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8. 前世の俺の一目惚れ
55枚目 ひと時の別れ
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まっすぐに遠野を見て言うと、目の前にいる男はわかり易いまでに目を輝かせる。
『薫さま……!』
声音が少し震えている。図らずも気を張らせてしまったんだな、と薫は少しの罪悪感に駆られた。
『よし、それでこそ儂の見込んだ男だ!』
『え、ちょ、清さん!』
それまで黙って薫の動向を見ていた春清が、わしゃわしゃと薫の頭を乱雑に撫でる。伸ばしつつあったまっすぐな髪は、無骨な手でぐちゃぐちゃに掻き混ぜられた。
『やめてください、折角整えたのに……!』
『なんだ、一丁前に男尽いて。ん? さてはお前、好きな女人でも出来たか?』
にやにやとした表情を隠すこともなく、春清が迫る。
『どっからそこまで飛躍したんですか!? ……いませんよ、俺には』
その昔、好きな女性は居たが、今は誰とも恋愛をする気はなかった。それを悟られたくなくて、薫はやんわりと|言葉を濁す。
そんな薫をどう思ったか、春清は追求するのを止めた。
『まぁ……薫の縁談を組むより、今はお父上の事だな。発つのはいつになるんだ?』
何か自分のことで面倒な気配を察知したが、春清の話の矛先が父に向かったことで薫も頭を切り替える。
『そうだなぁ……』
『早ければすぐにでも』
薫が口を開くより早く、遠野が言葉を遮った。
『は、今からか……?』
『薫さまの身支度が終わり次第、すぐに発つ予定ではあります。──旦那さまがお待ちですから』
遠野が発した最後の言葉はか細く、よく聞き取れなかった。
(いくらなんでも急じゃないか、まだ俺が行くとは行ってないのに)
元来から父は生力の強い人だ、と幼い頃に遠野が言っていたことを覚えていたのだ。
けれど、そこで薫の頭の中をある言葉が過ぎった。
(……いや、すぐにでも発つ方が妥当か)
病人はいつ天に召されるか分からない──坂城夫妻の元に住み着いて、そこで始めて教わった事だった。
正直なところあまり乗り気はしないが、早いところ父に会わなければ、何も伝えられないまま終わってしまうかもしれない。
置き手紙を残して鷹司家を飛び出してから一年近く。
きっとその傍には母がいて、父の一刻も早い回復を祈っていることだろう。
両親に会うのは怖い。
けれど、何も言わずに父と別れる方が怖いと思えた。
幼い頃の夢だった店を持ち、ここ数ヶ月で少しずつだが客が増え、繁盛してきている──それを伝えられずに逝く事は許さない。
そんな思いが、薫の心を駆け巡る。
『準備してくるから待っててくれ、すぐに済む』
『……! お待ちしております!』
遠野の亜麻色の瞳から雫が一筋落ちるさまを、きっと薫は忘れないだろう。
『清さん、本っっっ当に大丈夫ですか? 仮にも金額を間違えたり忘れたり、品物を壊したりしませんよね?』
薫の中に少しの心配もありつつ、夫妻に向けて手短に教えた「開店してからやる事」を清春に確認する。
『お前は儂をなんだと思っとるんだ。あまり老いぼれを揶揄うんじゃあない』
呆れた声音で清春が言った。心なしかうんざりとした表情だ。
『まぁ……あれだ。幸子がそれとなくしてくれるから心配するな』
ぽん、と一度優しく肩を叩かれた。
薫の顔を見ずにどこか遠くを見つめているから、春清自身は何もしないのだと検討がついた。
『いや、あんた自分で任せろって言ってましたよね?』
今度は薫が呆れる番だ。
約束を守らないことが何度かあったため、春清の性格は一年である程度熟知している。
はぁ、と薫は一度溜め息を吐くと、春清の隣りに立つ幸子に向き直った。
『幸さん。……店をよろしくお願いします』
幸子に向けてぺこりと丁寧に頭を下げ、一言一句ゆっくりと言った。
『言われなくても大丈夫よ。だから、安心して行ってらっしゃい。あたし達がしっかりと貴方の留守を守りますから』
にこりと幸子が微笑み、薫の手を優しく握る。
心地よい体温と、どこか懐かしさのある手に包まれると、それまで不安に苛まれていた薫の心が一瞬で霧散した。
『はい。──行ってきます』
きゅ、と幸子に握られた分だけしっかりと握り返す。
この優しい女性と、少し不器用な優しい男の二人が待つ第二の家に帰る、と心に固く誓った。
『薫さま……!』
声音が少し震えている。図らずも気を張らせてしまったんだな、と薫は少しの罪悪感に駆られた。
『よし、それでこそ儂の見込んだ男だ!』
『え、ちょ、清さん!』
それまで黙って薫の動向を見ていた春清が、わしゃわしゃと薫の頭を乱雑に撫でる。伸ばしつつあったまっすぐな髪は、無骨な手でぐちゃぐちゃに掻き混ぜられた。
『やめてください、折角整えたのに……!』
『なんだ、一丁前に男尽いて。ん? さてはお前、好きな女人でも出来たか?』
にやにやとした表情を隠すこともなく、春清が迫る。
『どっからそこまで飛躍したんですか!? ……いませんよ、俺には』
その昔、好きな女性は居たが、今は誰とも恋愛をする気はなかった。それを悟られたくなくて、薫はやんわりと|言葉を濁す。
そんな薫をどう思ったか、春清は追求するのを止めた。
『まぁ……薫の縁談を組むより、今はお父上の事だな。発つのはいつになるんだ?』
何か自分のことで面倒な気配を察知したが、春清の話の矛先が父に向かったことで薫も頭を切り替える。
『そうだなぁ……』
『早ければすぐにでも』
薫が口を開くより早く、遠野が言葉を遮った。
『は、今からか……?』
『薫さまの身支度が終わり次第、すぐに発つ予定ではあります。──旦那さまがお待ちですから』
遠野が発した最後の言葉はか細く、よく聞き取れなかった。
(いくらなんでも急じゃないか、まだ俺が行くとは行ってないのに)
元来から父は生力の強い人だ、と幼い頃に遠野が言っていたことを覚えていたのだ。
けれど、そこで薫の頭の中をある言葉が過ぎった。
(……いや、すぐにでも発つ方が妥当か)
病人はいつ天に召されるか分からない──坂城夫妻の元に住み着いて、そこで始めて教わった事だった。
正直なところあまり乗り気はしないが、早いところ父に会わなければ、何も伝えられないまま終わってしまうかもしれない。
置き手紙を残して鷹司家を飛び出してから一年近く。
きっとその傍には母がいて、父の一刻も早い回復を祈っていることだろう。
両親に会うのは怖い。
けれど、何も言わずに父と別れる方が怖いと思えた。
幼い頃の夢だった店を持ち、ここ数ヶ月で少しずつだが客が増え、繁盛してきている──それを伝えられずに逝く事は許さない。
そんな思いが、薫の心を駆け巡る。
『準備してくるから待っててくれ、すぐに済む』
『……! お待ちしております!』
遠野の亜麻色の瞳から雫が一筋落ちるさまを、きっと薫は忘れないだろう。
『清さん、本っっっ当に大丈夫ですか? 仮にも金額を間違えたり忘れたり、品物を壊したりしませんよね?』
薫の中に少しの心配もありつつ、夫妻に向けて手短に教えた「開店してからやる事」を清春に確認する。
『お前は儂をなんだと思っとるんだ。あまり老いぼれを揶揄うんじゃあない』
呆れた声音で清春が言った。心なしかうんざりとした表情だ。
『まぁ……あれだ。幸子がそれとなくしてくれるから心配するな』
ぽん、と一度優しく肩を叩かれた。
薫の顔を見ずにどこか遠くを見つめているから、春清自身は何もしないのだと検討がついた。
『いや、あんた自分で任せろって言ってましたよね?』
今度は薫が呆れる番だ。
約束を守らないことが何度かあったため、春清の性格は一年である程度熟知している。
はぁ、と薫は一度溜め息を吐くと、春清の隣りに立つ幸子に向き直った。
『幸さん。……店をよろしくお願いします』
幸子に向けてぺこりと丁寧に頭を下げ、一言一句ゆっくりと言った。
『言われなくても大丈夫よ。だから、安心して行ってらっしゃい。あたし達がしっかりと貴方の留守を守りますから』
にこりと幸子が微笑み、薫の手を優しく握る。
心地よい体温と、どこか懐かしさのある手に包まれると、それまで不安に苛まれていた薫の心が一瞬で霧散した。
『はい。──行ってきます』
きゅ、と幸子に握られた分だけしっかりと握り返す。
この優しい女性と、少し不器用な優しい男の二人が待つ第二の家に帰る、と心に固く誓った。
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