含んだ声で唯の名前を呼び、女の悦びを優しく教えてくれたのに。
その差を見ていると、唯はやはり契約は契約なのだと改めて理解する。演技なのだ。愛し合っている恋人のように思えてしまったのは、彼の特技でもあるのだろう。
千歳は年が若く見た目も軟弱そうに見えるからか、初対面の取引先からは大抵侮られていた。けれど、千歳はその態度に怒るどころか得をしたとばかりに、彼らの印象を利用して得たいものを得る。とはいえ、千歳が一方的に利を得るような契約はしないが。
だから昨晩の行為も、千歳が考えた結果なのだろうと信じることにした。きっと、唯が本気にならないように調節してくれるだろう。そうでなければ、仕事のために恋人役を引き受けた意味がない。
(副社長と結婚する人、苦労しそうだな……)
未来で彼の隣にいるであろう女性に、唯はすこし同情した。
千歳がお見合いをするのは午後の六時。彼は早めに退勤する準備を始めていた。
(そういえば、夕飯はいらないのかも)
たぶん、すこし早めの夕飯をお見合い相手と食べるはずだ。そうなると今晩は一人でご飯を食べることになるのか。唯は一人前の食事のために広いキッチンを使うことに躊躇いがあるので、どこか食べに行こうと考える。
もうすこしすれば、残務処理も終わりそうだった。
「月野さん、夕飯は食べないで待っていてくれますか」
「へ」
千歳に言われた内容に、どういうことなのか分からず首を傾げる。
「お見合い場所はレストランですよね」
「はい」
「時間的にも夕飯を食べると思うんですけど」
分かっているのか、困ったように笑う千歳に唯は内心で頭を抱えた。
「……量を少なめにしてもらいます。だから俺の夕飯も作って待っていてもらえますか。長引かないようにしますから」
「無理して食べなくていいですよ。今日は私も、どこか外食でもしようかなって考えていたんです」
唯は気を遣わなくていいと伝えたつもりだった。
しかし、千歳の表情が晴れることはない。
「俺の楽しみを奪わないでください」
「楽しみって……」
そんなに美味しい料理を作ったつもりはない。むしろ普段千歳が食べているものには劣るはずだ。
それとも、家庭料理自体が珍しいから食べたいのだろうか。千歳ならば有り得るかもしれない。
「……じゃあ、軽く食べられるものを作っておきますね。食べ過ぎてお腹を壊して欲しくないですから」
「はい」
妥協案を話し、どうにか千歳は了承してくれた。
彼がすこしでも無理に食べようとする素振りがあれば、没収すればいい。
千歳の胃袋が一般的な男性に比べれば小さいことを唯は知っていた。
これで会話は終わりかと思いきや、千歳は未だに唯のデスクの前にいる。彼は控えめな笑顔を見せると、ふらりと隣にやってきた。
「いってきます、唯」
部屋には誰もいないのに、唯の耳にすこしも声を零さないように手を添えて囁いた。
「ここ、会社なんですけど……」
「でも俺は退勤したので、副社長ではなくて唯の恋人ですから」
言いたいことを言えたようで、千歳はすっきりとした顔で部屋を出た。
その後ろ姿を見送っていると、不意に唯の唇がピクリと動く。
「……行かないで」
口にした言葉に、唯自身が驚き口元を押さえた。
「ん?」
酷くまずいものを食べたかのような顔をして、周囲に誰もいないことを確認する。
「何、言っているんだろう」
とんでもない失言だ。
昨晩、千歳にねだられても絶対に言わなかった言葉である。
あれは今言うものなのかな、と思うと自然に口から零れていた。
(言ったところで、本当に行かないわけがないのに)
嘘だろうと何だろうと、そんな不毛な言葉をわざわざ伝えるつもりは微塵もない。
唯は馬鹿らしいとばかりに、お見合いのことを頭から追い出して残った書類に目を通した。
軽いものを作ると宣言はしたが、何を作るかは具体的に考えていなかった。冷蔵庫を開けば、何もかもぎっしり入っているので材料には困らない。
その分、作れるものの選択肢がありすぎて困ってしまうという贅沢な悩みが発生するのはいつものことである。
「和食……かなぁ……」
昨晩残った副菜もあるから、料理時間はそれほどかからない。
メインは鱈と豆腐を蒸した野菜あんかけだ。ふわふわと膨らんだ鱈を見ていると、一口味見をしたくなる。食材がいいものばかりなので、何を作っても美味しく見えるし、実際に美味しい。他の肉や魚も、ただ焼いただけでも唯には美味しく感じるだろう。
味噌汁も出来上がり、後はご飯が炊けるのを待つだけになった頃、スマホから着信音が鳴り響く。
お見合いが終わった千歳からだろうか。
リビングに置いている鞄の中からスマホを取り出す。
それを見て、「はー……」と声が出る。
すっかり忘れていたが、一矢だった。そうだ、これがまだ解決していないと唯は頭が痛くなる。千歳に体を滅茶苦茶にされて、恐怖も不安も吹き飛んでいた。
通話を繋げることも切ることもせず、唯は一矢の電話だけ無音になるように設定を変える。
今はまだ、千歳から連絡があるかもしれないのだ。マナーモードにしていたせいで、彼からの連絡に気づかなかったなんて事態は避けたかった。
(それにしても、もう電話なんてないと思っていたのに)
千歳と駅で会ってから今まで、一矢からの着信はなかった。時間的にも仕事を終えた頃に電話をしているのだろう。
やはり一度は出てみた方がいいのだろうか。
(どうしても伝えないといけない用件があるなら、メッセージが来るよね?)
何度、電話をかけても出ないでいる相手にメッセージの一つも残さないのは不穏だった。それ以外に何か接触があるわけでもなく、ある意味で害はない。
(どうしよう……)
唯の知る一矢は飽きっぽい人間だ。別れた相手に粘着するような行動をいつまでも続けるはずがない。
そうこう考えていると、玄関付近から音がする。ハッとなり顔をあげると、ちょうどリビングに入ってくる千歳がいた。彼は唯を見るなり、ほっと表情を緩める。
「ただいま、唯」
「おかえりなさい」
スマホを置くタイミングを失った唯は、さりげなく鞄の中に入れようと思った。
だが、それよりも先に千歳は不自然なくらいに唯の元へまっすぐ向かい、彼女の手を取る。
「もう浮気ですか」
からかいを含んだ笑みに、唯は掴まれた手を見た。
持っているスマホは表向き。タイミングの悪いことに、画面は一矢から電話が来ていることを知らせていた。
「……違います」
せっかく昨晩、言わないようにしていたのに――
唯は降参ですと言わんばかりに項垂れた。
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