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第1章 逃げ出した花嫁
8話 木から落ちた妖精⑵
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「本当に、怪我がなくてよかった。それで、よかったら君の名前を教えてくれるかな?」
レイウォルド伯爵に名前を聞かれたレインリットは言葉に詰まった。ここがどういう場所か知らないが、伯爵は「招待客」と口にした。だとしたら、ここは伯爵の邸宅の庭先だったのだろうか。
――まさか私、不当に侵入してしまったの?!
これは一大事だ。レインリットは自分の軽率な行動を恥じた。ここはソルダニア帝国の首都エーレグランツ。故郷のソランスター領ではない。
「申し訳ございません伯爵様、すぐに出て行きます!」
レインリットは震える手でドレスを掴んで立ち上がる。しかし、出て行こうにも何処が出口なのかさっぱりわからない。もう一度木の方を見れば、大樹を起点とするように立派な塀が続いていた。逃げることに集中するあまり、周囲の様子がまったく頭に入っていなかったらしい。
「そんなに怯えないで。私が君を傷つけることはしないと誓ったのを忘れたのかい? 君は酔っ払いから追いかけられて逃げて来ただけなんだから。ほら落ち着いて、私の目を見てごらん」
レイウォルド伯爵の優しい声音に、レインリットはそろそろと顔を上げた。そして気遣うように微笑む伯爵の顔を見ると、急に涙が溢れてきて丸みを帯びた頬に一筋、雫がこぼれ落ちる。
「ああ、泣かないで……そんなに泣いたら目が溶けてしまうよ」
「本当に、申し訳、ございませんでした」
「さあ、これで顔を拭いて」
なんのためらいもなく真っ白なハンカチーフを差し出してきたレイウォルド伯爵に、レインリットは恐縮したように受け取った。恐る恐る目にハンカチーフを当てると、仄かに伯爵の香水が香る。レインリットの戸惑いも知らず、涙を拭き終わるのを待っていたレイウォルド伯爵が口を開いた。
「もう一度聞いていいかな?」
「はい」
「君の名前は?」
「メアリ・ハーティです、伯爵様」
「ではメアリ。君はここが誰の庭か知っているかい?」
「伯爵様のものではないのですか?」
レインリットは反射的に偽名を口にし、緊張しながらレイウォルド伯爵を見る。ジッと観察するように見ていた伯爵は、短く息を吐いて微笑んだ。
「私の庭ではないよ。本当に知らないようだね。ここはさる貴族の別邸だ。今夜は夜会が催されているのさ」
「……夜会」
「そう、夜会だよ、メアリ」
レイウォルド伯爵は、「さてどうしようかな」と言いながら、レインリットの頭からつま先まで眺めて頷いた。
「君をまた木に登らせるわけにはいかないし、ここで待っていてくれないか」
レイウォルド伯爵はそう告げると、レインリットの肩に手を置いて長椅子に座らせる。
「伯爵様、わ、私なら、裏口から外に出ます!」
これ以上ここに居られないとレインリットが少し大きな声を出すと、レイウォルド伯爵がムッと口を閉じた。何か怒らせるようなことを言ってしまったのかと焦るレインリットに、伯爵は先ほどよりも低い声を出す。
「それで、君は一人で家に帰るのかい? こんな夜中に? 私には君を助けた責任がある。私が戻るまでここで待っているんだ、メアリ」
有無を言わせないその声に、レインリットの背筋がピンと伸びる。
「伯爵様、でも……私は」
「君が気にするこようなことは何もないよ。私はただ、木から落ちてきた妖精を、彼女の住む家まで送り届けるだけだからね」
「よう、せい」
その言葉に、レインリットの心臓がドクリと跳ねた。
――たまたま、伯爵様は、たまたまそうおっしゃっただけよ。
レインリットは母国で『ソランスターの妖精』と呼ばれていた。まさかクロナンの追っ手なのかと冷や汗が出たが、レイウォルド伯爵の目は優しくを見つめている。
「そう、妖精。君は羽根のように軽くて、伝説の妖精の特徴と目と髪の色が同じだからね」
悪戯っぽく笑ったレイウォルド伯爵は、念を押すように待っているように言うと、あっという間にレインリットの前から姿を消した。
レイウォルド伯爵に名前を聞かれたレインリットは言葉に詰まった。ここがどういう場所か知らないが、伯爵は「招待客」と口にした。だとしたら、ここは伯爵の邸宅の庭先だったのだろうか。
――まさか私、不当に侵入してしまったの?!
これは一大事だ。レインリットは自分の軽率な行動を恥じた。ここはソルダニア帝国の首都エーレグランツ。故郷のソランスター領ではない。
「申し訳ございません伯爵様、すぐに出て行きます!」
レインリットは震える手でドレスを掴んで立ち上がる。しかし、出て行こうにも何処が出口なのかさっぱりわからない。もう一度木の方を見れば、大樹を起点とするように立派な塀が続いていた。逃げることに集中するあまり、周囲の様子がまったく頭に入っていなかったらしい。
「そんなに怯えないで。私が君を傷つけることはしないと誓ったのを忘れたのかい? 君は酔っ払いから追いかけられて逃げて来ただけなんだから。ほら落ち着いて、私の目を見てごらん」
レイウォルド伯爵の優しい声音に、レインリットはそろそろと顔を上げた。そして気遣うように微笑む伯爵の顔を見ると、急に涙が溢れてきて丸みを帯びた頬に一筋、雫がこぼれ落ちる。
「ああ、泣かないで……そんなに泣いたら目が溶けてしまうよ」
「本当に、申し訳、ございませんでした」
「さあ、これで顔を拭いて」
なんのためらいもなく真っ白なハンカチーフを差し出してきたレイウォルド伯爵に、レインリットは恐縮したように受け取った。恐る恐る目にハンカチーフを当てると、仄かに伯爵の香水が香る。レインリットの戸惑いも知らず、涙を拭き終わるのを待っていたレイウォルド伯爵が口を開いた。
「もう一度聞いていいかな?」
「はい」
「君の名前は?」
「メアリ・ハーティです、伯爵様」
「ではメアリ。君はここが誰の庭か知っているかい?」
「伯爵様のものではないのですか?」
レインリットは反射的に偽名を口にし、緊張しながらレイウォルド伯爵を見る。ジッと観察するように見ていた伯爵は、短く息を吐いて微笑んだ。
「私の庭ではないよ。本当に知らないようだね。ここはさる貴族の別邸だ。今夜は夜会が催されているのさ」
「……夜会」
「そう、夜会だよ、メアリ」
レイウォルド伯爵は、「さてどうしようかな」と言いながら、レインリットの頭からつま先まで眺めて頷いた。
「君をまた木に登らせるわけにはいかないし、ここで待っていてくれないか」
レイウォルド伯爵はそう告げると、レインリットの肩に手を置いて長椅子に座らせる。
「伯爵様、わ、私なら、裏口から外に出ます!」
これ以上ここに居られないとレインリットが少し大きな声を出すと、レイウォルド伯爵がムッと口を閉じた。何か怒らせるようなことを言ってしまったのかと焦るレインリットに、伯爵は先ほどよりも低い声を出す。
「それで、君は一人で家に帰るのかい? こんな夜中に? 私には君を助けた責任がある。私が戻るまでここで待っているんだ、メアリ」
有無を言わせないその声に、レインリットの背筋がピンと伸びる。
「伯爵様、でも……私は」
「君が気にするこようなことは何もないよ。私はただ、木から落ちてきた妖精を、彼女の住む家まで送り届けるだけだからね」
「よう、せい」
その言葉に、レインリットの心臓がドクリと跳ねた。
――たまたま、伯爵様は、たまたまそうおっしゃっただけよ。
レインリットは母国で『ソランスターの妖精』と呼ばれていた。まさかクロナンの追っ手なのかと冷や汗が出たが、レイウォルド伯爵の目は優しくを見つめている。
「そう、妖精。君は羽根のように軽くて、伝説の妖精の特徴と目と髪の色が同じだからね」
悪戯っぽく笑ったレイウォルド伯爵は、念を押すように待っているように言うと、あっという間にレインリットの前から姿を消した。
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