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第5章 決断

[1] もう戻れない

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 幸せ。
 狼呀が人間ではないと知った瞬間、不信感と好意を認めたくない気持ちは粉々に砕け散ってしまった。
 答えを先伸ばしにしたけど、本当はすぐに答えられた。言葉に出来なかったのは、臆病な心がブレーキをかけさせたから。
 出会った時の考えが嘘みたいに、今すぐ狼呀の部屋に行ってもいいとさえ思っている。
 あのたくましくて、熱い腕に包み込まれて、荒々しい時間を何時間も過ごしてもいいとさえ――。
 でも、そんな考えは家が見えてきた瞬間に、泡となって消えた。

「ごめん、停めて!」

 とつぜん大きな声を出したあたしに驚きながらも、狼呀は車を停めてくれた。
 すぐにシートベルトを外して、ドアを開けて飛び出す。
 あたしの視線の先――駆け寄った先には、玄関にもたれるようにして、一人の男が座り込んでいた。
 階段部分には点々と血がつき、男の目元は腫れて口元には血がついている。
 あたしは、コンクリートに膝を着いた。
 すぐ後ろに、狼呀の存在を感じる。

「誰だ、こいつ」

 彼の言葉は、どこか刃物を思わせるくらい鋭い。
 あたしを伴侶だと思う人狼だから、知らない男があたしの家にいるのが気に入らないのかもしれない。
 たとえ、まだ家の中じゃなくて、敷地内だとしても。

「これは……一応、兄よ」

 彼がこれ以上、獰猛にならないうちに教えて、ポケットから鍵を取り出して扉を開けた。
 両手を引っ張って家の中に入れるつもりだったけど、あっさりと肩に担ぎ上げた狼呀が運んでくれる。

「そこのソファーに置いといて」

 思わず荷物みたいに言うあたしを咎めることなく、彼はソファーに兄を寝かせた。
 棚から救急箱を取りながら、思わず大きなため息が出る。今日は、両親が帰ってこれなくて良かったとしか思えない。
 せっかくの気晴らし旅行なのに、こんな状態を見たら意味がなくなってしまう。

「病院に連れて行ったほうが」

「いいの。ありがとう……悪いけど、今日は帰って」

 彼が好きだし、こういう時こそ居てほしいけど、今は知られたくない。
 知られちゃいけない欲求が襲ってきている。
 一刻もはやく、一人にならないと叫び出してしまいそうだった。

「嘘だ」

 迷いないその声に、あたしは顔を上げた。

「何が嘘なの?」

「帰ってほしいと思ってないだろ? マリアの心は絆に……俺に寄り添おうとしてるぞ」

「な、何を言って……」

「伴侶に嘘はつけない」

 琥珀色の瞳は、あたしの心を見透かすどころか、嘘は許さないと言っているようだった。

「つかなくちゃいけない嘘も、許されないの? お願いだから、今日は帰って……必ず話すから」

 懇願にも似た気持ちで言うと、狼呀は苦しそうな顔をして、あたしに背を向けた。
 無言で去っていく。
 自分で望んだ事なのに、戻って来てほしいと思う自分がいる。
 温かい腕の中に包み込まれたい。
 きっと、ほっとできて不安なんて感じなくてすむ。
 そこまで考えてると、呻き声が聞こえてきた。
 振り返って救急箱を手にソファーに近付くと、兄の昴が顔を歪めている。

「何があったの?」

「…………」

 昴は、何も言わない。
 血が出て、腫れた顔を見ていると、心配よりも苛立ちがわいてくる。
 あたしは、救急箱を近くに置くと、リビングを出て自分の部屋に向かった。
 扉を閉めから、すぐに服の袖を捲って左腕に爪を立てる。
 力を込めて皮がめくれても続けると、血が滲みはじめてズキズキとした痛みが広がった。
 おかげで苛立ちと怒りが、少しずつ消えていく。
 あたしの左腕には、そうやってつけた傷がいくつもあって、治った傷が痕として濃く点々と散っている。
 こうでしか、あたしはストレスを発散できない。
 怒りでカッとすると、頭の中が残虐なイメージで溢れて、いつか本気でそのイメージを現実にしてしまいそうで怖かった。
 血と痛み。
 イメージの中でのあたしは、それに快感を覚えていた。
 だから代わりに、自分の腕に爪を立てた。
 はじめてその行為をした時、痛みで我に返り、血のおかげで爆発しそうな感情が消えたことに驚いた。
 それから、同じ感情が浮かぶ度に繰り返す。
 人は、あたしの腕の傷を見たら、リストカットをする人に向けるのと同じ言葉を言うだろう。
“そんなに人の注意を自分に向けたいの”って。
 でも、そんな事の為にしている訳じゃない。
 誰にも、この気持ちはわからない。もて余した感情も、行き場のない感情も。
 あたしは、そのままベットに横になった。
 今は、何も考えたくない。
 目を閉じると、心地のよい闇があたしを迎えた。

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 朝目覚めると、同じ姿勢のままだった。
 寝たはずなのに、なんだか体がだるい。
 のろのろと服を脱ぎ、新しい服にとりあえず着替えて下に行くと、昨日の夜と変わらず昴は呻きながら寝ていた。
 仕方がなく、お湯で温めたタオルを持って血の付いた顔を拭き取り、切れているところにガーゼを貼る。
 また、暗い感情が芽生えはじめた。
 そろそろ、限界がきてるのかもしれない。
 話を聞く気にもなれなくて、あたしは昴が起きる前に部屋に戻って携帯電話を手にした。
 かける相手は――。
 彼は、二コール目に出た。

「どうしたんだい、マリア」

「悪いんだけど、今から時間をつくれる?」

「ああ、かまわないよ」

「ありがとう……レン」

 あたしは、電話を切ると鞄を手に家を出た。
 いつもどおりレンが寄越した迎えの車に乗り、まっすぐレンの自宅兼仕事場のビルに向かう。
 そこからはもう慣れているから、一人で血液銀行の一室に入った。
 もちろん、ノックなんてしない。
 レンは、匂いで誰が来たのか分かってるはずだから。

「おはよう、マリア。今日の気分はどうかな?」

「最悪よ。じゃなきゃ、朝一番に会いたいなんて……あたしから言わないでしょ?」

「まあ、そうだね。それで、用件は?」

 レンは肩をすくめると、ソファーに座るように促した。
 彼の専用部屋であるためか、趣味のいい壁紙や家具で落ち着く場所になっている。
 でも、今日は座って落ち着いて話すなんて出来ない。
 あたしが首を横に振って机に寄りかかるように軽く座ると、何かを感じ取ったのかレンは小鼻を膨らませた。

「血の匂いがするね。マリアのと、もう一つは……君のお兄さんのかな?」

「ええ。その事で話があるの。前に頼んだ調査って終わった?」

 いつかマンションの屋上で、あたしを助けたレンとした約束。
 血を提供する代わりに、悩みの種だったある一家を調べてほしいと頼んだ。

「終わっているよ」

「……聞かせて」

 レンは、机の中から茶色の封筒を取り出した。

「本当に聞きたいんだね?」

「ええ、そうよ。もう……終わりにしたいの」

 少し考える素振りを見せてから、レンは封筒の中から紙の束を取り出した。

「男の名前は、家村尚人。妻と小学生の子供がいる」

「どういう見た目なの?」

「坊主頭で目は鋭い。だけど見た感じ、接触した感じは、いい人間に見える……が、明らかに善人面した悪人だね。腐敗したような匂いがした」

 一度だけ、あたしも見た事がある。
 言うこと、物腰は悪くないように見えたけど、あたしの中にある人を判断する不思議な部分が、そいつを悪だと判断した。
 あれは、間違いではなかった。
 でも、あの時ではもう遅い。

「そいつ、公務員とか言ってたけど、本当は何者なの?」

「まあ……裏の人間って事だけは知らせておくよ」

「そいつ……昴に何をやらせてたの?」

 一瞬、レンは躊躇った。

「……呼びつけて車の運転や買い物に付き合わせてた。気に入らなければ暴行も加えてたよ。でも、証拠に残らないようにやっている」

 怒りで目の前が、真っ赤に色づいた。
 頭の中では、その男の前で妻と子供を痛め付けるイメージが浮かんでは消える。
 絶対に、男の事は最後まで殺さない。
 目の前で妻と子供を拷問しつくしてから殺す。
 そんなイメージに呑み込まれそうになっていると、ぎゅっと握り締めた手に冷たい手が重ねられた。

「本当に、これで良かったのかい? マリアに聞かせたことが、正しいのか分からないよ」

 レンは、どこまでも澄んだ海の色をした瞳を曇らせた。

「これが……住所だよ」

「レンが気にすることじゃないよ。でも、ありがとう」

 茶色い封筒に書類を戻して、住所が載った一枚だけをレンがくれた。
 手にした瞬間、あたしの気持ちは固まった。
 手離さなくちゃいけないモノの大きさは分かってる。
 狼呀との出会いは、神様がくれた最後のプレゼント。
 でも、遅すぎた。
 あたしの心は、真っ黒になりすぎてる。
 淡いピンクが存在できるような隙間はない。
 心の中で、あたしは虹色に光るリボンを手離して、冷たくて固い銀の鎖を掴んだ。
 レンの話を聞いた以上、もう決断は変わらない。

『あたしは、吸血鬼になる』

 昨日、簡単に狼呀の思いに答えなくてよかった。
 今はそうとしか思えない。


 
 
 

 




 

 

 
 



 

 

 

 



 

 



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