663 / 893
日常
第六百二十一話 ステーキ
しおりを挟む
新学期が始まり、授業やら体育祭準備やらに追われていたら、時がたつのはあっという間だ。暑い暑いと思っていたのに、気が付けば吹く風が冷たくなり、セミの声も聞こえず、夜になると鈴虫かツユムシかが鳴き始めた。
夜寝るときにクーラーを付けなくなり、うっすら開けていた窓を閉めるようになると、寒さが本格化してきたのだなあと実感する。
そろそろ、冬服を準備しておく必要がありそうだ。
今年は、体育祭の練習期間が長い。暑さの和らぐ時期に開催を延期したのだそうだ。その分、練習も長くなるので部活動の時間も必然的に増える。
屋外での練習が始まると仕事量は増える一方だ。他の生徒が来る前にスピーカーとかマイクとかを準備して、テーブルとか出して、CDの確認して、それから……とにかく、外での練習がつつがなく行われるように準備する必要がある。
こまごまとした機材を倉庫から持ち出す。上靴から外靴に履き替えるその手間も繰り返すとかなりしんどい。
外に出ると、夜ほどではないが少しひんやりとした風が吹く。それに乗って、甘い花の香りがやってきた。ああ、きんもくせいだ。
近くの家に咲いているのを見たが、ここまで漂ってくるんだもんなあ。
「なんか今、すげーきんもくせいの匂いしなかった?」
と、校庭の方からやってきた咲良が言う。
「した」
「なー、きんもくせいってすごいよな~」
「お前、準備は?」
話しながら校庭に向かおうとするが、咲良は気が進まないらしい。やけに足取りが重い。なんだ、さぼりか? いや、でも矢口先生がいる手前、さぼるはずもなかろう。
咲良の足取りに合わせていたら、朝比奈もやって来た。
「どうした、朝比奈」
少し困ったような顔は寒さのせいかとも思ったが、そうじゃないらしい。
「なんか……空気悪くて、つい」
「やっぱり?」
と咲良は苦笑する。
「なんだ、なんかあったのか」
「それがさあ、ちょっともめてんの」
咲良は先ほど起きた一部始終……まあ、まだ事は終わっていないらしいが、一連のことを話し始めた。
「何でも、原稿を大幅に変更したいって、体育祭実行委員が言ってきたみたいで」
「変更? なんでまた」
「なんか、もともと違う原稿を準備してたらしいんだけど、提出ミスったみたいで」
「原稿提出の期間に余裕がなさすぎって、文句付き」
と、朝比奈が補足する。校庭に近づくにつれて、矢口先生と、部員たちの声が聞こえて来た。まだはっきりと言葉は聞き取れないが、いい雰囲気ではないことは確かだ。見れば、確かに実行委員もいる。
「しかもさ」
咲良は少し声を潜めて言った。
「一年生の逆らえそうもないやつに押し付けるような感じで言ってたらしくて」
「前から約束してた原稿ができたとか何とか言って……」
「それを矢口先生が知ったもんだから、大変で」
「実際、聞いてないんだよな? その、原稿が変更されるって」
その問いに、二人はそろって頷いた。
なんというか……学校行事ってどうしてこう、トラブルがつきものなんだろう。そりゃあ、まあ、大勢の人間が動くからトラブルは起きて仕方ないんだろうけど、局所的に不穏な空気になるよなあ。
それも、学校行事の醍醐味と言われればそれまでなんだけど、巻き込まれる側からすれば、迷惑極まりない話だ。まあ、こういうのも、体育祭の最後の挨拶とかで「様々な困難を乗り越え……」とかそういうふうにまとめられてしまうんだなあ。
「どうなるんだろうな」
そうつぶやけば、朝比奈が遠い目をしながら言った。
「まあ……どっかで妥協案を探すんじゃない? 実行委員のことをないがしろにはできないだろうし」
「また仕事が増えた……」
放送を担う部員の仕事が増えるということは、別の仕事が俺たち雑用担当部員に回ってくるというわけだ。
厄介なことを引き起こしてくれたもんだ。
結局、原稿騒動は最終下校時間ギリギリまで考えたが妥当な結論は出ず、明日に持ち越しとなった。学校行事の準備期間中、最後に帰るのは放送部というのはよくあることらしい。
家に帰りついたのは、午後七時を回った頃だった。日暮れが早くなった今、外は真っ暗で寒い。
「ただいまー……あ?」
扉を開けた途端、なんかすげぇいいにおいが。きんもくせいとかじゃない。俺が最も好きな匂い。おいしい飯の匂いだ。
「おかえり。今日も遅かったね、お疲れ様」
台所に立つ母さんが笑って言う。手元では何かが焼けていた。
「見てよこれ、ばあちゃんからもらったんだけど、ほら。懸賞で当たったって」
「うっわ、なにこの肉」
分厚い牛肉がこんがりと、にんにく泳ぐ油の中で焼けている。ばあちゃんが買い物に行った先で、気まぐれに応募した懸賞が当たったんだと。全部は食べきれないから、人数分貰って来たのだそうだ。
「おっ、春都おかえり~」
風呂から上がった父さんが冷蔵庫に向かう。ビールを取り出しながら笑って言った。
「すごい肉だよなあ。ほれ、さっと風呂入って来い」
「ご飯も炊きたて、肉は焼きたてで待ってるよ」
と、母さんも言う。そりゃもう、言われなくとも。
今日も一日外の練習で砂まみれになった体をきれいにし、今日あったいろんな出来事も洗い流したら、とっとと居間に向かう。焼きたての肉は切り分けられ、にんにくと醤油と肉の脂を熱したものがかかっている。マッシュポテトも添えられて、完璧なのではなかろうか。
「いただきます」
箸でつまんだ時点で、なんか違うって分かる。こう、やわらかいだけじゃなくて、しっかりとした感じもあって、重みもあって……断面がつやつやしている。
恐る恐る一口。
カリッと香ばしい表面にはじけるような、その一方で吸い込まれるような肉質。舌になじみ、甘味とうま味があふれ出す。脂は上質でくどくない。赤身の部分は少し噛み応えが合って、むぎゅっむぎゅっとする感じだ。
それににんにくの風味が相まって、風味がこれ以上ないくらいに良い。すごくいい。匂いだけでご飯が進みそうなくらいだ。でも、俺には肉そのものがある。
ご飯と一緒に食べてみる。醤油がかかった肉は、米に合うんだな、これが。白米と肉、ただでさえうまい組み合わせなのに、この肉ときたら、すいすい入ってしまう。ゆっくり味わいたいのに、うますぎて箸が止まらない。
ポテトを肉汁につけて食べてみる。これもうまい。肉につけて食べて見ようかな。あっ、これ、正解。うまい! 肉の濃い味わいとポテトのまろやかさがよく合う。
「すっごい、おいしいね」
母さんが感動したように言うと、父さんが隣で頷いた。
「うん。この肉、おいしい」
「おいしい。すごい」
俺も言うと、父さんも母さんも笑って頷いた。
とろけるような肉、とは聞いたことがあるが、まさしくこの肉がそうなのだろう。口当たりがとろけるようなのだ。でもちゃんと肉らしい噛み応えもある。
いやあ、こりゃ、ばあちゃんに感謝だな。
あ、原稿のこと、忘れてた。まいっか。うまいもん食う時は、余計なこと考えないに限る。
最後の一切れ、大事に食おう。またいつか、食べられるといいなあ。
「ごちそうさまでした」
夜寝るときにクーラーを付けなくなり、うっすら開けていた窓を閉めるようになると、寒さが本格化してきたのだなあと実感する。
そろそろ、冬服を準備しておく必要がありそうだ。
今年は、体育祭の練習期間が長い。暑さの和らぐ時期に開催を延期したのだそうだ。その分、練習も長くなるので部活動の時間も必然的に増える。
屋外での練習が始まると仕事量は増える一方だ。他の生徒が来る前にスピーカーとかマイクとかを準備して、テーブルとか出して、CDの確認して、それから……とにかく、外での練習がつつがなく行われるように準備する必要がある。
こまごまとした機材を倉庫から持ち出す。上靴から外靴に履き替えるその手間も繰り返すとかなりしんどい。
外に出ると、夜ほどではないが少しひんやりとした風が吹く。それに乗って、甘い花の香りがやってきた。ああ、きんもくせいだ。
近くの家に咲いているのを見たが、ここまで漂ってくるんだもんなあ。
「なんか今、すげーきんもくせいの匂いしなかった?」
と、校庭の方からやってきた咲良が言う。
「した」
「なー、きんもくせいってすごいよな~」
「お前、準備は?」
話しながら校庭に向かおうとするが、咲良は気が進まないらしい。やけに足取りが重い。なんだ、さぼりか? いや、でも矢口先生がいる手前、さぼるはずもなかろう。
咲良の足取りに合わせていたら、朝比奈もやって来た。
「どうした、朝比奈」
少し困ったような顔は寒さのせいかとも思ったが、そうじゃないらしい。
「なんか……空気悪くて、つい」
「やっぱり?」
と咲良は苦笑する。
「なんだ、なんかあったのか」
「それがさあ、ちょっともめてんの」
咲良は先ほど起きた一部始終……まあ、まだ事は終わっていないらしいが、一連のことを話し始めた。
「何でも、原稿を大幅に変更したいって、体育祭実行委員が言ってきたみたいで」
「変更? なんでまた」
「なんか、もともと違う原稿を準備してたらしいんだけど、提出ミスったみたいで」
「原稿提出の期間に余裕がなさすぎって、文句付き」
と、朝比奈が補足する。校庭に近づくにつれて、矢口先生と、部員たちの声が聞こえて来た。まだはっきりと言葉は聞き取れないが、いい雰囲気ではないことは確かだ。見れば、確かに実行委員もいる。
「しかもさ」
咲良は少し声を潜めて言った。
「一年生の逆らえそうもないやつに押し付けるような感じで言ってたらしくて」
「前から約束してた原稿ができたとか何とか言って……」
「それを矢口先生が知ったもんだから、大変で」
「実際、聞いてないんだよな? その、原稿が変更されるって」
その問いに、二人はそろって頷いた。
なんというか……学校行事ってどうしてこう、トラブルがつきものなんだろう。そりゃあ、まあ、大勢の人間が動くからトラブルは起きて仕方ないんだろうけど、局所的に不穏な空気になるよなあ。
それも、学校行事の醍醐味と言われればそれまでなんだけど、巻き込まれる側からすれば、迷惑極まりない話だ。まあ、こういうのも、体育祭の最後の挨拶とかで「様々な困難を乗り越え……」とかそういうふうにまとめられてしまうんだなあ。
「どうなるんだろうな」
そうつぶやけば、朝比奈が遠い目をしながら言った。
「まあ……どっかで妥協案を探すんじゃない? 実行委員のことをないがしろにはできないだろうし」
「また仕事が増えた……」
放送を担う部員の仕事が増えるということは、別の仕事が俺たち雑用担当部員に回ってくるというわけだ。
厄介なことを引き起こしてくれたもんだ。
結局、原稿騒動は最終下校時間ギリギリまで考えたが妥当な結論は出ず、明日に持ち越しとなった。学校行事の準備期間中、最後に帰るのは放送部というのはよくあることらしい。
家に帰りついたのは、午後七時を回った頃だった。日暮れが早くなった今、外は真っ暗で寒い。
「ただいまー……あ?」
扉を開けた途端、なんかすげぇいいにおいが。きんもくせいとかじゃない。俺が最も好きな匂い。おいしい飯の匂いだ。
「おかえり。今日も遅かったね、お疲れ様」
台所に立つ母さんが笑って言う。手元では何かが焼けていた。
「見てよこれ、ばあちゃんからもらったんだけど、ほら。懸賞で当たったって」
「うっわ、なにこの肉」
分厚い牛肉がこんがりと、にんにく泳ぐ油の中で焼けている。ばあちゃんが買い物に行った先で、気まぐれに応募した懸賞が当たったんだと。全部は食べきれないから、人数分貰って来たのだそうだ。
「おっ、春都おかえり~」
風呂から上がった父さんが冷蔵庫に向かう。ビールを取り出しながら笑って言った。
「すごい肉だよなあ。ほれ、さっと風呂入って来い」
「ご飯も炊きたて、肉は焼きたてで待ってるよ」
と、母さんも言う。そりゃもう、言われなくとも。
今日も一日外の練習で砂まみれになった体をきれいにし、今日あったいろんな出来事も洗い流したら、とっとと居間に向かう。焼きたての肉は切り分けられ、にんにくと醤油と肉の脂を熱したものがかかっている。マッシュポテトも添えられて、完璧なのではなかろうか。
「いただきます」
箸でつまんだ時点で、なんか違うって分かる。こう、やわらかいだけじゃなくて、しっかりとした感じもあって、重みもあって……断面がつやつやしている。
恐る恐る一口。
カリッと香ばしい表面にはじけるような、その一方で吸い込まれるような肉質。舌になじみ、甘味とうま味があふれ出す。脂は上質でくどくない。赤身の部分は少し噛み応えが合って、むぎゅっむぎゅっとする感じだ。
それににんにくの風味が相まって、風味がこれ以上ないくらいに良い。すごくいい。匂いだけでご飯が進みそうなくらいだ。でも、俺には肉そのものがある。
ご飯と一緒に食べてみる。醤油がかかった肉は、米に合うんだな、これが。白米と肉、ただでさえうまい組み合わせなのに、この肉ときたら、すいすい入ってしまう。ゆっくり味わいたいのに、うますぎて箸が止まらない。
ポテトを肉汁につけて食べてみる。これもうまい。肉につけて食べて見ようかな。あっ、これ、正解。うまい! 肉の濃い味わいとポテトのまろやかさがよく合う。
「すっごい、おいしいね」
母さんが感動したように言うと、父さんが隣で頷いた。
「うん。この肉、おいしい」
「おいしい。すごい」
俺も言うと、父さんも母さんも笑って頷いた。
とろけるような肉、とは聞いたことがあるが、まさしくこの肉がそうなのだろう。口当たりがとろけるようなのだ。でもちゃんと肉らしい噛み応えもある。
いやあ、こりゃ、ばあちゃんに感謝だな。
あ、原稿のこと、忘れてた。まいっか。うまいもん食う時は、余計なこと考えないに限る。
最後の一切れ、大事に食おう。またいつか、食べられるといいなあ。
「ごちそうさまでした」
23
あなたにおすすめの小説
月弥総合病院
僕君☾☾
キャラ文芸
月弥総合病院。極度の病院嫌いや完治が難しい疾患、診察、検査などの医療行為を拒否したり中々治療が進められない子を治療していく。
また、ここは凄腕の医師達が集まる病院。特にその中の計5人が圧倒的に遥か上回る実力を持ち、「白鳥」と呼ばれている。
(小児科のストーリー)医療に全然詳しく無いのでそれっぽく書いてます...!!
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
大丈夫のその先は…
水姫
恋愛
実来はシングルマザーの母が再婚すると聞いた。母が嬉しそうにしているのを見るとこれまで苦労かけた分幸せになって欲しいと思う。
新しくできた父はよりにもよって医者だった。新しくできた兄たちも同様で…。
バレないように、バレないように。
「大丈夫だよ」
すいません。ゆっくりお待ち下さい。m(_ _)m
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる