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第1章 逃げ出した花嫁

7話 木から落ちた妖精⑴

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 今にも折れそうな枝から手を離すか、それとも折れるまで待つか。下から声をかけてきた男性の言葉を信じるべきか否か、レインリットは決断を迫られていた。

 そもそもレインリットが木に登らなければならなくなったのには理由がある。情報を集めるために立ち寄った酒場で、酔った男たちにしつこく追いかけられ、どこかに身を潜める必要があったのだ。昔のお転婆の経験を活かして木に登ったものの、身体が小さく体重も軽かった子供時代のようには身軽ではない。結局ドレス姿では降りることができず、もたもたしているうちに足を踏み外してしまったというわけだ。

 自力で木から降りることを断念したレインリットは、震える声で男性に質問する。

「あ、貴方は、お酒を召していらっしゃる?」

「果実酒を少々。大丈夫、酔ってはないから」

「でも、酔った殿方はだいたいそんなことをおっしゃるわ」

 すると、男性が小さく噴き出した。しかしレインリットにしてみれば笑いごとではない。木に登る原因となった男たちは、みな酔っ払っていたのだから。その時、しがみつく木の枝がミシミシと不穏な音を立て始め、ハラハラと白い花びらが舞い落ちた。

「レイウォルド伯の称号にかけて君を傷つけるようなことは一切しないと誓おう。枝が折れて怪我をする前に、早く」

 その真摯な言葉にレインリットは心を決めた。男性はレイウォルド伯爵と名乗った。称号にまで誓ってくれるなんて、まさに紳士然とした立派な貴族ではないか。

「貴方を信じます。だから、私を受け止めてください!」

 レインリットは目をギュッと瞑り、しがみついていた枝から手を離した。そして衝撃に備えて身を縮める。

「……っ!」

 かさり、と葉の落ちる音がする。花が潰れたのか、むせ返るような甘い匂いも漂っている。しかし、それだけだった。レインリットの心配は杞憂に終わり、地に落ちるはずだった身体は逞しい腕に抱えられていた。

「ゆっくり目を開けてごらん。もう大丈夫だから」

 耳元に低い声で囁かれ、レインリットは小さく身震いをする。ドキドキと心臓が鳴り響き、治めようと胸を抑えた。レイウォルド伯爵は、いつまで経っても目を開こうとしないレインリットを心配したらしい。膝裏に手を入れると、横抱きにして歩き始めた。

「怖かっただろう。なんだって木の上に?」

「お、男の人に、追いかけられて」

「追いかけられる? 失礼だが、君は、その……招待客ではないよね」

 そう言われて、レインリットはパッと目を開いた。
 ガス燈の灯りの下、二人視線が交差する。思ったよりも近い位置に見知らぬ男性の顔があり、頬が熱くなった。
 レイウォルド伯爵は、見たこともない不思議な銀色の髪と瞳を持っていた。そして、これまで出会ったどの男性よりも整った顔立ちをしていて、レインリットはそんな素敵な人から横抱きにされていることが恥ずかしくなる。

「あの、もう、降ろしていただいても、大丈夫です」

「あ、ああ……足元に気をつけて」

 消えそうなほど小さな声で主張したレインリットに、時が止まったかのように微動だにしなかったレイウォルド伯爵が慌てたように速足になる。そして石造りの長椅子に丁寧に降ろすと数歩下がった。

「どこか痛いところは?」

「いえ、大丈夫みたいです……あの、ありがとうございました」

 改めて思うと、とんでもなく恥ずかしいことだ。成人した貴族の令嬢が、ドレスで木登りをして、あまつさえ助けられるなど。

 レインリットは目を合わせることができず、微妙に視線を外してレイウォルド伯爵のタイを見つめた。皺のない黒の夜会服に艶々と輝く革靴は、とても高価なものに見える。
 一方でレインリットのドレスは野暮ったく、木登りをしたせいもあり皺だらけでほつれが目立つ。おまけに、靴下も履いていなかったことを思い出し、彼女は今すぐどこかに隠れてしまいたい衝動に駆られていた。洗っていた靴下が乾いていなかったので、素足に短いブーツを履いていたのだが、先ほど木からずり落ちそうになった時に脚を見られたかもしれない。

「それならよかった。君を追いかけていたという男は、ここに?」

「い、いえ、店で酔った方々にしつこく声をかけられたのです。すぐに逃げたのですが、追いかけ回されて、ちょうどいいところに登れそうな大きな木がありましたので、その木を伝ってあそこへ」

 レインリットが木に目を向けると、つられてレイウォルド伯爵も木を見た。花の咲いた木に隣り合うようにして立派な大樹がそびえ立っている。

「あの大樹の葉が上の方にしか生えていなかったので身を隠すことができなくて。白い花の木に飛び移ったまではよかったのですが……」

 説明してみて恥ずかしさが増したレインリットは、声を尻すぼみに小さくして俯く。しかし幸いにして、レイウォルド伯爵は素足なことについて触れることはなかった。
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