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2章.嘘つきたちの現実。

01.好きなもの

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 ☽・:*



 生きる上で必要なものと必要がない好きなもの。
 他人の価値観ではガラクタ同然の必要がないものでも、個人の価値観では必要な大切な宝物。その大切な宝物で部屋と心が満たされているほうが人生は豊かだ。と、わたしは思うのである。


 いつも立ち寄る古書店街。その片隅の細い3階建てビルの文具店。店構えは大正浪漫溢れるアールヌーボー。ステンドガラスが美しい木製のドアを開けると、真鍮のベルがカララン、カランと軽やかな音色をたてる。
レトロカラーに彩られた1階は、現代の実用的な事務文房具からアンティークな文具まで取り揃えている。なんと、紙の種類も豊富なのだ。
 2階の半分は、初心者向け万年筆から高価なアンティーク万年筆、珍しいインクが壁一面の棚に綺麗に飾られていて、オタク心をくすぐるフロア。

 その狭いフロアの半分、たった3つのテーブル席で店主マスターのおじいさんが珈琲を入れている。ロマンスグレーなのもすてきだ。このお店の半分は道楽なのだという、たいそう変わった文房具店。ここがわたしの憩いの場だ。
 繁盛しているようには思えない。でも、SNSやクチコミでひそかに人気が出てしまい、わたしと同年代かお姉さんお兄さん年代の人をよく見かけるようになった。それが売り上げにつながっているかどうかは、この古書店街の七不思議にしておこう。

 わたしは、買えもしない高価なアンティークのガラスペンを眺めたり、実際に試し書きをさせてもらったりを高校生の頃から続けている。いわゆる、顔馴染みの冷やかし客というやつだ。
 満面の笑みのマスターが、わたしにスペシャルブレンドコーヒーを入れてくれた。

「キューちゃん、栃木の工房から来たばかりの万年筆と、富士から届いたばかりのインクを見るかい?」

 わたしはオバケではないが、わりと発音しにくい季結キユという名前から、キューちゃんと呼ぶ人が多い。

「見る見る! 見せてください!」

 こぢんまりとした飴色ウォールナットのカフェテーブルに、マスターが薄いグレー色のベルベット(?)の箱を何個か並べる。マスターは上品な所作で、そのうちのひとつから万年筆を取り出した。
 特殊な樹脂を使った万年筆は、本物の木で作られたみたいな見た目と触り心地。それでいて、ずっと握っていたくなる握り具合とぬくもり。金色のペン先はマットな輝きを放ち、細やかな彫りも格段上品だ。

「書き心地にこだわって作られたハンドメイドなんですよ」 
「へぇ。……おほっ」

 値段を見たら人類にあるまじき声が出た。わたしのバイト代2ヶ月分と少しの同じ値段だったから、いたしかたあるまい。「特にブランド品ではないけど、万年筆界では珍しくない値段だ」とマスターは笑っていた。好事家ならでは、というやつか。

「こっちが富士から来たばかりの染料インクね。銀の粉が入ってるんですよ。メンテナンスが楽しくなっちゃうよねぇ」

 瓶もステキなインク。朝・昼・晩、真夜中、朝焼け・夕焼け。美しいラベルに貼られた名前通りの発色が、マーメイド紙にじわりと広がり、美しい滲みを作る。さらに水を足すと、漆黒だった真夜中のインクは、滲む過程で深海のような青が広がる。深紫だった朝焼けのインクはきらめく銀粉ラメとともに赤色がゆっくり紙に滲んで広がっていく。
 紙の上に広がった、真夜中と朝焼けの滲みが重なった部分は、いつか見た朝焼けのように美しい。すごく惹き付けられる。

「すごく……いい。…………ほしい」

 ひと目でインクの虜になった人間のとる行動はひとつ。購入である。しかし、いかんせん、お高い。何本も1度に衝動買いするには、学生の身分ではできないお値段。でも、ほしい!

「この万年筆とこれとこれとこのインクを……取っておいてください」
「カードも使えるよ?」
「学生の身分でカードは使えないです。半年。半年取っておいてください!」

 わたしは必死に執念深く、かつ、しぶとく土下座も辞さない勢いで頼み込み、マスターからなんとか承諾を得た。ふひひひ。
 こんな時、バイト代を使い込まずに貯蓄をしておけば、今頃万年筆と三本のインクを手に入れてたものを。
 おのれの浪費をこんなに呪ったことはない。スズメの涙の貯金とバイト代を使い込まずにいれば、3か月で買える。
 日々欲しいものは埃のように積もりに積もる。次の春は、憧れのイーハトーブへ先輩・不破フワさんのお手伝いで向かうのだ。旅費の積立もしなきゃいけない。

 だが、半年待ってくれるとマスターが一筆したためてくれたのだ。今日から買い食いと飲み会をガマンしよう。さすれば、職人オリジナルの素敵な万年筆と気に入ったインクが我が元へやってくる。

 こうしてわたしは古書店街から、夢見る笑顔……オタクらしい笑みを浮かべて、ふひひひと笑いながら足取り軽く我が家へ向かった。


 それがわずか2か月前の話。
 お兄ちゃんが「結婚する」と、核ミサイルよりも威力がある爆弾発言をした、この世の終わりの始まりより前の話だった。



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