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第一章 星野恭子

第七話 男娼デリヘル

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 灼熱の日差しを受けながら、大輔は百草園の駅前をひとり歩いていた。
 向かう先は、恭子のアパート。
 道は何となく覚えているので問題ないが、気がかりなのは、そもそも彼女が自宅にいるかどうかだった。


 前期試験が無事に終わり、大輔は大学生になって初めての夏休みを迎えようとしていた。
 大学生の夏休みと言えば、サークルの合宿に参加したり、友達とバーベキューをしたり、恋人と海に行ったり。
 そんなイベント満載の日々を想像していたのだが、彼の予定表は真っ白だった。

 サークルの夏合宿は、当然三年生が主導している。タイムテーブルを見せてもらったが、英会話の時間は、午前中の一時間程度で、講師も不参加。あとは全てレクリエーションに当てられていた。
 恭子を含めた二年生は殆ど参加しないと、金子が教えてくれた。
 
 五十嵐も剣道サークルの合宿と日程が被っているため、参加を見送っている。
 こうなると大輔が参加するメリットは、なにひとつなかった。

 試験が終わると直ぐに、大輔は恭子の携帯に電話を掛けた。すると、今度は留守番電話に切り替わった。
 今まではコールのみで、メッセージは残せなかった。金子にアドバイスされて設定したのかも知れないと、大輔は推測した。

『今度の水曜、遊びに行きます』とメッセージを残し、電話を切った。しかし、その日がやって来るまで、折り返しの連絡は一切なかった。
 あの伝言を彼女が聞いていない確率は、かなり高かった。


 彼女の部屋の前まで来て、大輔は大きく深呼吸をした。
 彼女が居たら。
 話し合って自分との関係をハッキリさせる。その上でセックスとなったら、それはそれで良い。晴れて恋人同士として、結ばれるのも悪くない。

 居なかったら。
 書き置きでも残して日を改める。流石に、部屋に残した手紙ぐらいは読むだろう。
 
 インターフォンを鳴らす。無反応。
 もう一度鳴らす。無反応。
 扉に耳を当ててみるが、何も聞こえない。

 ポストのカバーを開けて室内を覗こうとしたところで、隣の部屋の扉が開いた。
 恭子と同い年ぐらいの、若い女性が姿を見せる。

 不信感に満ちた視線を大輔に向けながら、自宅の鍵をかける女性。
 大輔が軽く頭を下げて挨拶すると、露骨に視線を逸らして、彼の背後をすり抜けていく。

「星野さん、留守ですよ」
 すれ違いざまに女性がボソッと言った。

「……そうですか」
 大輔が力なく返すと、女性は彼の顔を一瞥してこう続けた。
「もしかして、星野さんの彼氏さん、ですか?」

 予想外の質問に、括目する大輔。
「……そうです、けど」

 そう言いきって良いのかわからないが、ここで「わかりません」などと言ったら、恐らく話がこじれる。怪しまれて通報されたりしたら、洒落にならない。

「『留守の間、真面目そうな男の子が来るかもしれないけど、彼氏だから気にしないで』って言われていて」
「はぁ……」
「星野さん、暫く帰ってこないと思いますよ。去年もそうだったし」
「え?! そうなんですか?」
 
 聞いてないぞ。なんだそれ。
 実家にでも帰ったのか?

「里帰りしているんですよ。聞いていないんですか?」
「……」
「あなた、本当に彼氏さんですか?」

 女性に指摘され、大輔は無意識に唇を噛んだ。
 そうだ。
 普通なら、普通の恋人同士なら、実家に帰ることぐらい伝えるはずだ。

 俺は、彼女から何も聞かされていない。
 この隣人が怪しむのも、当然なんだ。 

 大輔はズボンのポケットの中から、鍵を取り出した。アヒルのキーホルダーが付けられた、恭子の部屋の鍵だった。
 彼女の部屋のポストに、鍵をすべり込ませる。ガシャンという金属音が室内から聞こえた。

 女性が目を見開いて近づいてくる。
「今落としたの、この部屋の鍵ですよね? 何してるんですか」
「返したんですよ。彼女から預かっていたので」
 大輔はぎこちない薄ら笑いをした。

「ちょっと、やめてくださいよ。これじゃ私が、返すように仕向けたみたいじゃないですか。困ります、こんなことされちゃ……やだ、どうしよう……」

 これまでのポーカーフェイスとはうって変わって、動揺しだす隣人の女性。
 ポストに手を突っ込んで、鍵を取り戻そうとするが、当然届かない。

「大丈夫です。あなたのせいじゃないです。最初から、こうするつもりでしたから」
「そんな……」
「見なかったことにしてください。僕も、あなたには会ってないことにしますから」
「……そういうことなら……分かりました」
 大輔の提案に、素直に従う女性。

 この女性は、恭子とは隣人という関係以上ではなさそうだ。
 厄介ごとに巻き込まれたくない、というのが本音だろう。

 これで良かったんだ。
 元々彼女は、自分には手が余る女性だった。
 
 だいたい、留守かも知れないのに「とりあえず来い」という彼女の提案は、あまりにも乱暴すぎる。
 自分が帰って来るまで、三つ指ついて玄関で待っていろとでも言いたいのか。
 俺はデリヘルの男娼か。

 自分にはもっと、控えめで大人しいタイプの女性のほうが合っている。
 今まで好きになった女性も、だいたいそうだったし。
 これで良いんだ。

 大輔は携帯を取り出すと、恭子にメールを打った。
『鍵、ポストに返しました』

 ****

 帰宅した大輔は、自宅の扉を開けるなり顔を青ざめさせた。
 女性モノのグレーのスニーカーが、玄関の三和土たたきに揃えられていたからだ。
 
「ダイー?」
 奥のリビングから声が聞こえてくる。大輔の姉、真須美の声だ。

 姉は二月に結婚して、今は名古屋に住んでいる。
 十一歳も離れているせいで、大輔は母親よりも彼女によく面倒を見られていた。

 そのまま扉を閉めて、もう一度出かけようかと思ったが、この暑さの中再び外に出るのは厳しい。やむなく靴を脱ぎ、そそくさと階段を上がって自分の部屋に逃げ込む。

「ちょっと、ダイ!!」
 怒鳴り声と共に、階段を軋ませる音が近づいてくる。
 大慌てて本棚から小説を取り出し、ベッドに仰向けになり読み始める大輔。

 ノックもせずにガチャリと開けられる、大輔の部屋の扉。
「ちょっとダイ、無視しないでよ!」
「あぁ、おかえり」
 平静を装う大輔。
「『あぁ』じゃないわよ。久しぶりの再会なのに」

 色白で、ぽっちゃりとした体形。ちょっとでも油断したら、すぐに二重になりそうな顎。
 誰に似たのか、やせ形ばかりの菅原家の中で、真須美はひとりだけ太っている。
 
「お盆休みにしては早いね。どうしたの? 離婚でもしたの?」
「違うわよっ! ちょっと早い、夏休みをもらったの」
「自営業は融通が利いて、結構なことで」
「まぁねー。お義父とうさんとお義母かあさんは、私に頭が上がらないから」

 真須美の夫は、自動車部品を製造する中小企業の社長である。
 知人の紹介で知り合ったのだが、相手は真須美とは十違いの四十歳。先方が真須美を大層気に入り、猛烈なアタックの末に結婚。将来を案じていた彼の両親は、真須美を大歓迎した。

「あんた、予備校時代と全然変わらないわねぇ。大学生なんだから、サークルぐらい入りなさいよ」
 姉が鼻を抓もうとしてきたので、咄嗟に起き上がって紙一重でかわす。

「うるさいなぁ。サークルぐらい入ってるよ。夏休みは活動がないだけ」
「えー、合宿とかないの?」
「ないの」
「合宿ないサークルとかあるんだ。へー」
 皮肉たっぷりに感心して見せる真須美。

「あんた、彼女とかいないわけ?」

 一番されたくない質問をされて、大輔はわざとらしく小説のページをめくった。
「別に。恋人なんか、就職してから作ればいいし。学生の本分は勉強だから」
「そっかー。あんた、国家公務員目指してるんだもんね。エリート官僚になったら、女なんて選り取り見取りってわけ? なるほどねー」

 当て擦りに我慢できず、大輔は鞄を掴んで部屋を出ようとする。
「なに? また出かけるの?」
「図書館!」

 バタバタと階段を下りる大輔。背後から「夕飯までには帰ってきなさいよ」という声が聞こえてくる。

 俺の周りにいる女は、全員俺のことをバカにしている。見下している。
 姉さんもそう。星野さんもそう。金子先輩もあの隣人の女もそう。
 
 いいさ。好きなだけ見下せばいい。好きなだけバカにすればいい。
 俺は大学にサークル活動しに来たわけじゃないし、彼女を作りに来たわけでもない。
 目標としている職業に就くために、勉強しに来たんだ。

 今に見ていろ。
 卒業した時に、勝ち組になっていればいいんだろ。終わり良ければ全て良しだ。
 女なんてみんな現金だ。どうせ付き合うなら、収入が良くて安定した男が良いに決まっている。

 今慌てて女に尻尾を振る必要なんてない。童貞だって、無理に卒業する必要なんて、本当はなかったんだ。
 星野さんに誘惑されて、魔が差しただけだ。なんなら、なかったこととしてカウントしなくても良いぐらいだ。

 ブツブツと独り言を呟きながら、大輔は図書館に向けて自転車を走らせた。
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