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第4章 はじまりの音

[5] 大きな前進

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 なんとなく満たされた気分で、狼呀は静かに車を走らせた。
 せっかくの雰囲気を、その場をつなぐための会話なんかで台無しにしたくない。
 それに、マリア自身も望んでいないことを狼呀は感じとった。おまけに、幸せを感じてくれていることを感じ取り、彼自身も幸せになる。
 たいした渋滞に巻き込まれることなく秩父市内に入った途端に、彼女は看板を指差した。

「ミューズパーク?」

「そう」

 一言だけ呟くと、マリアは靴を脱いで足を引き寄せて膝に顔を埋めた。
 今では、それが照れ隠しなのだと分かる。あまりのいじらしさに、これまで以上に保護欲をかきたてられた。
 狼呀は黙って車を走らせ、坂を登っていく。
 どんどん家が少なくなっていき、徐々に緑と土の匂いが強まってくる。

(心地がいい)

 狼呀はそう思った。
 人間と人狼の双方が、そう思っていた。
 小さな山小屋風の建物がある駐車場に車を停めると、マリアはさっさと車を降りた。
 そして、大きく伸びをしてから、満ち足りたようなため息を吐く。

「こっちよ」

 マリアはジーンズのポケットに両手を突っ込み、狼呀を待っている。
 何も話さず歩いていると時々、犬を散歩させている家族や子連れとすれ違う。大勢の人間がいる訳ではなく、静かな時間が流れている。
 暫く歩いていくと、まるでギリシャのパルテノン神殿のような休憩所があったが、マリアは更に進んでいく。
 野外音楽堂をすぎ、冬桜の咲く広場まで行くと、ようやくマリアはベンチに座った。

「綺麗な場所だな」

 彼女の横に座りながら一言こぼすと、マリアはふんわりと笑った。

「ありがとう。昔からお気に入りの場所なの」

 風に揺れて、冬桜の花弁がひらひらと舞う姿、冷たい空気と山の気配。
 マリアが気に入るこの場所を、狼呀も好きになった。これは、マリアなりの贈り物ともいえる。
 狼呀を受け入れたという、無言の証だ。

「よく来てたのか?」

「ええ、人との関係や環境に疲れると、休日に父と母が連れて来てくれたの。あたしには、自然のエネルギーが必要だって分かってるみたいにね」

 今まで会った中で、今日のマリアは落ち着いていると狼呀は思った。
 表情は穏やかで、絆から伝わってくる思いも優しい。

「あたしは都会に向かない。一度、その時に大好きだった歌手に憧れて、専門学校に通ったの……馬鹿みたいよね」

「いや……夢を持つのは、どんな理由だろうと大切さ」

「ありがとう。それで、一年……半年くらい経った頃には無理がきちゃった自然が恋しかったし、そもそも誰かに教わるって事がむいてなかったのね」

 その話を聞いた瞬間、狼呀は何かが引っ掛かるのを感じた。
 でも、うまく掴めない。

「そのあと、ちょっと問題があって人の視線に過敏になって、人を信用できなくなった。信じられるのは父と母……それと大事なソウルメイトだけ」

 そう言ってマリアがどこか遠くを見ると、突然マリアの膝に大きな黒い犬が前足をのせた。
 瞳は焦げ茶色で、きらきらしたその目の奥には人への信頼が浮かんでいる。

「あら、あなたは何処から来たの?」

 話を中断した彼女は、大きな犬の両前足を優しく掴んで話しかけた。
 とても柔らかくて、愛を感じられる声。

〈ソウルメイト〉

 その言葉を口にした時にも、同じ愛を感じた。
 彼女が絆を受け入れた今、相手が誰なんだという思いや怒り、悲しみはない。ただ、いつの日か自分に向けられることを願うだけだ。
 しばらくすると、若い夫婦が走ってきた。

「すみません! いきなり走っていってしまって」

「いいえ、大丈夫ですよ。とっても可愛い子ですね」

 マリアは首輪を握ると、飼い主がリードを着けやすいようにしてやった。
 犬について少し話をして、去っていく飼い主に連れていかれる犬にマリアが手を振ってやると、犬は名残惜しそうに何度も振り返っていた。

「そろそろ、あたしたちも行こうか」

「いいのか? もう少しくらい」

「これ以上ここに座ってたら、石になっちゃうわよ」

 気分が軽くなった様子のマリアに、狼呀も腰を上げた。

「そうそう、駐車場に山小屋みたいな店あったでしょ? あそこのクッキーが美味しいの」

「クッキー?」

「そう、手作りクッキー。あと、チョコチップマフィンとラスクも美味しいのよ。いつも買って帰ってた」

 懐かしむような目の奥に、見え隠れする淋しさが、狼呀の心をかきむしる。
 少しでも淋しさを埋めてやりたくて、腰に腕を回して引き寄せた。
 マリアは抗わこともせず、おずおずと狼呀の腰に片方の腕を回す。
 それから駐車場に戻るまで、無言の時間が続いたが、悪い雰囲気ではなかった。
 ただ、中途半端な関係に狼呀は堪えられなかった。受け入れられたのは分かったけれど、これから先のことは口に出してほしい。
 店でクッキーとマフィン、ラスクを買い、自動販売機でお茶を買った後で、狼呀はマリアを車に押し付けた。
 両腕で逃げられないように閉じ込めて、優しくキスをする。
 奪うような乱暴なキスでも、熱くて蕩けさせてベットに誘うようなキスでもなく、相手に問いかけるような軽く触れるキスだ。

「俺たちの関係ってなに?」

 少しだけ唇を離して囁いた。
 でも、彼女は答えない。

「俺の気持ちに答えてくれるか?」

 両手は彼女に触れたくて、うずうずしていたが我慢して答えを待つ。
 考えが知りたくてこめかみ、額、頬とキスしていき、唇に戻ろうとしたところで、ようやくマリアは答えた。

「考えさせて」

「考える?」

「そう。真剣に考えたいの……本当に付き合うならね。でも、あなたの気持ちは分かったし、あなたが人狼だってことも受け入れてるから」

「そうか……わかった」

 聞きたかったことの全てではなかったが、少しの満足感だけで我慢して、一歩下がって離れる。
 狼呀は助手席にマリアを乗せると、自分も運転席に回って乗り込んだ。

「そうだな……考えた方がいい。人狼の付き合うは、人間のカップルとは違う。一時的に付き合って、簡単に別れられるものじゃないからな」

 普通の人間にとっては、かなり重い関係かもしれない。人に教わるのが向いていないと言ったマリアが、束縛にも似た逃げられない関係を、受け入れられるのか。
 まだ、完璧に安心できない二人の関係に不安を覚えながらも、きちんと説明はしなければと、エンジンをかけて狼呀はゆっくりと車を走らせはじめた。

「俺たちにとっての付き合うは、一生ものだ。伴侶の絆は、死んでも消えることはない」

「つまり結婚ってこと? 死が二人をわかつまでっていう」

「いや、夫婦の絆より強い。死ですら二人を離すことはできない。人間は、どちらかが死ねば再婚することがあるかもしれないが、人狼はない。一生に一人の伴侶としか出会えないんだ。だから、再婚もない」

 重いだろうなと思った。
 人間であるマリアには、理解出来ないだろうとも。
 いくら人狼の全員が、伴侶へのアプローチに成功しているとはいえ、マリアは少し違う。
 全ての伴侶がパートナーに同じように好意と情熱を持つのに、マリアは不信感と冷静さを持っていた。
 伴侶のペアが一日も経たないうちにベットから出てこなくなるのに、彼女はキスに情熱的にこたえた次の日に何も覚えておらず逃げていった。
 それも、吸血鬼の腕の中へと。
 何もかもが違いすぎる。

「別に、そういうのは好きよ」

「えっ?」

 考えに気をとられて、あやうく聞き逃すところだった。

「だから……伴侶の仕組みは好きだって言ったの」

「人間にとっては、重くないか?」

「別に。もともと、あたしは軽い関係とかデキちゃった婚とか、浮気とか大嫌いだからそうは感じない」

 思わず狼呀の口元がゆるんだ。

「それなら良かった」

「まあ、あんまり期待しない方がいいかもよ? だからって、いい返事が返ってくるとは限らないんだから」

 そんな風に、伴侶同士の会話のようなやり取りをしていると、時間は驚くほどの速さで過ぎていった。
 絆から伝わる思いも温かく、狼呀は満ち足りた気持ちでいた。
 このまま、幸せな時間が続くんだと思って――。


 だが、運命とはそんなに優しいものじゃなかった。


 
 

 


 
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