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6. 私の好きな人について

39枚目 愛しい人からの願い

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『祝言を迎えたら、俺はもうお前を離してやれそうにない』

 お互いが落ち着いた頃に、和則はぽそりと呟いた。

『もう俺には……美和しかいないから』

 自分を苦しめた家には、二度と足を踏み入れない。見合いをして少し経った日にそう言っていた。
 両親の死に目にも会わない、と言っていたようにも思う。

 和則の親が本当に息子を邪魔だと思うのならば、とっくに生きていないはずだ。
 けれど和則は今、美和を抱き締めて離さないでいる。
 確かに命がここにあるのだ。
 その事に感謝こそすれ、自分と出会う前の和則が不憫でならなかった。

『こんなにいい嫁を貰うのに、俺だけが弱いままじゃ……駄目だよな、きっと』

 美和は和則の腕の中で、じっと耳を傾けている。
 とくりとくりと少しずつ早くなっていく鼓動は、果たしてどちらのものなのか。あるいは両方か。

 いや、この際どちらでもよかった。
 二人一緒に生きて、死が二人を分かつ時まで年を重ねていけるのなら、それで良い。

 すべては二人で幸せに生きるため。
 たとえ早くに別れが来たとしても、それまでの人生が幸せに満ちたものならば。

『──貴方は貴方のままでいてください』
『俺は俺のまま……?』

 あ、と小さく声を上げる。無意識のうちに言葉にしていたとは思わなかったのだ。
 なんだかいたたまれなくて、恥ずかしくて。おろおろと瞳を右往左往させ、目に見えて焦る美和に和則は微かに笑った。

『ありがとうな』
『か、和則さま?』

 ポンポンと頭を撫でられたかと思うと、壊れ物を扱うかのように頬に手を添えられる。

『あ、あの』
『黙って』

 弁解しようとするが、しっとりとした声音でそう言われてしまうと何も言えなかった。
 和則は目を伏せ、美和の小さな唇に優しく口付ける。
 初めての口付けは涙の味がした。


 ◆◆◆


 「い……あおい……葵!」

 ぺちん、と軽く手の甲を叩かれる。

 「へ、何!?」

 ごく軽い衝撃に、そこで葵の思考が現実に引き戻された。
 見れば、麗が心配そうに葵を見つめていた。
 ぼんやりとする葵を不審に思ったのか、少し前のめりの体勢になっている。

 「あ、ごめん! 痛かったか……?」

 おろおろと子供らしく慌て、麗は小さな手で葵の手の甲を撫でさする。
 痛くはないが、びっくりしたというのが正しかった。

 「い、いえ。大丈夫です」

 そう言ったあと、ふわふわとしていた葵の意識がゆっくりと輪郭を持っていく。

 この一ヶ月で、麗と沢山のことを話した。年齢にも学年にも差があるからか、毎日会う事は難しい。
 けれど事前に約束するでもなく、来たい時に最初に再会した公園へ来て、じっとお互いを待っている。
 前世とは違ってそんな関係も悪くない、と感じると同時に寂しくもなってしまう。

 もしも同じ年頃で、一緒に帰る事ができるのならばどれほど楽しいだろう。
 一緒に授業を受けて、時にはテストの点数で競い合って。休みの日にはデートをして、美味しいものを食べて。
 前世では成し遂げられなかった数々の「もしも」の話が、溢れてはすぐに消えていく。

 (今も楽しいけれど……)

 物足りない、と感じてしまう。
 多くのことは望まないが、せめてこの時ばかりは麗と同じ時間を過ごしていたかった。

 「なぁ、葵」

 されるがまま黙っている葵に疑問を思ったのか、麗が制服の裾を軽く引っ張った。

 「は、はい。どうし──」
 「やめないか?」

 葵の言葉をさえぎり、いつになく静かな声音で問い掛ける。

 「それ……?」

 きょとんと小首を傾げ、麗を見つめる。

 (それ、って何……?)

 心の中で反芻はんすうしても、なんなのかは分からない。
 何かまずいことを言ってしまったのだろうか。
 いや、麗は前世からずっと優しいままだ。滅多な事では怒る事もないから、多少の事は許してくれるだろう。

 けれど、真面目な話をする時のように真剣な表情だ。今この時ばかりは嘘を言っていない、と思った。
 前世、この瞳をする時は嘘偽りなくすべてを話してくれるのだ。思ったことすべて。

 「言葉使いだよ」

 ぱちくりと目を瞬かせる。
 何を言われたのか、最初は理解出来なかった。

 「え、私はこれが普通で……」

 そう、普通なのだ。『和則』に対してだけであれば。

 「いや……だから、な? おかしいだろ、傍目からしちゃ小学生相手に敬語で話してるんだから」

 やや呆れた、ともすれば何かを嘆くかのような口調だ。

 (普通ならおかしいって思うけれど。和さまは和さまだし、今更口調を直す方がおかしいんじゃ……)

 そんな考えが表情に出ていたのだろう。麗は深く溜め息を吐いて、葵の両手を麗のそれで掴んだ。

 「葵、ちゃんと聞いてくれ」
 「え、はい」
 「再会したあの日から、お前は変わってないって知ってる。けどな、傍目からしちゃ異質だ。俺たちは年齢も違うし、背格好だって違う──あと数年もしたら葵の背を越すかもしれないけど」

 ぱちぱちと二度三度と瞬く。麗が何を言いたいのか分からなかった。

 「……葵」

 ぎゅう、と小学生にしては強い力で手を握り締められる。どこにこんな力があるのか、というほどに。

 「俺たちは年相応であるべきだ」

 強い意思のある麗の大きな黒い瞳が、じっと葵の姿だけを映していた。
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