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第一部

それぞれの決断【side:創介】 6

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「ずっと、行きたかったところがあるんです」

凛子さんが連れて来たのは、なんでもない、東京郊外にある川べりだった。

「どうして、こんなところに?」
「こんなところだからいいんです」

既に振袖から着替えていた凛子さんは、汚れを気にすることもなく長いスカートのまま河川敷に座り込んだ。

 川の向こうには鉄橋がある。河川敷の広場になっているところでは、親子らしき人たちが遊んでいた。

そう言えば、ここから少し行ったところに雪野の家がある――。

すぐ近くというわけでもないが、送り届ける時にいつもこの川沿いの道を走る。

「私が住んでいる場所も学校も、周囲は人で溢れていて。こういう、何でもない場所に来たかったんです。学生時代、クラスのお友だちの家にお邪魔した時に、一度この辺に来たのを思い出したの」

凛子さんはただじっと川を見つめながら、そう口にした。

「その子、他の同級生とは少し違っていて。私の知らない世界をたくさん教えてくれて、素敵な子だったな……」

すぐ傍を流れる水に視線を向けながら、ひとり言のように凛子さんが呟く。

「もしかして、その人は凛子さんの通っていた大学の特待生だったりした……?」

確か、凛子さんも雪野と同じ大学を卒業したはずだ。ふと、雪野のことが思い浮かんでそんなことを聞いてしまった。

「よくわかりましたね。そうなんです。私の住んでいる世界とは違う、いろんな普通のことを教えてくれました。でも、どうして?」
「いや。俺にも似たような人が近くにいて。だから、凛子さんの言いたいこと、よくわかりますよ」

きっとその凛子さんの友人も、一生懸命生きている人なのだろう。

「そうなんですか。私のその友人は努力家で、今は弁護士を目指して頑張っています。困った人の役に立ちたいんだって……。私みたいに何もない人間から見れば、とっても眩しいです」

その横顔がどことなく寂しげに見えた。

何もない――。

俺と同じことを思っているのだろうか。

「まだ、遅くはないんじゃないですか? 何を始めるにも遅いことはない」
「創介さん……」

凛子さんの本当の人生は、まだ始まっていない。そんな気がした。

 その時、不意に見回した景色の中に、呆然と佇む人の姿が視界に入り込んだ。

「雪野……?」

思いもかけないことに、その名前を口にしてしまう。

「創介さん、どうなさったの?」

不審に思ったのか凛子さんが立ち上がる。見てすぐ分かるほどに怯え切っていた雪野は、そのまま後ずさろうとした。

「雪野、待て!」

このまま行かせてはいけない。

それしか頭になくて、この状況を考える前にただそう叫んでいた。身体が勝手に動き雪野の元へと駈け出して、その腕を掴む。そこに凛子さんがいるということが完全に頭から消え去ってしまうほどに、必死だった。

「――創介さん、お知り合い?」

俺の後を追いかけて来た凛子さんの声で、我に返る。

「あ、ええ――」
「こんにちは」

今にも逃げようとしていた雪野が、何を思ったのか俺の手を自分の腕から離し、凛子に頭を下げていた。

「わ、私、以前、榊さんのお宅で働いていた者なんです」

雪野――?

雪野が凛子に笑顔を向け、意味の分からないことを口走っている。

「創介さん、どうもご無沙汰しています。その節は大変お世話になりました」

作られた表情が俺に向けられた。

「雪野――」
「あら、そうだったんですか。お住まい、お近くなんですか?」

凛子さんが雪野に微笑みかけていた。

「え、ええ。買い物に行くついでに散歩でもしようかなってこちらへ来たら、創介さんがこんなところにいらっしゃるのでびっくりしました」

一体、何を言っている――?

「驚かれても当然ですよね。私が、ここに来たいとお願いしたんです」
「そうだったんですか……で、では、私はこれで」

雪野はすぐに俺から視線を外し、踵を返した。

うちで働いていたなんて、何故そんな嘘を――。

雪野の背中が急速に遠くなって行く。ただただ混乱する頭の中、自分が今置かれている状況を忘れて、俺は走り出していた。

「創介さん……!?」

凛子さんの声が聞こえた気がしても、どうしても雪野を逃がしたくなくて。

「雪野、待て!」

河川敷脇に現れた草むらに消えた雪野を夢中で追いかけた。冬の葉はかさかさと触れる度に音を鳴らす。俺から逃げるように走って行く雪野を、ようやくその中で捕まえた。

「待てと言ってるのが聞こえないのか!」

なんとか腕を掴んでも、雪野はこちらを振り向こうともしない。ただ肩を強張らせているだけだ。

「さっきのは、何の真似だ。おまえはいつから俺の使用人になった!」
「――こんなところに追いかけて来たりして、創介さんこそ何をしてるんです? 一緒にいた人に何かを怪しまれたりしたらどうするの? 早く行ってください!」

全身で何かを堪えるように掴んだ腕さえも強張らせる。

「あの方、創介さんにとって大事な人ですよね? お願いだから、早く戻って!」
「雪野!」

一向にこちらを見ない雪野に苛立ち、腕を強く引き寄せて無理やりに俺の方を向かせた。

「おまえは、どういうつもりでそんなことを言ってるんだ?」

どうしようもなく腹立たしくて、怒りが身体中から溢れ出す。その怒りが雪野に対してなのか自分自身に対してのものなのか、もはや分からない。

「俺が他の女といたところを見たんだ。それで、どうしてお前が取り繕う必要がある? その女は誰だと聞けばいい!」

おまえは、俺の――。

「どうして、私がそんなこと創介さんに聞けるんですか?」

雪野の苦痛に歪んだような表情に、言葉を失う。

「創介さんと私は、最初からいつか終わりが来るって分かっていた関係でしょ? いつまでもこんなこと続けられないことくらい分かっていました。創介さんも同じはずです」
「雪野……?」
「私は、創介さんを手に入れたいだなんて思ったことはありません。あなたと私とでは何もかもが違い過ぎる。創介さんにとって相応しい人はあの人です。創介さんだってそんなこと分かってますよね?」

雪野は、まさか――。

「おまえ、何を、知っている――?」
「創介さんが、あの丸菱グループの創業家の生まれで、次期社長になるべき人だってことだったらもうずっと前から知っています。本当だったら、こんな風に関わるはずもない人だったってことも!」

いつも控えめな雪野が感情のままに叫ぶ。

全部、知っていた――?

三年も一緒にいるというのに、雪野が俺のことを聞いてきたことはなかった。

 一度、雪野に聞いたことがある。俺に雪野を出会わせた、雪野と同じ大学の女とは親しいのかと。彼女が俺のことを雪野に話していてもおかしくない。

『ユリさんとはもともと親しいわけじゃなくて。あれから話をしていないんです』

その言葉を聞いてホッとしたのを覚えている。雪野は、俺のことをただの金持の息子くらいにしか認識していないのだと思って来た。
 それが、俺には心地良くて。雪野の傍にいる時だけが、ただの榊創介になれた。邪魔なほどの家柄も、無意識のうちに貼られているレッテルも、何もかも脱ぎ捨てて。心の底から呼吸が出来た。だから、俺は雪野でなければなかった。
 そして、それ以上に雪野に俺の本当の立場を知られたくない理由があった。

俺の家のことを知ったら、雪野は離れて行く――。

そんな気がしてならなかったからだ。雪野は奥ゆかしい女だ。自分という人間を過剰なほどにわきまえているところがある。そんな雪野が、俺の家のことを知れば、苦悩して、最悪去っていくかもしれないと不安だった。

 それなのに――雪野は、俺のことを知っていた。それでもずっと、何も言わず何も望まず、俺の傍にいた。

「全部分かっていて創介さんの傍にいたんです。覚悟も出来ています。創介さんが私に対して申し訳ないなんて思う必要はありません。いつか終わる。そのいつかが今だっただけのこと」
「雪野、俺は――」
「もう、創介さんとは会いません!」

必死に掴んだ細い腕は、信じられないほどの力で俺を振り払った。

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