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第二章
20.縮まる心の距離
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リアは髪染めを持ちながら、鏡の前で悩んでいた。染料を取り出して髪に塗っていくだけの簡単な行為。それだけのことなのに、リアはどうしても手が動かせなかった。
染料瓶からは独特の臭いが漂っている。リアはゼルドリックが貸してくれた部屋に臭いが染み付いてしまっては大変なので、腹を括って塗ってしまおうと決めた。
(薄茶色か。私の顔に似合うのかな?)
リアは髪を染めたことがない。いつだって自分の髪は真っ赤で、それが普通のことだと思っていた。
(髪だけ染めてもなあ、目は赤いし……余計瞳の色が目立って浮いちゃうかも。金とかの方が良かったのかなあ……)
あれこれ考えながら溜息を吐くと、その時、自室の扉が強く叩かれた。
「リローラン! いるか!? ゼルドリック=ブラッドスターだ! 今帰ったぞ!」
ゼルドリックの張りのある大きな声が響いた。
リアはゼルドリックに会いたくなかった。
ゼルドリックへの恋心を自覚したばかりで、改めて彼から嫌われているという現実に打ちのめされているのに、またゼルドリックから髪を揶揄されたら、もう受け流せないと思った。彼の前で、情けなく涙を流してしまいそうだった。
ゼルドリックは強く扉を叩き続けている。リアは仕方なく髪染めを置き、自室の扉を開けた。
「お帰りなさいませ。お元気な様で何よりです」
少しだけドアを開け、リアが微笑みを浮かべながらゼルドリックを迎えると、ゼルドリックはリアを見て、大きく目を見開いた。彼の抱えていた紙袋や何かしらの包みが、ばさばさと音を立てて落ちる。ゼルドリックの黒い手がリアに伸ばされた。
「ひゃっ……!?」
ゼルドリックはリアが手を添えていたドアを勢いよく開け、リアの骨ばった手首を掴んだ。
「何があった?」
ゼルドリックは大きく目を見開いたまま、低く厳しい声音でリアに訊いた。
リアは責められているように感じ、強い視線から逃げるように目を伏せながら何もないと答えた。しかし、ゼルドリックは手首を掴んだまま、厳しい視線をリアに送り続けた。
「何もない訳がないだろう? リローラン、君に何があった? こんなに痩せて……!?」
ゼルドリックはいきり立った。感情を剥き出しにしたような声をリアは初めて聞いた。
(怖い……)
リアは手首に込められる力の強さに、思わず眉をひそめた。放してほしくて手首を捩るも、ゼルドリックの大きな手からは全く逃げられなかった。
「本当に何もないのです。食事も取っています。それよりもブラッドスター様、お疲れでしょう? 自室でゆっくりと休まれた方が良いと思います」
リアは微笑みながら、ゼルドリックから逃げようとした。だがそれは叶わなかった。
「きゃあっ!? な、なにを……」
「……」
ゼルドリックはいきなりリアを姫抱きにすると、無言のまま大股で歩き、リアの自室のベッドに彼女の身体を横たえた。そして上からゆっくりとリアに覆い被さる。手首を掴まれ、足の間に膝をつかれ、リアは逃げられなくなってしまった。
押し倒されている。その距離の近さに、リアは思わず頬を染めてしまった。
「放して下さい」
「君は俺より力が強いだろう。放して欲しいなら、この手を退けて俺を突き飛ばしてみろ」
ゼルドリックは静かに言った。リアは拳を作り、手首を掴むゼルドリックの手から逃れようとしたが、全く動くことはなかった。リアは、今の自分がゼルドリックの手を退けられないというのは分かっていた。食べていないせいで、腕に殆ど力が入らない。
諦めたようにリアが力を抜くと、ゼルドリックはリアの頬を摩った。眉は下げられ、青い双眸が痛ましげにリアを見た。
「出来ないのだな……。力が入らないほど食べていないのだろう。何故だ? 話せ」
「食欲が湧かなかったので。何も心配していただく必要はありません」
リアは微笑んだ。ゼルドリックを納得させるように、微笑みながらゆっくり優しい声で話したが、ゼルドリックはリアの身体の上から退かない。
「君のその微笑む顔は社交辞令やごまかしの色が強い。俺を騙せるとでも? 話せ。話すまでここから退かない」
ゼルドリックは高圧的な態度でリアに命じたが、リアも退かなかった。
「私の笑顔をそんな風に思われていたのですか? 傷付きますね……でも、本当にただ食欲が湧かなかっただけなのですよ。季節の変わり目が近づいてきて、体調を崩してしまったのだと思います」
くすくすとリアは笑った。ゼルドリックはそのリアの笑い方に、傷付き不快感を覚えた。全く可笑しいとも思っていない、何かを隠すような空虚な笑い方。
(リアは、こんなに悲しい笑い方をする女じゃなかった筈だ)
「ブラッドスター様。お仕事がお忙しかったのでしょう? 自室に戻って休まれて下さい。後でお茶を淹れにいきますから」
「必要ない。俺の心配より自分の心配をしたらどうだ? 君は自分の姿を鏡で見ていないのか? やたら肉付きの良かった身体が、今は骨ばっているではないか」
「毎日見ておりますよ。その上で心配していただく必要はないと言っているのです」
「頑固者が……! その頑固さはドワーフの血を引く者らしいな。君に強制的に自白魔法をかけて、何があったのか吐かせてやってもいい。だが俺としてはそんなことをしたくないんだ、話せ」
「魔法をかけていただいても同じです。本当に何も話すことはありません」
リアとゼルドリックの応酬は続いた。リアは微笑みを崩さない。ゼルドリックは物静かで柔らかながらも、彼女の頑固さを目の当たりにした。
(ん……何だ? この臭いは)
ゼルドリックは微かに、鼻につんと来るような薬品臭が漂っていることに気が付いた。その臭いの元を探れば、姿見の前から漂ってきているようだった。ゼルドリックは素早く鏡の元に向かい、ひとつの小さな瓶を見つけた。
鏡の前に置かれていた、茶色の染料に満たされたそれ。ゼルドリックはその瓶に見覚えは無かったが、ひとつの可能性を思いついた。
「リローラン、君は……髪を染めようとしたな」
瓶を見つめたまま、ゼルドリックは感情の読み取れない声でぽつりと呟いた。リアは起き上がり、ゼルドリックの元に向かった。己に向けられる強い視線を受けても、リアは目を逸らさなかった。
「何故髪を染めようと?」
「お洒落をしたくなったのです。女が髪を染めるのは、特別珍しいことではないでしょう?」
「お洒落だと? 笑わせるな。必要ない。君には似合わない」
リアは傷付いた。
なら、どんな色なら似合うというのか。この赤い髪色を厭うのなら、代わりに自分に似合う色を教えてほしかった。
ゼルドリックは瓶を持ち上げ、何かを我慢するように強く握りしめた。
「あら、染めてみたら案外似合うかもしれませんよ? 私は丁度髪染めに取り掛かろうとしていたのです。その瓶を渡して下さいませんか?」
「しつこい。この瓶は処分する。君が髪を染めるのは認めない」
ゼルドリックは取り付く島もなく、瓶を屑箱の中に突っ込んだ。その乱暴な振る舞いにリアも目を見開いた。
「ブラッドスター様……! 何を……」
「田舎から出てきたばかりの君が、俺の居ない間にこの王都で何を目にし、何に影響されたのかは分からない……だが下らんことを考えるな。その赤い髪をわざわざ染めるのは愚かなことだ。もう一度言う。君が髪を染めるのは認めない」
「どんな髪の色にしようと私の自由です! 私にも選択の自由があります」
「無い。俺の庇護下にある限りは」
「それならば、このお屋敷を出て行きます……!」
「何だと?」
ゼルドリックはリアに近づき、勢い良く肩を掴んだ。だがゼルドリックはその肩の細さに驚き、すぐ手の力を抜いた。
「こうして話をしていても埒が明かない! リローラン、頼むから話してくれ……君がそんなに頑なになる訳を。一体どうしたんだ、こんなに痩せて……髪まで染めようとして。髪染めなんて、君には必要ないだろう?」
ゼルドリックはリアの赤い髪を一房手に取り口の端を曲げた。
「君は充分個性的な髪色をしているんだ。パルシファーの綿毛の様な真っ赤な色。どこにいても目立つ色。世界中のものが集まる王都の中でも、その物珍しい髪色はそう見つかるものではないぞ」
パルシファー。
アカドクジシソウ。忌み嫌われる、毒草の名前。
その名をゼルドリックが口にした途端、リアの微笑みが崩れた。
(彼に好かれたいのに、髪を染めることすら許してくれないなんて……どうすればいいんだろう)
ゼルドリックに喜んでもらいたかった。好かれたかった。だから日毎に痩せていく自分を鏡で見て、嬉しかった。肉付きが良いと評し続けたゼルドリックは、きっと自分の体型が気に入らなくて、毎週論ったのだ。痩せたらきっと喜んでくれる。なのに目の前の彼は、痩せた自分に痛ましい視線を向ける。毒草に例え続けたこの髪すら染めることを許してくれない。
どうすればいいのだろう。
どうすれば、好かれる資格を得られるのだろう。
彼が好き。彼に好かれたい。彼と仲良くなりたいのに。
リアの感情が溢れた。
「……リローラン?」
リアはぽたり、と自分の胸に何かが滴ったのを感じた。
何かと見ればそれは自分の涙で、次々と目から流れ落ちていく。リアは涙を止めることが出来なかった。ただ呆然と、決壊したように涙をこぼし続けた。
「リローラン、どうした……」
ゼルドリックは呆然と、リアの泣く姿を見つめた。
ゼルドリックは心が苦しくなった。彼女が泣く訳が分からなかった。彼女が涙を流すのは、己が与えた快楽ですすり泣く時だけでいい。こんな風に悲しそうに泣いてほしくないと強く思った。
「疲れたのです」
リアは泣きながら笑った。
「この髪の色も、この体型も……他人から、特にエルフの方々から、論われるのが疲れたのです。ご存知ですか? 私がこのお屋敷を出て工場に向かうと、毎朝エルフの方々がいらっしゃって、私の髪を、私の体型をあれこれ言うのです。ブラッドスター様が仰るように、まるでこの髪が綿毛の様だと」
ゼルドリックは目を見開いた。
(俺の同僚たちのことか)
「私が痩せて……良かったではないですか。これだけ痩せれば、誰からも何も言われることはない……ブラッドスター様に不快感を与えることもない」
「俺は不快だなんて一度も思ったことはない!」
「ふふ、そうなのですか? 毎週の視察の際も、私をよく肉付きが良いと評していたので、不快なのだと思っていました」
「っ……」
ゼルドリックは言葉を紡げなくなった。
「リローラン、まさか君はそれで……?」
ゼルドリックは力なく肩を掴んでいた手を下ろした。リアはこくりと頷いた。
「自分の身体のことを、他人から指摘されるのは辛いものです」
リアは、はらはらと涙を流しながら続けた。
「言われた言葉が消えなくて……何度も振り返ってしまって。そうしていたら食欲が無くなったので、しばらく食べることを止めてみたのです。ハーフドワーフの私は、食べないとすぐ痩せる体質だったみたいで。こんなことなら、もっと早く痩せておけば良かったですね。ブラッドスター様。今の私なら受け入れられますか?」
そう言って笑うリアを、ゼルドリックは次の言葉を遮るように抱きしめた。リアは頭をゼルドリックの胸に押し付けられ、リアの視界が黒一色に染まる。自分を抱える腕が小刻みに震えている。リアは訝しげにゼルドリックに訊ねた。
「……ブラッドスター様?」
「済まない、リローラン。本当に済まない……」
震えた声で、ゼルドリックはひたすらリアに謝り続けた。
「俺は……君の赤い髪も、柔らかな体も、どちらも好ましく思っているんだ。本当だ……」
リアはゼルドリックの胸板に濡れた顔を埋めたまま、彼の言葉に耳を傾けた。その弱々しい声。高慢さのかけらもない様は、彼らしくないとリアは思った。
「握手を交わすたびに、君の柔らかい掌に触れることができて嬉しかった。その身体を抱きしめたら、どんなに柔らかくて気持ち良いだろうといつも思っていた。夕暮れの美しい日、高台でついに君を抱きしめた時は、想像以上の柔らかさ、心地良さに感動した。君に触れることができて、心が満たされたんだ……良い香りで、温かくて、幸せだった」
(えっ?)
「君に触れたいあまり、君の身体付きを揶揄するようなことばかり言ってしまった。本当に申し訳ないことをした……謝っても済むことではないが、これだけは分かってくれ。俺は君の身体付きが好きだ。自分の身体を厭わないでくれ。女らしい曲線を描く君の身体はとても美しい……。健康的で、肉感的で実に心が惹かれる。だから、しっかり食事をとってくれ。自分の健康を損ねるようなことはしないでくれ……頼む……!」
ゼルドリックの告白。それは流れ続けていたリアの涙を、いつの間にか止めた。
そしてリアは、自分の顔に一気に熱が集まるのを感じた。
(え!? ……ま、待って! ブラッドスター様、すごく恥ずかしいこと言ってない!?)
「赤い髪もだ……。夕日を溶かしたような、繊細で美しい色。君の髪が風に揺られていると、つい触れたくなってしまう。君の髪はふわふわとしていて、だけど滑らかで、触っているととても落ち着くんだ。桃のような、薔薇のような良い香りもする」
とくとくと、リアの耳にゼルドリックの鼓動が響く。
心臓が早鐘を打つ。ゼルドリックの言葉が信じられない。
「一日の終わり、必ず君の赤い髪を思い浮かべる。一度見たら忘れられないような綺麗な色。ずっと君に会えなかった、寂しかった。俺は仕事が辛くても、君の赤い髪と赤い瞳を思い出せば、いくらでも頑張れる気がするんだ……。ずっと、直接見る日を楽しみに待っていた。こうして君の髪に触れられて幸せなんだ」
「あ……あ……!」
リアは口をぱくぱくとさせた。自分を抱きしめる男が、本当にあのゼルドリックなのか確かめたかった。
こんな甘く真っ直ぐな言葉。まるで自分の夢の中に出てくる黒の王子様の様ではないか?
「リア……髪染めを勝手に捨ててしまったのは謝る。俺は頭に血が上ってしまった。……俺が部屋を貸しているとはいえ、君の選択の自由を奪う権利などないのに。君が……その、心から本当に他の色に染めたいというなら、俺は止められない。どんな色でもきっと君の赤い瞳に似合うと思う。でも、誰かに何か言われたから染めるなんてことはしないでくれ、君の髪が一番美しいんだ! 今のままでもいい! 俺は大好きなんだ、君の赤い色が……」
「ふぇ……やっ……は、はなして、放してくださいっ」
リアは限界だった。これ以上ゼルドリックに言葉を紡がせては、自分の身体が蕩けてしまいそうな気がした。吃りながら必死に彼の胸板を叩けば、ゼルドリックの身体がふらりと離れた。
「やはり……許してもらえないだろうか」
ゼルドリックは眉と、黒く尖った耳をしゅんと下げた。
「あっ……あの、充分です、充分気持ちは伝わりましたから……」
リアは真っ赤になった顔をごまかすように、横を向きながらゼルドリックに言った。
「……だが、君は目も合わせてくれないじゃないか」
ゼルドリックの悲しそうな呟きがこぼれる。
「あ……それは……」
「俺は……任務で君をしばらく見守ることが出来なくなると考えた。だから、同僚に君の行き帰りを見守る様に頼んだんだ。結局傷付ける形になってしまって、どうしようもないがな……併せて謝りたい、済まない……」
(え、ブラッドスター様が頼んだの?)
リアは合点がいった。中央政府の役人だと思われるエルフたちが、あんな早朝に集団で大通りにいる方がおかしいのだ。ゼルドリックはリアの為に、同僚に頭を下げたのだろう。
そしてリアは思い出した。ゼルドリックが毎朝、サイドテーブルに書き置きを残してくれたこと。
任務で忙しい中、欠かさず自分の身を案じてカードを送ってくれた。今も、誠心誠意自分に謝ってくれているのを感じる。リアは悲しかった自分の心が温かくなり、まるでふわふわとしたものに包まれている感じがした。
(……嬉しい)
リアはゼルドリックに向き直った。真っ赤になってしまった顔を見られるだろうが、許しを受け入れてもらえないと思い込み、落ち込んだように耳を下げる彼と話さなければならないと思った。
「ブラッドスター様……その、お気持ちは伝わりました。ですから、そのような顔をなさらないで下さい」
リアは手を伸ばして、ゼルドリックの黒く大きな手を握った。骨張ってしまったが、彼が好きだと言ってくれた自分の手の柔らかさを少しでも伝えたかった。
「私……毎朝、ブラッドスター様が書き置きを残してくださって、嬉しかったのですよ。……同僚の方に見守りを頼んだのも、私のことを案じてくださったのですね。……あなたがそう言ってくださるのなら、もう良いのです。髪はこのままにします。食事もしっかり摂ることにします」
「リローラン……」
リアはゼルドリックの手をぎゅっと握って、真っ直ぐ彼の顔を見た。彼は、リアが本心から言っていることを瞳から汲み取ったらしい。
「良かった」
ゼルドリックはリアの顔を見て微笑んだ。そして、リアの頬が紅潮していることに気がついた。
「……なあ、なぜ君はそんなに顔を赤くしているんだ?」
「えっ!? だって、ブラッドスター様が恥ずかしい言葉で私の身体や髪を褒めるので……!」
「恥ずかしい言葉だと? …………あっ」
ゼルドリックは短い息を漏らした。自分が先程リアに対して何を言ったのか、今思い出したらしい。
「お、俺は……何てことを……」
ゼルドリックは口元に手をやり、今度は彼がリアから勢い良く顔を逸らした。黒く尖った耳が、ひくひくと動くのをリアは見た。あの高慢で、嫌味たらしいゼルドリック=ブラッドスターが照れている。リアは恥ずかしさのあまりこそばゆくなった。
リアとゼルドリックはしばらくそのまま照れあっていたが、やがて落ち着きを取り戻したリアが、ゼルドリックに切り出した。
「ブラッドスター様、お疲れでしょう。一緒にお茶でも飲みませんか?」
リアの部屋のベッドに腰掛けながら、二人はぽつぽつと話し続けていた。
「あ、の……恥ずかしいのですが」
「俺も恥ずかしい、君に……あんなことを、言ってしまうだなんて」
ゼルドリックは照れ臭そうにリアから顔を逸らしたが、その手はリアの側頭部に添えられていた。リアもまた彼のひくひくと動く長い耳を見ながら、顔を真っ赤にした。
リアはゼルドリックが淹れてくれたココアを飲みながら、ひたすら彼に頭を撫でられ続けていた。その手つきが優しくて、リアは張り詰めていた心が解きほぐされていくような心地がした。
「でも本心だから、良いんだ。君にいずれは伝えたかった。……君が、その……甘いものを飲んでくれてほっとした」
久しぶりのココアが、リアの心と身体に沁み渡る。リアは安心するように、ゼルドリックに少しだけ身体を寄せた。
(……私とブラッドスター様の距離が縮まった気がするわ)
彼は高慢な言い方をするが、真っ直ぐであること。
緊張したり照れると黒く長い耳が動くこと。
黒の王子様と同じく自らのことを俺と呼ぶこと。
自分の身体の柔らかさと髪が好きなこと。
リアがカップを持って微笑むと、ゼルドリックは紙袋から何かを取り出した。袋を開けて、リアの唇にそれをそっと添える。
「ひゃっ…………あ、美味しい……!」
「ブールドネージュだ」
粉糖が付いている、とゼルドリックはリアの唇を優しく撫でた。そしてリアの唇にまた、新しいクッキーを添える。手ずから与えられるクッキーは、親鳥が雛に餌を与えているようで、リアはまた顔を赤くしてしまった。
「君が喜ぶかと思って買ってきた。この近くには、俺の好きな菓子屋があるのだ。君が甘いものを好むのなら共に行こう」
ゼルドリックは甘く微笑んだ。リアも満面の笑みを返した。
「はい、楽しみです」
会えなかったひと月程の時間を埋める様に、リアとゼルドリックはそれからも色々な話をした。リアは不安から悲しみから解放され、その日はよく眠った。ゼルドリックが、安心させるようにリアの髪をずっと撫でていた。
――――――――――
翌日。
リアとゼルドリックは休みを取り、二人で共に過ごした。中央政府の制服を纏わないゼルドリックは、シンプルなシャツを着ていた。リアはその見慣れない格好に顔を赤くし、ゼルドリックに揶揄われた。一緒に料理をしたり、庭園の薔薇を見たり、買い物に行ったり。そして昼下がりには、ゼルドリックが好きだという菓子屋のテラスにて二人でケーキを食べていた。
「わあ、見てくださいこのケーキ。可愛いですね、チョコレートが薔薇になってます! うん、とっても美味しい」
「そうだな、可愛いな。……リア、こっちも食べろ」
「わあ、このベリータルトも美味しい!」
リアはにこにこと笑いながらたくさんケーキを食べた。身体の大きいゼルドリックも、リアに負けじとケーキを平らげている。テラス席に座る、身体の大きなダークエルフと真っ赤な髪の女の組み合わせは他人の目を引いた。
そしてやはり、近くにいるエルフはリアの髪を見てパルシファーの綿毛の様だと口に出した。
「……大丈夫か」
ゼルドリックが気遣わしげにリアに訊いた。
「……? 何がですか?」
リアは大きな苺をフォークに刺したまま聞き返した。その顔に一切の陰はない。
「その、君の髪のことだ」
「ふふっ。どんなに言われたって、もう平気です」
あなたが認めてくれたから。
好きな人が、私の髪を好きって褒めてくれたから。
だからもう平気なの。
あなたが認めてくれるのなら、もう泣かない。
リアはそんな気持ちを込めて、ゼルドリックに笑いかけた。
澄んだ青空が広がる秋晴れの中、太陽の光を受けて眩しく笑うリア。ゼルドリックはリアのその満面の笑みを、ずっと見ていたいと思った。
その笑顔は、彼の宝物になった。かけがえのない、宝物になった。
染料瓶からは独特の臭いが漂っている。リアはゼルドリックが貸してくれた部屋に臭いが染み付いてしまっては大変なので、腹を括って塗ってしまおうと決めた。
(薄茶色か。私の顔に似合うのかな?)
リアは髪を染めたことがない。いつだって自分の髪は真っ赤で、それが普通のことだと思っていた。
(髪だけ染めてもなあ、目は赤いし……余計瞳の色が目立って浮いちゃうかも。金とかの方が良かったのかなあ……)
あれこれ考えながら溜息を吐くと、その時、自室の扉が強く叩かれた。
「リローラン! いるか!? ゼルドリック=ブラッドスターだ! 今帰ったぞ!」
ゼルドリックの張りのある大きな声が響いた。
リアはゼルドリックに会いたくなかった。
ゼルドリックへの恋心を自覚したばかりで、改めて彼から嫌われているという現実に打ちのめされているのに、またゼルドリックから髪を揶揄されたら、もう受け流せないと思った。彼の前で、情けなく涙を流してしまいそうだった。
ゼルドリックは強く扉を叩き続けている。リアは仕方なく髪染めを置き、自室の扉を開けた。
「お帰りなさいませ。お元気な様で何よりです」
少しだけドアを開け、リアが微笑みを浮かべながらゼルドリックを迎えると、ゼルドリックはリアを見て、大きく目を見開いた。彼の抱えていた紙袋や何かしらの包みが、ばさばさと音を立てて落ちる。ゼルドリックの黒い手がリアに伸ばされた。
「ひゃっ……!?」
ゼルドリックはリアが手を添えていたドアを勢いよく開け、リアの骨ばった手首を掴んだ。
「何があった?」
ゼルドリックは大きく目を見開いたまま、低く厳しい声音でリアに訊いた。
リアは責められているように感じ、強い視線から逃げるように目を伏せながら何もないと答えた。しかし、ゼルドリックは手首を掴んだまま、厳しい視線をリアに送り続けた。
「何もない訳がないだろう? リローラン、君に何があった? こんなに痩せて……!?」
ゼルドリックはいきり立った。感情を剥き出しにしたような声をリアは初めて聞いた。
(怖い……)
リアは手首に込められる力の強さに、思わず眉をひそめた。放してほしくて手首を捩るも、ゼルドリックの大きな手からは全く逃げられなかった。
「本当に何もないのです。食事も取っています。それよりもブラッドスター様、お疲れでしょう? 自室でゆっくりと休まれた方が良いと思います」
リアは微笑みながら、ゼルドリックから逃げようとした。だがそれは叶わなかった。
「きゃあっ!? な、なにを……」
「……」
ゼルドリックはいきなりリアを姫抱きにすると、無言のまま大股で歩き、リアの自室のベッドに彼女の身体を横たえた。そして上からゆっくりとリアに覆い被さる。手首を掴まれ、足の間に膝をつかれ、リアは逃げられなくなってしまった。
押し倒されている。その距離の近さに、リアは思わず頬を染めてしまった。
「放して下さい」
「君は俺より力が強いだろう。放して欲しいなら、この手を退けて俺を突き飛ばしてみろ」
ゼルドリックは静かに言った。リアは拳を作り、手首を掴むゼルドリックの手から逃れようとしたが、全く動くことはなかった。リアは、今の自分がゼルドリックの手を退けられないというのは分かっていた。食べていないせいで、腕に殆ど力が入らない。
諦めたようにリアが力を抜くと、ゼルドリックはリアの頬を摩った。眉は下げられ、青い双眸が痛ましげにリアを見た。
「出来ないのだな……。力が入らないほど食べていないのだろう。何故だ? 話せ」
「食欲が湧かなかったので。何も心配していただく必要はありません」
リアは微笑んだ。ゼルドリックを納得させるように、微笑みながらゆっくり優しい声で話したが、ゼルドリックはリアの身体の上から退かない。
「君のその微笑む顔は社交辞令やごまかしの色が強い。俺を騙せるとでも? 話せ。話すまでここから退かない」
ゼルドリックは高圧的な態度でリアに命じたが、リアも退かなかった。
「私の笑顔をそんな風に思われていたのですか? 傷付きますね……でも、本当にただ食欲が湧かなかっただけなのですよ。季節の変わり目が近づいてきて、体調を崩してしまったのだと思います」
くすくすとリアは笑った。ゼルドリックはそのリアの笑い方に、傷付き不快感を覚えた。全く可笑しいとも思っていない、何かを隠すような空虚な笑い方。
(リアは、こんなに悲しい笑い方をする女じゃなかった筈だ)
「ブラッドスター様。お仕事がお忙しかったのでしょう? 自室に戻って休まれて下さい。後でお茶を淹れにいきますから」
「必要ない。俺の心配より自分の心配をしたらどうだ? 君は自分の姿を鏡で見ていないのか? やたら肉付きの良かった身体が、今は骨ばっているではないか」
「毎日見ておりますよ。その上で心配していただく必要はないと言っているのです」
「頑固者が……! その頑固さはドワーフの血を引く者らしいな。君に強制的に自白魔法をかけて、何があったのか吐かせてやってもいい。だが俺としてはそんなことをしたくないんだ、話せ」
「魔法をかけていただいても同じです。本当に何も話すことはありません」
リアとゼルドリックの応酬は続いた。リアは微笑みを崩さない。ゼルドリックは物静かで柔らかながらも、彼女の頑固さを目の当たりにした。
(ん……何だ? この臭いは)
ゼルドリックは微かに、鼻につんと来るような薬品臭が漂っていることに気が付いた。その臭いの元を探れば、姿見の前から漂ってきているようだった。ゼルドリックは素早く鏡の元に向かい、ひとつの小さな瓶を見つけた。
鏡の前に置かれていた、茶色の染料に満たされたそれ。ゼルドリックはその瓶に見覚えは無かったが、ひとつの可能性を思いついた。
「リローラン、君は……髪を染めようとしたな」
瓶を見つめたまま、ゼルドリックは感情の読み取れない声でぽつりと呟いた。リアは起き上がり、ゼルドリックの元に向かった。己に向けられる強い視線を受けても、リアは目を逸らさなかった。
「何故髪を染めようと?」
「お洒落をしたくなったのです。女が髪を染めるのは、特別珍しいことではないでしょう?」
「お洒落だと? 笑わせるな。必要ない。君には似合わない」
リアは傷付いた。
なら、どんな色なら似合うというのか。この赤い髪色を厭うのなら、代わりに自分に似合う色を教えてほしかった。
ゼルドリックは瓶を持ち上げ、何かを我慢するように強く握りしめた。
「あら、染めてみたら案外似合うかもしれませんよ? 私は丁度髪染めに取り掛かろうとしていたのです。その瓶を渡して下さいませんか?」
「しつこい。この瓶は処分する。君が髪を染めるのは認めない」
ゼルドリックは取り付く島もなく、瓶を屑箱の中に突っ込んだ。その乱暴な振る舞いにリアも目を見開いた。
「ブラッドスター様……! 何を……」
「田舎から出てきたばかりの君が、俺の居ない間にこの王都で何を目にし、何に影響されたのかは分からない……だが下らんことを考えるな。その赤い髪をわざわざ染めるのは愚かなことだ。もう一度言う。君が髪を染めるのは認めない」
「どんな髪の色にしようと私の自由です! 私にも選択の自由があります」
「無い。俺の庇護下にある限りは」
「それならば、このお屋敷を出て行きます……!」
「何だと?」
ゼルドリックはリアに近づき、勢い良く肩を掴んだ。だがゼルドリックはその肩の細さに驚き、すぐ手の力を抜いた。
「こうして話をしていても埒が明かない! リローラン、頼むから話してくれ……君がそんなに頑なになる訳を。一体どうしたんだ、こんなに痩せて……髪まで染めようとして。髪染めなんて、君には必要ないだろう?」
ゼルドリックはリアの赤い髪を一房手に取り口の端を曲げた。
「君は充分個性的な髪色をしているんだ。パルシファーの綿毛の様な真っ赤な色。どこにいても目立つ色。世界中のものが集まる王都の中でも、その物珍しい髪色はそう見つかるものではないぞ」
パルシファー。
アカドクジシソウ。忌み嫌われる、毒草の名前。
その名をゼルドリックが口にした途端、リアの微笑みが崩れた。
(彼に好かれたいのに、髪を染めることすら許してくれないなんて……どうすればいいんだろう)
ゼルドリックに喜んでもらいたかった。好かれたかった。だから日毎に痩せていく自分を鏡で見て、嬉しかった。肉付きが良いと評し続けたゼルドリックは、きっと自分の体型が気に入らなくて、毎週論ったのだ。痩せたらきっと喜んでくれる。なのに目の前の彼は、痩せた自分に痛ましい視線を向ける。毒草に例え続けたこの髪すら染めることを許してくれない。
どうすればいいのだろう。
どうすれば、好かれる資格を得られるのだろう。
彼が好き。彼に好かれたい。彼と仲良くなりたいのに。
リアの感情が溢れた。
「……リローラン?」
リアはぽたり、と自分の胸に何かが滴ったのを感じた。
何かと見ればそれは自分の涙で、次々と目から流れ落ちていく。リアは涙を止めることが出来なかった。ただ呆然と、決壊したように涙をこぼし続けた。
「リローラン、どうした……」
ゼルドリックは呆然と、リアの泣く姿を見つめた。
ゼルドリックは心が苦しくなった。彼女が泣く訳が分からなかった。彼女が涙を流すのは、己が与えた快楽ですすり泣く時だけでいい。こんな風に悲しそうに泣いてほしくないと強く思った。
「疲れたのです」
リアは泣きながら笑った。
「この髪の色も、この体型も……他人から、特にエルフの方々から、論われるのが疲れたのです。ご存知ですか? 私がこのお屋敷を出て工場に向かうと、毎朝エルフの方々がいらっしゃって、私の髪を、私の体型をあれこれ言うのです。ブラッドスター様が仰るように、まるでこの髪が綿毛の様だと」
ゼルドリックは目を見開いた。
(俺の同僚たちのことか)
「私が痩せて……良かったではないですか。これだけ痩せれば、誰からも何も言われることはない……ブラッドスター様に不快感を与えることもない」
「俺は不快だなんて一度も思ったことはない!」
「ふふ、そうなのですか? 毎週の視察の際も、私をよく肉付きが良いと評していたので、不快なのだと思っていました」
「っ……」
ゼルドリックは言葉を紡げなくなった。
「リローラン、まさか君はそれで……?」
ゼルドリックは力なく肩を掴んでいた手を下ろした。リアはこくりと頷いた。
「自分の身体のことを、他人から指摘されるのは辛いものです」
リアは、はらはらと涙を流しながら続けた。
「言われた言葉が消えなくて……何度も振り返ってしまって。そうしていたら食欲が無くなったので、しばらく食べることを止めてみたのです。ハーフドワーフの私は、食べないとすぐ痩せる体質だったみたいで。こんなことなら、もっと早く痩せておけば良かったですね。ブラッドスター様。今の私なら受け入れられますか?」
そう言って笑うリアを、ゼルドリックは次の言葉を遮るように抱きしめた。リアは頭をゼルドリックの胸に押し付けられ、リアの視界が黒一色に染まる。自分を抱える腕が小刻みに震えている。リアは訝しげにゼルドリックに訊ねた。
「……ブラッドスター様?」
「済まない、リローラン。本当に済まない……」
震えた声で、ゼルドリックはひたすらリアに謝り続けた。
「俺は……君の赤い髪も、柔らかな体も、どちらも好ましく思っているんだ。本当だ……」
リアはゼルドリックの胸板に濡れた顔を埋めたまま、彼の言葉に耳を傾けた。その弱々しい声。高慢さのかけらもない様は、彼らしくないとリアは思った。
「握手を交わすたびに、君の柔らかい掌に触れることができて嬉しかった。その身体を抱きしめたら、どんなに柔らかくて気持ち良いだろうといつも思っていた。夕暮れの美しい日、高台でついに君を抱きしめた時は、想像以上の柔らかさ、心地良さに感動した。君に触れることができて、心が満たされたんだ……良い香りで、温かくて、幸せだった」
(えっ?)
「君に触れたいあまり、君の身体付きを揶揄するようなことばかり言ってしまった。本当に申し訳ないことをした……謝っても済むことではないが、これだけは分かってくれ。俺は君の身体付きが好きだ。自分の身体を厭わないでくれ。女らしい曲線を描く君の身体はとても美しい……。健康的で、肉感的で実に心が惹かれる。だから、しっかり食事をとってくれ。自分の健康を損ねるようなことはしないでくれ……頼む……!」
ゼルドリックの告白。それは流れ続けていたリアの涙を、いつの間にか止めた。
そしてリアは、自分の顔に一気に熱が集まるのを感じた。
(え!? ……ま、待って! ブラッドスター様、すごく恥ずかしいこと言ってない!?)
「赤い髪もだ……。夕日を溶かしたような、繊細で美しい色。君の髪が風に揺られていると、つい触れたくなってしまう。君の髪はふわふわとしていて、だけど滑らかで、触っているととても落ち着くんだ。桃のような、薔薇のような良い香りもする」
とくとくと、リアの耳にゼルドリックの鼓動が響く。
心臓が早鐘を打つ。ゼルドリックの言葉が信じられない。
「一日の終わり、必ず君の赤い髪を思い浮かべる。一度見たら忘れられないような綺麗な色。ずっと君に会えなかった、寂しかった。俺は仕事が辛くても、君の赤い髪と赤い瞳を思い出せば、いくらでも頑張れる気がするんだ……。ずっと、直接見る日を楽しみに待っていた。こうして君の髪に触れられて幸せなんだ」
「あ……あ……!」
リアは口をぱくぱくとさせた。自分を抱きしめる男が、本当にあのゼルドリックなのか確かめたかった。
こんな甘く真っ直ぐな言葉。まるで自分の夢の中に出てくる黒の王子様の様ではないか?
「リア……髪染めを勝手に捨ててしまったのは謝る。俺は頭に血が上ってしまった。……俺が部屋を貸しているとはいえ、君の選択の自由を奪う権利などないのに。君が……その、心から本当に他の色に染めたいというなら、俺は止められない。どんな色でもきっと君の赤い瞳に似合うと思う。でも、誰かに何か言われたから染めるなんてことはしないでくれ、君の髪が一番美しいんだ! 今のままでもいい! 俺は大好きなんだ、君の赤い色が……」
「ふぇ……やっ……は、はなして、放してくださいっ」
リアは限界だった。これ以上ゼルドリックに言葉を紡がせては、自分の身体が蕩けてしまいそうな気がした。吃りながら必死に彼の胸板を叩けば、ゼルドリックの身体がふらりと離れた。
「やはり……許してもらえないだろうか」
ゼルドリックは眉と、黒く尖った耳をしゅんと下げた。
「あっ……あの、充分です、充分気持ちは伝わりましたから……」
リアは真っ赤になった顔をごまかすように、横を向きながらゼルドリックに言った。
「……だが、君は目も合わせてくれないじゃないか」
ゼルドリックの悲しそうな呟きがこぼれる。
「あ……それは……」
「俺は……任務で君をしばらく見守ることが出来なくなると考えた。だから、同僚に君の行き帰りを見守る様に頼んだんだ。結局傷付ける形になってしまって、どうしようもないがな……併せて謝りたい、済まない……」
(え、ブラッドスター様が頼んだの?)
リアは合点がいった。中央政府の役人だと思われるエルフたちが、あんな早朝に集団で大通りにいる方がおかしいのだ。ゼルドリックはリアの為に、同僚に頭を下げたのだろう。
そしてリアは思い出した。ゼルドリックが毎朝、サイドテーブルに書き置きを残してくれたこと。
任務で忙しい中、欠かさず自分の身を案じてカードを送ってくれた。今も、誠心誠意自分に謝ってくれているのを感じる。リアは悲しかった自分の心が温かくなり、まるでふわふわとしたものに包まれている感じがした。
(……嬉しい)
リアはゼルドリックに向き直った。真っ赤になってしまった顔を見られるだろうが、許しを受け入れてもらえないと思い込み、落ち込んだように耳を下げる彼と話さなければならないと思った。
「ブラッドスター様……その、お気持ちは伝わりました。ですから、そのような顔をなさらないで下さい」
リアは手を伸ばして、ゼルドリックの黒く大きな手を握った。骨張ってしまったが、彼が好きだと言ってくれた自分の手の柔らかさを少しでも伝えたかった。
「私……毎朝、ブラッドスター様が書き置きを残してくださって、嬉しかったのですよ。……同僚の方に見守りを頼んだのも、私のことを案じてくださったのですね。……あなたがそう言ってくださるのなら、もう良いのです。髪はこのままにします。食事もしっかり摂ることにします」
「リローラン……」
リアはゼルドリックの手をぎゅっと握って、真っ直ぐ彼の顔を見た。彼は、リアが本心から言っていることを瞳から汲み取ったらしい。
「良かった」
ゼルドリックはリアの顔を見て微笑んだ。そして、リアの頬が紅潮していることに気がついた。
「……なあ、なぜ君はそんなに顔を赤くしているんだ?」
「えっ!? だって、ブラッドスター様が恥ずかしい言葉で私の身体や髪を褒めるので……!」
「恥ずかしい言葉だと? …………あっ」
ゼルドリックは短い息を漏らした。自分が先程リアに対して何を言ったのか、今思い出したらしい。
「お、俺は……何てことを……」
ゼルドリックは口元に手をやり、今度は彼がリアから勢い良く顔を逸らした。黒く尖った耳が、ひくひくと動くのをリアは見た。あの高慢で、嫌味たらしいゼルドリック=ブラッドスターが照れている。リアは恥ずかしさのあまりこそばゆくなった。
リアとゼルドリックはしばらくそのまま照れあっていたが、やがて落ち着きを取り戻したリアが、ゼルドリックに切り出した。
「ブラッドスター様、お疲れでしょう。一緒にお茶でも飲みませんか?」
リアの部屋のベッドに腰掛けながら、二人はぽつぽつと話し続けていた。
「あ、の……恥ずかしいのですが」
「俺も恥ずかしい、君に……あんなことを、言ってしまうだなんて」
ゼルドリックは照れ臭そうにリアから顔を逸らしたが、その手はリアの側頭部に添えられていた。リアもまた彼のひくひくと動く長い耳を見ながら、顔を真っ赤にした。
リアはゼルドリックが淹れてくれたココアを飲みながら、ひたすら彼に頭を撫でられ続けていた。その手つきが優しくて、リアは張り詰めていた心が解きほぐされていくような心地がした。
「でも本心だから、良いんだ。君にいずれは伝えたかった。……君が、その……甘いものを飲んでくれてほっとした」
久しぶりのココアが、リアの心と身体に沁み渡る。リアは安心するように、ゼルドリックに少しだけ身体を寄せた。
(……私とブラッドスター様の距離が縮まった気がするわ)
彼は高慢な言い方をするが、真っ直ぐであること。
緊張したり照れると黒く長い耳が動くこと。
黒の王子様と同じく自らのことを俺と呼ぶこと。
自分の身体の柔らかさと髪が好きなこと。
リアがカップを持って微笑むと、ゼルドリックは紙袋から何かを取り出した。袋を開けて、リアの唇にそれをそっと添える。
「ひゃっ…………あ、美味しい……!」
「ブールドネージュだ」
粉糖が付いている、とゼルドリックはリアの唇を優しく撫でた。そしてリアの唇にまた、新しいクッキーを添える。手ずから与えられるクッキーは、親鳥が雛に餌を与えているようで、リアはまた顔を赤くしてしまった。
「君が喜ぶかと思って買ってきた。この近くには、俺の好きな菓子屋があるのだ。君が甘いものを好むのなら共に行こう」
ゼルドリックは甘く微笑んだ。リアも満面の笑みを返した。
「はい、楽しみです」
会えなかったひと月程の時間を埋める様に、リアとゼルドリックはそれからも色々な話をした。リアは不安から悲しみから解放され、その日はよく眠った。ゼルドリックが、安心させるようにリアの髪をずっと撫でていた。
――――――――――
翌日。
リアとゼルドリックは休みを取り、二人で共に過ごした。中央政府の制服を纏わないゼルドリックは、シンプルなシャツを着ていた。リアはその見慣れない格好に顔を赤くし、ゼルドリックに揶揄われた。一緒に料理をしたり、庭園の薔薇を見たり、買い物に行ったり。そして昼下がりには、ゼルドリックが好きだという菓子屋のテラスにて二人でケーキを食べていた。
「わあ、見てくださいこのケーキ。可愛いですね、チョコレートが薔薇になってます! うん、とっても美味しい」
「そうだな、可愛いな。……リア、こっちも食べろ」
「わあ、このベリータルトも美味しい!」
リアはにこにこと笑いながらたくさんケーキを食べた。身体の大きいゼルドリックも、リアに負けじとケーキを平らげている。テラス席に座る、身体の大きなダークエルフと真っ赤な髪の女の組み合わせは他人の目を引いた。
そしてやはり、近くにいるエルフはリアの髪を見てパルシファーの綿毛の様だと口に出した。
「……大丈夫か」
ゼルドリックが気遣わしげにリアに訊いた。
「……? 何がですか?」
リアは大きな苺をフォークに刺したまま聞き返した。その顔に一切の陰はない。
「その、君の髪のことだ」
「ふふっ。どんなに言われたって、もう平気です」
あなたが認めてくれたから。
好きな人が、私の髪を好きって褒めてくれたから。
だからもう平気なの。
あなたが認めてくれるのなら、もう泣かない。
リアはそんな気持ちを込めて、ゼルドリックに笑いかけた。
澄んだ青空が広がる秋晴れの中、太陽の光を受けて眩しく笑うリア。ゼルドリックはリアのその満面の笑みを、ずっと見ていたいと思った。
その笑顔は、彼の宝物になった。かけがえのない、宝物になった。
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