リア=リローランと黒の鷹

橙乃紅瑚

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第二章

19.恋の自覚

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「何だ、これは……」

 ゼルドリックは唸るような低い声を出し、目の前の書類を呆然と眺めた。それは中央政府から言い渡された緊急任務に関する命令書で、今夜にも王都を発つようにとのことだった。ゼルドリックはわなわなと震える手を額に当て、深い溜息を吐いた。

(リアを……リアをせっかく俺の屋敷に住まわせることができたのに……これでは、リアとしばらく会えなくなるではないか……。数ヶ月前から、嫌な予感はしていたが……)

 国庫から流出した莫大な金、その大きなルートのひとつを中央政府の上層部が掴んだとゼルドリックが知ったのは数ヶ月前のことだった。汚職に関わった百人以上の犯罪人を処刑あるいは捕縛せよ、と命令書には記載されている。分厚い命令書に素早く目を通し、そしてこれは相当骨の折れそうな任務だとゼルドリックは諦めの気持ちを抱いた。

(これは……。駄目だ。いくら俺でも、全力で当たらなければ命の危険がある。相手は危険な犯罪人共だ。数も多い。常に魔力を温存しないと足元を掬われかねん。となると……)

 リアの監視が出来ない。
 ゼルドリックはまたひとつ、深い溜め息を吐いた。

(……リアが屋敷にいる間は良いのだ。部屋と浴場にリアの姿を記録するための水晶球を仕掛けているから。だが、俺の屋敷を出て外に出ている間が不安だ。リアは可愛いから、そこらの男に話しかけられてしまうだろう。屋敷と工場を行き来する間が特に不安で堪らない。……だが、魔力を集中して練る必要があるから鷹は飛ばせない……)

「ゼルドリック? ゼルドリック!」

(この任務は断れない。俺は必ず行かなければならない。だが、俺の居ない間にリアに近づく男がいるかもしれないと考えただけで任務に集中できなくなることは分かっている。……不安だ。リアを、見守るためには……)

「ゼルドリック! 無視か? ゼルドリック!!」

 ゼルドリックは自分を呼ぶ大きな声にはっとし、顔を上げた。

「ようやく気が付いたか! お早う! 私に気が付かぬ程に熱心に命令書を読み込むとはな! 貴様はやはり中央政府の役人の鑑だ! 尊敬に値する!」

 やたらにはきはきとした、大きな声で自分に話しかけてくる目の前のエルフに、ゼルドリックは困ったように耳を抑え眉を下げた。

 ゼルドリックの目の前には、背が高くひょろひょろとした痩身のエルフの男が立っていた。若草色のおかっぱ頭が揺れ、緑色の細い目がゼルドリックの呆れ顔を見て愉快そうに歪む。

 オリヴァー=ブラッドスター。
 彼は教育課程にてゼルドリックと成績を争ってきたライバルであり、そして今は良き同僚だった。

 彼の大きな声にきんきんと耳鳴りがするようで、ゼルドリックは黒く長い耳をひくひくと動かし、一歩下がってオリヴァーから距離を置いた。

「オリヴァー……。お前は相変わらず、声が大きい……」

「何を言う! 常々言っているが声が大きいのは良いことだ! 私に言わせれば貴様の声が小さいのだぞ! 私に倣って腹から声を出してみろ! さあ!」

「分かった分かった」

 ゼルドリックはオリヴァーの言葉を適当に流した。オリヴァーの大きく快活な声が部署に響き、すれ違ったエルフが彼を見て困ったように肩を竦めるのをゼルドリックは見た。

「ところでオリヴァー、お前もこれを受け取ったか?」

 ゼルドリックが命令書の一枚をひらひらと揺らすと、オリヴァーはふんと鼻を鳴らした。

「残念ながらこの度の任務に私が選出されることは無かった。私は才あるエルフゆえ、この誉れある任務に是非就きたかったのだがな! 今回は上層部から王都に残り、機動隊の支援にあたるように言われたよ。全く残念だ! 犯罪人の捕縛数で貴様を超えてやろうと思ったのに! だが私の魔力探知の才が評価されてこその采配だと分かっている、私は中央政府の役人として責任を持って役目を果たすぞ! 貴様も励めよ、ゼルドリック!」

 オリヴァーは、はきはきと早口で喋った後、外にまで響き渡るほどの高笑いを上げた。幾人かのエルフがぎょっとオリヴァーを見て、ゼルドリックはまた自分の耳を塞いだ。

(こやつは本当に……喧しい奴だな)

 ゼルドリックは自分をライバル視する同期の男に顔をしかめた。優秀で責任感も正義感も強く信頼できる男だが、如何せん声が大きく、とにかくうるさいのが難点だった。

(ん? 王都に、残る? オリヴァーが王都に残るのなら……こやつにリアの監視を任せれば良いのではないか?)

 ゼルドリックは突然の閃きを掬い上げた。それは良い考えのように思えた。

(ぐっ……だが……オリヴァーも男だ。リアを見守るよう頼むのは正直、かなり抵抗がある)

 ゼルドリックは、大口を開けて笑い続ける目の前の同期をまじまじと見た。

(認めるのは癪だが、こいつの見目は俺より良い。筋肉は無いが顔の造形はそれなりに整っていると思う。……オリヴァーにリアが惚れてしまうことだってあるかもしれない! そんなのは嫌だ……)

 ゼルドリックは自分の想像に吐き気を催し、額に手を当てた。

(しかし、オリヴァーは仕事にしか興味がない奴だ。あのおかっぱ頭の中には仕事のことがみっちりと詰まっていて、それ以外のことは可哀想な程におざなりだ。こやつは料理も園芸も恋愛にも今の所全く興味が無い。考えたくはないがリアが近づいてもことごとく跳ね除けるだろうという信頼はある……)

 ゼルドリックは小さくため息を吐いた。
 己の交友関係は狭い。リアの監視を頼むとしたら、同期のオリヴァーか、部下のアンジェロしか居なかった。

(アンジェロには独り立ちしてもらおうと他村の視察を任せてしまったから、あやつにリアの監視を頼むのは無理だろう。なら、やはり……オリヴァーしか……)

 ゼルドリックがまじまじとオリヴァーの顔を見つめると、オリヴァーは笑うのを止め、変な顔をしてゼルドリックを見返した。

「何だ? そんなに私の顔を見て? 私の美しさに嫉妬したか?」

 オリヴァーはやたらに艶のある若草色のおかっぱ頭をさらりと揺らし、器用にウィンクをした。ゼルドリックはその仕草に強い苛立ちを覚えたが、息を深く吸って切り出した。

「その……オリヴァー。お前に、頼み事があるんだが……」

「ほう? 何だ! 言ってみろ!」

「出来るだけ静かに聞いて欲しいんだが……」

「努力しよう!」

 それから、ゼルドリックは周囲の目を避けるようにひそひそとリアのことを話し始めた。だが頼み事の全容を理解したオリヴァーが、興奮のあまり大きな声を上げるのに時間はかからなかった。

 天才と称されたゼルドリック=ブラッドスターに気に入られた女がいる、それはオリヴァーや周囲のエルフ達に大きな衝撃を与え、いつの間にかリアのことは部署中のエルフが知ることとなってしまった。わらわらと周囲のエルフが群がってくる。ゼルドリックは額に手をやり、天井を仰いだ。

(そうだ、こやつ……可哀想な程に隠し事が出来ない奴だった。オリヴァーに話すべきでは無かったかもしれない……リアのことが大勢に知られてしまったではないか! 迂闊だった……)

 だがもう後の祭りで、ゼルドリックは面白そうに細い目を輝かせるオリヴァーに苛立ちを覚えた。オリヴァーは滅多に見せることのない、きらきらとした満面の笑みをゼルドリックに向けた。

「ゼルドリック! 任せたまえ! 貴様に気に入った女がいるというのだ、絶対に面白いから応援してやろう! リアのことは私に任せろ! ふはははは!」

 リア。
 オリヴァーの口から出た愛しい女の名前に、ゼルドリックは無性に苛つきを覚えた。

「リアの名を呼ぶんじゃない」

「ぐっ! おい、腹を殴るな!」

「もう一度言うぞオリヴァー。リアの名を呼ぶんじゃない! リアと呼んでいいのは俺だけだ! 他の呼び名でも考えておけ!」

 あれは相当熱を上げているぞ、と誰かがぼそりと呟く声が聞こえた。ゼルドリックはオリヴァーの腹をまた軽く殴った後、ざわめく部署を急いで後にした。そして胸中に不安を抱えたまま、手早く用意を済ませ王都を後にするのだった。


 ――――――――――


 リアが王都に来てから十日ほどが経った。ゼルドリックは仕事が忙しいようで中々屋敷には帰ってこない。屋敷に住むように言われた日から、リアと顔を合わせることは無かった。

 少し肌寒さを感じるようになった朝の風が、リアの頬を優しく撫でていく。

 ゼルドリックのばら屋敷を出て大通りを十五分ほど歩けば、鍛冶場のある工場に着く。朝型のリアは王都に来てからも生活習慣を崩すことなく、きっちり朝の四時に起き、五時に屋敷を出て工場に向かった。

 美しい朝焼けが街路樹の緑を美しく照らす。爽やかな朝の空気を存分に吸いながらリアは心と身体を整えた。

 歩いていると、ついゼルドリックのことが頭に思い浮かぶ。

 屋敷には帰ってこないのに、毎朝、どういう訳かサイドテーブルには必ず書き置きが残されている。素っ気ない挨拶の言葉であったり、上から目線でリアの体調を気遣う言葉であったり、必要なものがないか聞く言葉であったり。カードに書かれる内容は様々ではあるが、どれも優しいものだった。

 忙しい中、魔法を使って書き置きを残してくれているのだと思うと、リアは心が温かくなった。ゼルドリックの優しさを思い出していると、ふと黒の王子様の姿が頭に過ぎった。

(あっ……だめ、いけない! 思い出さないようにしないと……!)

 リアは顔を赤くし首を横に振った。彼を思い出すだけで、身体に熱が巡ってしまう。

 リアは王都に引っ越してきてから、たびたびあの甘く淫らな夢を見た。夢の中のゼルドリックはひたすら甘く、だけど意地悪で。挿入こそしないがリアの身体を好き勝手に弄び、消えない熱を植え付けていく。

 淫らな夢を見た後に目を覚ますと、胸の頂きは赤く腫れて立ち上がり、股の間が漏らしたようにぐっしょりと濡れていることが常であった。リアは、自分の身体の浅ましさにほとほと呆れ返り、泣きながら下着を洗った。

 淫らな夢を見たせいで、最近は自分の身体に影響が出てしまっている。黒の王子様から執拗に快楽を与えられるせいで、自分の身体が以前より敏感で、貪欲になっていることをリアは自覚していた。

 夢を思い出しては身体を疼かせてしまう。以前珍しく熱を出した時の、あの身体の奥に何かが這いずり回るような感覚が、また現れ始めている。

(……足りない)

 夢の中のゼルドリックは優しい。何度も絶頂を与えるくせに、リアのうつろに押し入ろうとしたことは無い。
 彼の優しさがとても嬉しい反面、快楽を与えられたことのないうつろの奥が寂しくて。リアは火照り始めた身体をごまかすように、足早に大通りを歩いた。

(はあ……私、本当にどうしちゃったんだろう……)

 恋愛に憧れるあまり、頭がおかしくなってしまったのだろうか? 自分の理想をそっくりゼルドリックに重ねるほどに。

(本物のブラッドスター様に会いたい。高慢な態度で私を見下して、私の夢に出てくる黒の王子様は幻なんだって、そう分からせてほしい。でなければ、いずれ私はおかしくなってしまう……)

 リアが溜息を吐きながら大通りの道を歩いていると、中央政府の制服を着たエルフの集団とすれ違った。早朝にも拘らず、リアが大通りを歩くと頻繁にエルフの姿を見かけた。リアはなるべく目を合わせないように歩いていく。

(いつも朝早くにいるわね。中央政府に勤めるエルフたちは、よっぽど仕事が忙しいのかしら)

 リアがそんなことを思いながら歩くと、エルフたちがこそこそと話している声が聞こえてきた。

「ねえ、今日も綿毛ちゃんが来たわよ?」

「初めて見たが、本当に噂通りの綿毛だな」

「私達とは肉の付き方が違うわ」

「本当に髪が真っ赤なのだな」

「目も赤いわ」

「髪の毛が長いからどこに居てもよく目立つわね」

「聞いた通りの女だな」

「ドワーフとの混ざり血なんだろう? あんな背が低いのに、エルフより力が強いとは本当か?」

「半分ドワーフなのに、髭が生えていないとは」

 エルフたちはリアを見てくすくすと笑った。リアは、ちらりと声のする方面を見た。彼らはいずれも背が高く、髪は直毛で、すらりとした美しいエルフだった。

(自分とは正反対ね……)

 リアは、毎日エルフからの揶揄からかいを受けながら工場に向かった。いつも決まったエルフたちが、大通りを通りかかるリアを見て、待ち伏せをしていたように各々の感想を言い合うのだった。

 最初会ったエルフは確か、おかっぱ頭のエルフ一人だけだったのに、段々と人数が増えて、今では七、八人ほどのエルフが大通り沿いでリアの姿を面白そうに見ている。

 集団で自分の外見についてあれこれ言われるのは決して気分の良いものではない。リアは目を伏せ、居心地悪そうに自分の真っ赤な髪を撫でた。

 自分の腰まで伸ばした赤い髪は、両親やマルティンがよく褒めてくれたので、リア自身も気に入っていた。
 しかし、やはり初めて見る者にとっては驚きを与えてしまうらしく、はずれの村に越してきた時も、行商人が初めて村にやってきた時も、真っ赤な髪を見てぎょっとされたのをリアは覚えていた。自分の髪は王都の中でも珍しいらしく、エルフたちは挙ってリアの髪を論った。

 ――まるでパルシファーの綿毛の如き髪だな。

 ゼルドリックの意地悪そうな声が頭の中で響いた。リアの胸が、切なく軋んだ。

(ブラッドスター様も……赤い髪は、嫌いなのかな)

 目に何か熱いものが込み上げてくるような感覚があった。
 ゼルドリックが自分の赤い髪を毒草に例えるほど嫌っていることなんて、とうに分かっていることなのに。

(……余計なことは考えないようにしよう)

 リアは工場へ小走りで向かうことにした。早く自分の仕事に取り掛かりたかった。


 ――――――――――


 ファティアナはレントを伴って、時々鍛冶場の様子を見に来た。そしてリアに取り留めのない話を数分して、忙しなく鍛冶場を後にするのが常であった。

 一ヶ月に一度出来上がった作品を見せてほしいということだったが、黙々と作業に取り組んでいると、既にいくつかの装身具を揃えることが出来た。そのため、ファティアナが鍛冶場にやってきた際は、リアは随時自分の作ったものを見せるのだった。

 リアは手始めに、薔薇石英で作った桃色の耳飾りをファティアナに見せた。ゼルドリックの屋敷に咲き誇る桃色の薔薇を見て、ファティアナの耳に花を咲かせたら可愛らしいと考えた。

 耳飾りを作る際は、身体に巡った熱を冷ますように、ひたすら黒の王子様のことを考えた。そして、部屋を貸し面倒を見てくれるゼルドリックに対して、恩を返したい、期待に応えたいと、前向きな感情を込めながら薔薇石英を磨いた。

 耳飾りに込めた感情は、ファティアナの期待に沿うものだったらしい。ファティアナはリアの作った耳飾りを見て、切なく溜息を吐いたり、優しく微笑んだりした後に、リアに礼を言ってその耳飾りを持ち帰った。リアはファティアナの期待に応えられたことにほっとした。

 そして、今日も鍛冶場で作業をしていたところにファティアナが来たので、彼女に新たな装身具を手渡した。
 リアから受け取った装身具に喜び、ファティアナはそのまま忙しなく鍛冶場を後にした。

「素晴らしいですね! リアさん、今回もファティアナ様はとても喜んでいらっしゃいましたね」

 レントはリアに尊敬の眼差しを向けた。彼の灰色の目に宿る穏やかな親しみの色に、リアは笑みを返した。

「私の手で作ったものが、ファティアナ様に喜んでいただけてとても嬉しく思っています。次はどんなものを作ろうか、楽しみながら仕事が出来るのは良いですね」

 残されたレントとリアは、椅子に座りながら会話をした。

 リアはレントと度々会話を交わしたが、彼と仲良くなるのはあっという間だった。穏やかなレントは、リアの人見知りする性格を柔らかく受け止めるような雰囲気があったので、リアは安心して会話を楽しむことが出来た。

 彼に聞けば、レントの年齢は三十二でリアと近かった。そして彼も王都に来る前はリアと同じような田舎村で暮らしていたことを知った。同じ混ざり血同士の、同じ田舎村の出身。歳の近いリアとレントは、すぐに仲良くなった。

 レントは紅茶のカップを持ちながらリアに尋ねた。

「リアさん。今日は指輪を渡されていましたが、あの指輪は何をイメージしたのですか?」

「コスモスです! ブラッドスター様のお屋敷には、薔薇以外にもいくつかの花が植わっているんです。今はコスモスも綺麗で、庭を見ていると良い案がたくさん出てくるんですよ」

 リアが笑うと、レントはリアに柔らかな笑みを返した。

「ゼルドリック様のお屋敷は花が溢れていて見事ですからね。 ところでリアさん、ゼルドリック様とは上手くいってますか?」

 リアは肩をすくめ、残念そうに答えた。

「それが……お仕事が忙しいみたいで。お屋敷に帰ってこないので全く会えないのです。あ、でも……不思議なことに、私が起きたら必ず書き置きがサイドテーブルに置かれているのですよ! 魔法でカードを置いて下さっているのでしょうか? エルフの方は凄いですね」

 ゼルドリックの話をし、くすくすとリアは笑い声を上げた。それはとても幸せそうな笑い方でレントは顔を綻ばせた。

「そうですか、ゼルドリック様はリアさんにとても優しいのですね。ゼルドリック様は今相当忙しい筈で……。書き置きを残すのも大変だと思います。それでも毎朝リアさんに書き置きを残すということは、あなたを心から気にかけていらっしゃるのでしょうね」

 レントの言葉に、リアは自分の顔に熱が集まるのを感じた。誤魔化すように咳払いをすると、レントはくすりと笑った。

「そうだ、リアさん。気になってたのですが、最近体調が悪かったりしませんか? リアさんの顔が少し赤いので……」

 リアは身体の奥に何かが這いずり回るような感覚を思い出し、そっと目を伏せた。

「確かに、少し熱っぽいかなって思うことはありますね……。でも、近頃一気に気温が下がったので、そのせいかなと思いました。そのうち良くなるかと……」

「そうですか、くれぐれもご体調に気をつけて。何か異常があったら僕に言ってくださいね。頑張りすぎないように」

「はい、ありがとうございます」

 レントを見送った後、リアはまた、熱を振り払うように作業を続けた。

 ――あなたを心から気にかけていらっしゃるのでしょうね。

 レントの柔らかな声を反芻する。ゼルドリックの顔を思い出せば、リアの胸の奥が切なく震えた。

(会いたい……)

 皮肉げな笑みを浮かべるダークエルフ。彼の言葉に何度も傷付いてきたのに、リアはゼルドリックに無性に会いたくて仕方がなかった。


 ――――――――――


 夕暮れ時。

 リアは工場を後にして、ファティアナから貰った大量の給金を大事に抱えながら、王都の商店街を目指した。
 特に何か買いたいものがある訳でもなく、ただ気晴らしに、王都で売られている様々な品を見てみようと思った。

 人通りの多い商店街を歩くと、リアは自分の姿をじろじろと見られていることに気が付いた。特にエルフたちは、リアの真っ赤なふわふわとした髪を見た途端、パルシファーの綿毛の様だと口から溢した。

 リアは寄り道をしたことをすぐ後悔した。

(この髪……そんなに、おかしいのかしら)

 エルフたちから、毒草だと例えられる程に。
 ゼルドリックから、揶揄からかわれる程に。

 リアは悲しくなり涙を零さないように上を向くと、ふと染料店の看板が目に入った。年季の入った看板には、「髪染め」と書かれている。何かに導かれるように、リアはこぢんまりとした染料店の扉を開けた。

 カウンターには老婆が座っていて、リアが髪染めを見せてほしいと言えば、いくつかの染料を並べてくれた。

 茶、黒、金。安心感を与えるような、一般的な髪の色。リアはそこから薄茶の髪染めを選び、これを下さいと言った。

「嬢ちゃんの髪は、今の色でも可愛いと思うけれどねえ」

 何を言う訳でもなかったのに、老婆は思いつめたようなリアの顔を見て、何か感じるものがあったらしい。自分を気遣う老婆にリアは礼を言い、その染料店を後にした。

 髪染めの入った紙袋を持ちながら、リアはとぼとぼとばら屋敷に続く道を歩いた。

(なんで、こんなもの買っちゃったんだろう。自分の髪は好きなのに。父さんと母さんと、マルが褒めてくれるから、充分なはずなのに)

 ばら屋敷へと続く大通りを歩いた時、リアはまたエルフの集団から髪や身体付きを揶揄された。それがどうしようもなく悲しくて。リアは駆け足で屋敷へ入った。


 自室に入り、ベッド横のサイドテーブルに紙袋を置き、リアは震えた息を吐いた。限界だった。我慢していた涙が、ぽろりと溢れ落ちた。

 ――まるでパルシファーの綿毛の如き髪だな?

 ――エルフの女性は一般的に細身だ。君とは違う。君は随分と肉付きが良いな。どこを触っても柔らかそうだ。

 ゼルドリックから言われた言葉を頭の中で反芻する。リアは、流れていく涙を止めることが出来ず、とうとう肩を震わせてしゃくり上げた。こんなに泣いたのは、子供の頃以来だった。

(私の髪が赤くなかったら。私が痩せていたら。あのエルフたちの様に、すらりとして美しい姿をしていたら。ブラッドスター様は私を好いてくれたのだろうか?)

(王子様……。会いたいよ、私のことを受け入れて欲しい。そのままの私でいいって言って欲しい。辛いの、自分を否定するのは)

(本物のブラッドスター様が、王子様みたいに……優しかったら良かったのに。私のことを好いてくれたら良かったのに……)

 リアは後ろ向きな、悲観的な考えに支配された。
 その夜はどうしようもなく悲しくて、ベッドの中で涙を流し続けた。


 ――――――――――


 それから十日余りが経った。

 レントとファティアナは忙しいらしく工場に訪れることはなかった。ゼルドリックも屋敷に帰ってこない。リアは誰とも話さず、ひとりきりで工場と屋敷を往復するだけの生活を送った。

 リアは、すっかり食欲が湧かなくなってしまった。

 何も食べない日もあれば、林檎ひとつで過ごす日もあった。ドワーフの血を引くリアはたくさん食べないとすぐに痩せてしまう体質だったらしく、あっという間に身体から肉が無くなり、手は骨ばった。

 リアは鏡の中の自分を見て薄く笑った。
 このまま細くなれば、骨と皮だけになれば。誰にも何も言われなくなるだろうか?
 ゼルドリックも、自分を好いてくれるだろうか?

「あ、れ……?」

(そういえば、何で私……ブラッドスター様に好かれたがっているんだろう? まるで、彼に嫌われているのが悲しいみたいじゃない。まるで、私が彼を好きみたいじゃない……)

 はっとした。リアは、ブローチに込めた感情の正体を、やっと自分で掴んだ気がした。
 ファティアナが心惹かれた自分の感情の正体。

 それはおそらく、ゼルドリックへの恋慕だったのだ。

(そうか、私は……ブラッドスター様が好きなんだ)

(上から目線で、いつも嫌味な言い方をするけれど。仕事とはいえ、私の作業量を気遣って。軟膏やルージュをくれて。熱を出した私を治療してくれて。自分の家に住まわせて、毎日書き置きをくれて。棘があるのに、どこか優しいんだ)

(彼の大きな手、大きな身体。抱きしめられた時は恥ずかしかったけど、どこか安心した……)

(字が綺麗で、薔薇がたくさん植わっている綺麗なお屋敷に住んでいて、適当に植えたって言いながら、わざわざ野菜を耕した土に植えてくれて、料理が好きで……知らない彼を知ることができて、嬉しかった。もっと仲良くなりたいと思ったの)

 リアは、夢の中で出会う黒の王子様を思い出した。ゼルドリックの姿をした彼と口付け、触れ合うのが嬉しかった。幸せだった。あれはおそらくゼルドリックに対する恋情が、形を得て自分の前に現れたものなのだ。

(そうか、これが恋か……私は、ブラッドスター様に恋をしてしまったのね)

 リアは、また涙を溢した。

(笑えるわ。私は嫌われているのに。髪を毒草に例えられるほど、嫌われているのに)

 鏡の横には、染料店で買った髪染めが置いてある。毎朝、この赤い髪を染めなくてはと思うのに、リアはどうしてもそれを使う勇気が持てなかった。勇気の持てない自分が、尚更嫌いになった。


 ――――――――――


 ある日、力の入らない身体を引きずって大通りの道を歩いていると、リアは横から呼び止められた。

「おい、綿毛女」

 勢いのある声だった。誰かと見れば、それは毎朝自分を揶揄からかう集団の中にいるエルフの男だった。彼は随分と背が高く、リアは彼の顔を見上げるのに苦労した。若草色のおかっぱ頭が、さらさらと風に揺れている。エルフの集団は、今日もじろじろとリアを見て、何やらこそこそと話をした。リアは自分の髪を侮蔑するような呼び方に些かむっときて、ぶっきらぼうに答えた。

「私は綿毛女ではありません。リアと申します」

「貴様の名などとうに知っている」

 エルフの男はぴしゃりと答えた。なら何故自分の名を呼ばないのかとリアは思ったが、口を開く元気が無かった。

「……どなたですか」

 リアは静かな声で目の前の中央政府の制服を纏ったエルフに訊いた。

「私か? ゼルドリックの同僚だ! 奴より私の方が立派な屋敷に住んでいて、仕事も出来るがな!」

 おかっぱ頭の男は顎を突き出し、どうだと言わんばかりに胸を張った。リアは隠すことなく溜息を吐いた。ゼルドリックのような高慢なエルフとまた関わる羽目になるのは、勘弁願いたかった。

「まあ、私のことはいいのだ。それよりも貴様、なぜそんなやつれている?」

(やつれている……?)

 リアは自分の手を見た。数日食べないだけで骨が出てしまった自分の手。

 でも、これで良いのではないか? すらりとしたエルフのような姿になれば、誰からも何も言われないし、ゼルドリックに好いてもらえるかもしれないのだから。

「話しかけるつもりはなかったが、いい加減に見ていられんぞ。ドワーフの血を引く者は良く食べると聞いたが、食事量が足りないのではないか? 顔が赤いが体調が悪いのか? 万が一食い物に困っているなら私が食わせてやろうか?」

 エルフの男は矢継ぎ早にリアに話しかけた。リアはそれに応えることなく、短く笑った。

 やつれて良かったのではないか。このエルフたちは、自分の身体つきをずっと揶揄っていたのだから。あとは髪さえ染めてしまえば完璧になる。ゼルドリックに好かれるための資格を得られる。リアは暗く、自棄な考えに支配されていた。

 目の前のエルフの男は声が大きいように思えた。元気の無いリアにとっては快活な彼の声は遠ざけたいもので、リアは逃げるように顔を逸らした。

「気にしていただく必要はありません。……失礼します」

 リアは頭を小さく下げ先に進んだ。だから、エルフの集団が元気を失くして歩いていくリアを、気遣わしげに見ていたことには気付かなかった。


 ――――――――――


「疲れた」

 ゼルドリックは肩を落とし、思わずそう呟いた。王都の街並みを見るのは、随分と久しぶりのような気がした。

 気の張る諜報作業。昼夜問わず行われる戦闘。さすがのゼルドリックも肝を冷やす瞬間が何度もあり、過酷な任務で常に寝不足だった。最初はリアに「夢」を見せる余力もあったが、過酷を極める任務は、ゼルドリックから私的な時間を奪った。

 王都でも鷹を放ち、リアの自室のシャンデリアに監視用の魔宝玉を仕込んだというのに、長い間リアの記録を確認する時間が取れなかった。せめてリアに自分の存在を忘れないでほしくて、毎朝サイドテーブルに書き置きを贈ることがやっとだった。

(俺からリアと会う時間を奪いおって……これほど辞めたくなる時は今までに無かった。大体、汚職に手を染めた犯罪者の追跡など、一介の役人にやらせることではないだろう! リアと会えぬのなら、こんな職に就く意味など全くない。いやしかし、給金は良いからな。リアに贅沢はさせてやれるが……)

 ゼルドリックがくたびれた顔で登庁すれば、彼はあっという間に数人の同僚たちから囲まれた。労いの言葉もそこそこに、彼らはリアについて話し始めた。同僚たちはリアのパルシファーの綿毛のような赤い髪を、可愛らしいとか綺麗な色だと褒めそやした。エルフたちは、王都にやってきた見慣れないハーフドワーフの女に興味津々だった。

 ゼルドリックは唇を噛み締め、難しい顔でリアへの賛辞を聞いていた。もやもやとした不安と怒りがこみ上げる。この中の何人がリアに心を奪われたのだろうと思うと、気が気でなかった。

(リアは自分だけの姫君なのだ! 誰かに取られては堪らない……!)

 もうリアの話をするのは止めろと言いかけた時、人混みを掻き分けてオリヴァーがゼルドリックのもとにやってきた。

「貴様ら話は済んだだろう? 散れ! 私はゼルドリックと話さなければならないことがある!」

 群がる同僚たちを凄まじい勢いで追い払い、オリヴァーはゼルドリックに向き直った。その顔は苦々しく、どこかゼルドリックを責めているようにも見えた。

「ゼルドリック、貴様に言いたいことがある」

 労いの言葉もなしに、オリヴァーは低い声で切り出した。

「貴様、自分の屋敷に住まわせた女の面倒くらい見れぬのか? 留守の間の食事くらい保障して然るべきだろう! 特に混ざり血に対して私達は特別目を掛けてやらねば! 多種族差別解消法を忘れたのか!?」

「何?」

 ゼルドリックは低い声で聞き返した。オリヴァーの怒りの理由が分からなかった。

「貴様お気に入りの綿毛女だ! 随分と痩せたぞ! 彼女はおそらく満足な食事を摂っていない!」

 ゼルドリックは手に持っていた書類をばさりと落とした。

「どういうことだ、オリヴァー」

「言った通りだ。ある日を境に急に痩せ始めた。話しかけて食事を摂るように言っても聞かない、食事を渡そうとしても私のことが信頼できぬのか頑として受け取らない! しつこく話しかけすぎたのかとうとう私を見て逃げるようになった! 急いで彼女のもとに戻れ、私に監視を頼むほどにお気に入りなら、もっと大切にしろ!」

「……リア、が?」

「彼女は元気が無かった。貴様に会えなくて寂しいのかもしれんぞ! 持ち帰りの仕事は手伝ってやるから、終わり次第さっさと会いに行け!」

 オリヴァーは鼻をひとつ鳴らし、肩を怒らせながらゼルドリックの机から離れていった。

(……リア)

 ゼルドリックはその言葉を聞き、急いでリアに会わなければと凄まじい速さで持ち帰りの仕事を片付けた。仕事が片付いたのはちょうど夕暮れ時だった。リアへ渡す土産をかき集め、彼は再び自らの姿を黒い鷹に変えた。

(早くリアに会いたい……)

 ゼルドリックは疲労に塗れながらも、リアに会えると思うと気力が漲るのを感じた。
 美しい夕暮れの中、黒い鷹は見事な両翼をはためかせ屋敷を目指して勢いよく飛び立った。
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