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16 逃走 1

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 その夜、有紗は戻ってきたディートハルトを、いつも通りを心がけて受け止めた。

 抱かれる事も精を受け止める事も嫌だったが、これが最後になるかもしれないと思うと感慨深いものがある。



 そして、翌日――

 逃走は、ディートハルトがヴェルマー司令に連行された後に決行された。

 ドレッセル少尉の持参した変装用の軍服に着替え、部屋を出る。
 そして、あらかじめ決められた逃走経路を通り、首輪が外せるかもしれないという人物が待機する部屋へと向かった。



「よく来たな、テラ・レイス」

 そこに居たのは、アルトハイム県太守、イザーク・ディル・クライシュで、有紗は驚きのあまり目と口をぽかんと開けた。

 イザークは、ソレルに共通した秀麗な顔に、苦いものを滲ませて有紗を出迎えた。

「こっちに来い。その首輪を外す」
「どうしてあなたが……」

「クライシュ家はこの手の拘束系の魔術に長けた家柄なんですよ。確か隷属の魔術もクライシュ家の一族の方が開発したものだったはずです」
 イザークに変わって説明したのはドレッセル少尉だった。

「そういう事だ。来い。時間は限られているんだからな」

 イザークは眉間に皺を寄せ、有紗の首輪に手を触れ、魔術の行使を始めた。

「ちっ、ややこしい術式だ。作った奴の底意地の悪い性格が出ている」

 ぶつぶつと文句を言いながら、イザークが首輪の魔術を解き始め、体感にして十分程度だろうか、唐突にカチリと音がして首輪が外れた。

「取れた……」

 こちらの世界に唐突に来てしまってから、ずっと有紗を縛り続けてきた忌々しい首輪が。

「……私がお前の逃走に手を貸すと決めたのは、陛下からの依頼があったからだけではない。私自身も殿下に対して思うところがあるからだ」

 ぽつりとイザークが呟いた。

「あのような目に合わされたにも関わらず、ソレルが殿下を諦めんのだ。全く腹立たしい。だから殿下に一泡吹かせてやりたくなった」

 有紗はイザークの発言に大きく目を見開いた。

「ぼんやりしている暇はないぞ。これでお前は自由の身だ。さっさと行くがいい」
「行きましょう、アリサ様」

 ドレッセル少尉は二種類の魔道具を持参していた。探知魔術を無効化するブレスレットと、瞳の色を変える指輪だ。
 ブレスレットはバングルに重ね付けし、指輪は左手に嵌めた。
 そして有紗はドレッセル少尉に手を引かれ、イザークの元を後にした。


   ◆ ◆ ◆


 基地全体が有紗の逃亡を承知しているのか、軍服を身につけているおかげかはわからないが、別の軍人とすれ違っても見咎められることなく、有紗はドレッセル少尉と共に、あらかじめ用意されていた逃走用の馬車に乗り込んだ。

 軍の馬車は途中で乗り捨て、更に別の馬車へと乗り換える。
 今度は町の人間が使うような幌付きの荷馬車だった。

 軍の馬車を動かしたのはドレッセル少尉だったが、荷馬車には、庶民の格好をした男が御者として座っていた。

 有紗とドレッセル少尉は、荷馬車にぎっしりと積まれた木箱の陰で、軍服から庶民的な格好に着替える事になった。こちらに着た時にディートハルトに買ってもらった街の娘が着るような衣装だ。

 ドレッセル少尉はそれに加えて、有紗と同じ、瞳の色を青紫に変える指輪を身につけた。
 最後の仕上げとして手袋を渡される。

「指輪はともかくその殿下から頂いた腕輪はいけません。明らかに浮きます。これで隠してください」
 ドレッセル少尉に言われ、有紗は素直に手袋を身に着けた。確かに見るからに高級品で、街の娘が付けるにはそぐわないものだ。

「ドレッセル少尉、髪下ろすと印象変わりますね」

 普段前髪も含めてきっちりとまとめている髪を下ろした彼女は、まるで別人だった。
 ブロンズ色の髪はくるくるとカールしており、涼やかな印象の美女になったのだ。

「よく言われます。こういう時には役に立つので重宝してます」
 美女ににっこりと微笑まれ、有紗は状況を忘れて見とれてしまった。

「陛下が潜伏先として用意してくださった修道院まで三日間ほどかかる予定です。その間申し訳ありませんが、一般市民を装って移動するので浄化の魔術は使えません。何卒ご承知置きください」
「はい。大丈夫です」

 三日間、綺麗にできないのは気持ち悪いがディートハルトから逃げるためだ。我慢するしかない。

「そこの男はゲオルグと言います。私と同じ軍人で、平民ですが腕の立つ男です。道中は私とゲオルグが護衛を務めます」
「よろしくな、アリサ」

 ゲオルグが振り返ってこちらに声をかけてきた。軍人というだけあって体格のいい、茶色の髪と青紫の瞳の気のよさそうな三十代くらいの男だった。

「女子修道院は男子禁制なのでゲオルグは入口までになりますが、院内には私もお供させていただきます。よろしくお願いします。」
「はい。ドレッセル少尉が一緒なのは心強いです」

 知らない人よりも、知っている人が一緒の方がいい。有紗がそう言うと、ドレッセル少尉は僅かに微笑んだ。

「私の事はここからはビアンカと呼んで下さい。さん付けは不要です」
「はい。ビアンカ」
「設定としてはお前は嫁ぎ先でいびられた妹。俺たちはそれを聖エーデル女子修道院まで送っていく兄夫婦って事にするんでよろしくな」
「ゲオルグと夫婦役だなんてぞっとしますけどね」
「俺は嬉しいけどね。可愛い女の子二人に囲まれた楽ちん任務で役得だ」

 そう言ってゲオルグは朗らかに笑った。


   ◆ ◆ ◆


 ディートハルトの午前中の予定は、基地にある戦没者慰霊碑の前で鎮魂の祈りを捧げる事だ。
 王族の基地訪問を受け、急遽この祭祀が実施されることになった。

 司祭が聖典を読み上げる声を聞くのははっきり言って退屈である。しかし第二王子であるディートハルトが、それを顔に出す訳にはいかない。
 神妙な表情を作り聞いている振りをするのは、長年の公務の中で培われた特技だった。

 頭の中に、ふいに二日前、父親から通信機ごしに受けた叱責が思い出された。



「お前は一体何を考えているんだこの馬鹿者! 婚約者候補の令嬢との顔合わせの席に、女奴隷を連れて行くなど!」

 父であるフレンスベルク国王エルンストから叱責を受けた原因は、ソレルとの会見の席の苦情がイザークからエルンストに申し立てられた事だった。

「俺は結婚なんかしたくないと言っているのに、聞いて下さらない父上も悪いんですよ」

「テラ・レイスを得たのは報告で聞いている。その女を寵姫に迎えるのはいい。しかし、妃を娶り子を残すという王族男子の義務を放棄していい理由にはならんわこの馬鹿たれ」

「妃を娶った所で子が出来るとは限らないですよ。俺はただでさえ魔力が多いんだから。何故母上が亡くなったのかお忘れですか?」

 こう返すとエルンストはいつも押し黙る。
 魔力の多い赤子を胎内で育てるのは、母体にも与える影響は大きい。
 母フレデリカがディートハルトを産み落とすのと引き換えに亡くなった事は、王家の全員に暗い影を落としていた。
 特にディートハルトと同母の姉クラウディアとの間には、母の死を巡って消えないわだかまりが存在している。

「……候補に入っているのは、それでも構わないという献身的なご令嬢方だ」
「女の子達が構わなくても俺が構うんですよ。いい加減分かって貰えませんか?」

 エルンストもうんざりだろうがディートハルトもうんざりだ。結婚適齢期に入ってから、このやり取りを一体何度繰り返した事だろう。

「王族の子は何人いても構わない。国力に繋がるんだからな。それはお前もわかっているだろうに……」
「頭ではわかっていても嫌なものは嫌なんです」

 そして結局堂々巡りが繰り返され――どちらかの時間切れで通信は終わるのだ。
 昨日の場合はエルンストの公務の時間が来て解散となった。



 貴族出身の側妃なんていらない。アリサを得た今はより強くそう思う。

 貴族の女は面倒だ。娼婦と違って魔力酔いには注意を払って抱かねばならないし、口うるさい外戚も付いてくる。

 ディートハルトがこの世で一番嫌いな貴族、イルクナー家は、母フレデリカの実家である。
 イルクナー家の現当主である外祖父は、フレデリカの死を責め立て、ディートハルトを王に擁立しようと画策している。それがディートハルトにとっては非常に煩わしい。

 自分は王の器ではないし、そもそもなりたいとも思っていない。
 ディートハルトが物心ついた時、十二歳上の兄、ユリウスは既に立太子しており、王太子としての立場を確立しつつあった。

 そこにディートハルトが割り込めば、絶対に貴族間の不和をもたらす。イルクナー家の主張は、ディートハルトが規格外の魔力を持っているから王にすべきだ、というものだが、だからこそ王にすべきではないという声も存在するのだ。

 フレンスベルクにおける王とは、地脈と天候を操作する神器の継承者の事をいう。
 神器の力は絶大で、神器を持つエルンストが、土地を潤す為に使っている力を攻撃に回せば、軽くディートハルトの魔力を上回る。
 それだけの力を持つ道具だからこそ、ディートハルト以外の者が持ち、ディートハルトに対する抑止力とするべきだという意見が出る。

 そして、ディートハルトは妃も子も出来れば持ちたくない。自分の子を孕んだせいで母のように死なせるのではないかと思うと怖い。そんな人間に王が務まるとはとても思えない。

 その点アリサはディートハルトには非常に都合のいい女だった。
 子を孕むことの無いテラ・レイスで、ディートハルトの魔力の影響も受けない女。

 顔も身体の反応も上々で、他の女と違って媚びて来ないところも良い。

 二、三十年に一度くらいの割合でこちらにやってくるテラ・レイス。その妙齢の女が魔力過多で悩む自分の目の前に現れたのは、運命とか、天の配剤とか言われる類のものに違いない。

 そう、思っていた。だから。



 突然、アリサに持たせていた腕輪の反応が消えて、ディートハルトは驚きに目を見開いた。
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