妹が「いらない」と捨てた伯爵様と結婚したのに、今更返せと言われても困ります

当麻リコ

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1巻

1-3

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 不意に声がかかって、ディアンと同時に視線を向ける。その先には数人の男性がいて、いずれも身なりや容姿の整った華やかな一団だった。

「……これは、どうも」

 ぎこちなく笑顔を浮かべたディアンが短く挨拶を口にして、するりと手が離れていく。
 彼の知り合いらしい男性たちは、自信に満ちた堂々たる足取りでこちらへ近付いてきて、ディアンの隣に立つ私にまで愛想のいい笑みを向けてくれた。仕立ての良い服だけでなく、立居振舞からも爵位の高さを窺わせる。

「そちらのお嬢さんを私たちにも紹介してくれるかい」

 彼らの中でも一番身分の高いと思われる青年が、断られるなんて微塵も思っていない顔で言う。どういう力関係なのかは分からないけれど、ディアンが一瞬だけ悔しそうに顔を歪め、それから再び爽やかな笑顔に戻った。

「……こちらはユリア・ブラクストン嬢です。なんとニーア・ブラクストン嬢のお姉上なのですよ」
「へえ! このご令嬢が!?」

 彼らは目を丸くして、私の顔をマジマジと見た。ニーアはやはり有名人らしく、彼女に似ても似つかない私が面白いのだろう。

「ユリア・ブラクストンと申します。以後お見知りおきくださいませ」

 興味本位の視線が集まるが、物怖じせずに堂々と名乗ることができたことにホッとする。ディアンがリードしてくれたダンスで緊張がほぐれたおかげもあるし、何より両親の目のない場ではきちんとしゅくせずにいられるらしい。
 見知ってもらったところでまた社交の場に出られる日が来るとも思えなかったけれど、それをわざわざここで言う必要もない。それに彼らにもう会うこともないということが、緊張せずに済んでいる一因かもしれない。

「次は私と踊っていただけますか?」

 ディアンに最初に話しかけた青年が進み出る。周囲の反応を見る限り、おそらくこの中で一番身分が高い方なのだろう。

「……ええ喜んで。お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」

 少し悩んで応じる。
 それが正しい判断かは分からなかったけれど、たとえ間違っていたとしても、今は両親の元に戻りたくなかった。

「マクレガー侯爵家嫡男のアルバート・マクレガーと申します。どうぞバートとお呼びください」

 自信たっぷりに差し出された手を取ると、ちょうど次の曲が始まるところだった。

「ディアン様、最初の一曲を踊ってくださってありがとう存じます。とても楽しいひとときでした」

 ここまで連れ出してくれたディアンにお礼を言って微笑みかける。両親の目から解放された喜びが、少しでも伝わるといいのだけど。

「いえ、あの……こちらこそ、ありがとうございました」

 ディアンが何か言いたそうに手を上げかけたが、結局は寂しげな笑みを浮かべただけで、何も言わずにその手を下ろした。


「ダンスはあまり得意ではありませんか?」

 先程よりも速いテンポの曲調に、なんとかついていけているという状態を見抜いてバートが笑いながら言う。

「ええ、恥ずかしながら」

 それでもバートのリードが上手くて、ギリギリのところで不様な姿を晒さずに済んでいる。

「あまり夜会がお好きではない?」
「というより、初めてなのです。社交の場に出るのが」
「なんと!」

 恥を忍んで正直に答えると、バートが驚きの声を上げる。やはりこの歳で社交界デビューなんておかしいのだ。

「ではディアンが一歩先んじているというわけではないのですね。よかった」
「ディアン様は私がしゅくしないよう気を遣ってくださいました。優しいお方です」
「確かにあいつはいい奴ですが、あなたは男心というものをもう少し知ったほうがいい」

 私の言葉に、バートが呆れた苦笑を浮かべる。男心がどんなものかを、指摘通りまったく知らない私は首を傾げるばかりだ。

「しかしブラクストン卿も人が悪い。美しいあなたを大切にお屋敷に閉じ込めて、守っていたということか」
「大切、というわけでは……」

 曖昧な笑みで誤魔化す。買い被りにも程がある。彼らにとって大切なのはニーアだけだし、単に私を表舞台に出すのが恥ずかしかっただけにすぎない。守っているのは自分たちの体裁とニーアの嫁ぎ先に繋がる縁だけだ。

「正しいご判断だとは思いますがね。実際、私たちのようなものに見つかったら厄介でしょうから」
「あなたたちのような?」
「美しい女性に目がない」

 冗談めかしてバートがウインクをする。
 バートもダンスが上手く、また口も上手かった。社交界というところは、女性を褒めるための語彙が豊富でなくてはいけないらしい。地味で目立たない私でもこれだけ言ってもらえるのだから、ニーアなどさぞ褒め甲斐があることだろう。
 それに比べて、あの人は。
 にこりともせず不機嫌そうで、社交辞令もなく、聞きたいことだけ聞いて帰っていた。

「ふふ」

 仏頂面が脳裏に浮かび、小さく噴き出した。
 どうしてだろう。今日は彼のことをよく思い出す。

「これはこれは。見惚れてしまうほどに美しい笑顔だ」

 また別のことを考えてしまっていた私に、バートが嬉しそうな顔をした。そう言ってくれた彼こそが見惚れるような造形をしていて、そんな人からの誉め言葉はまったく現実味がなくて逆に面白くなってしまう。

「ニーアをご存知なのでしょう?」

 会場の空気に酔ったのか、少しハイな気分で問う。バートは一瞬だけ目を泳がせた。

「え? ええまあ。何度か顔を合わせたことが」
「あなたは我が家にはいらっしゃらなかったけれど。お名前は憶えておりますの」

 ニーアの元恋人さん。侯爵家嫡男で、他の貴族令息からも一目置かれている権力者で、ものすごくイケメンだと、散々私の仕事中に自慢していたっけ。多分過去一番のお気に入りだったと思う。何度も聞かされて、さすがに彼だけは名前を覚えてしまった。
 ニーアとの関係を知っているのだと匂わせると、彼は分かりやすく狼狽うろたえた。
 きっと彼は妹とあまりに違う私を揶揄からかうために、興味本位で近付いて来たのだろう。

「ニーアの代わりが務まるとは思いませんけれど、お誘いいただけて嬉しかったです」

 それでも壁の花にならずに済むありがたさに礼を言う。
 ディアンもそうだが、好奇心だろうと面白半分だろうと、私にとってのダンスの誘いとは彼らが思う以上に大事なものだった。もし誰からも誘われなかったら、両親は帰りの馬車で散々に私をこき下ろしてわらっただろうから。

「……彼女は関係ないんだけどな」
「え?」
「そう言ってもあなたは信じないのでしょうね」

 苦笑しながら、曲の終わりと同時にバートが私から手を離す。

「惜しいことをしました。最初に出会ったのがあなただったら良かったのに」
「次は俺と踊ってくださいますか」

 しんみりとした口調で言うバートの背後から、先程彼の隣にいた青年が現れて愛嬌のある笑みで右手を差し出した。
 どこか親しみの湧くその笑みにつられて微笑み返すと、彼はパッと顔を輝かせた。

「クレイ。少しは休ませて差し上げたらどうだ」

 少し不機嫌そうに言うバートに、クレイと呼ばれた青年が軽く肩をすくめてみせる。

「やだよ。彼女と踊りたい男はそこら中にいるんだ。待ってたら夜が明けちゃう」

 ともすれば軽薄に聞こえるその口調には、不思議と大切なメイドたちに通じるものがあって、少し嬉しくなる。

「私なら大丈夫です。バート様、お気遣いありがとう存じます」

 クレイの差し出した手を取りながらバートに笑いかける。彼は微かに目を細めて、それから「本当に惜しいことを」と寂しげに笑った。


 ダンスの相手は目まぐるしく変わる。時折視界に入る両親の不快げな顔も気にならなくなるくらいのペースだ。
 最初のうちは物珍しさに躍った心も、一時間もしないうちに気疲れしてしぼんでしまった。
 慣れないヒールで足も痛いし、さすがに少し休みたい。けれど社交界において見慣れない顔だからだろう、様々な年齢や身分の男性たちがこぞって挨拶に来るのに辟易してしまう。世のご令嬢たちはこのハードなやり取りを平気でこなすのかと思うと、もはや畏敬の念に近いものを抱いた。
 話しかけてくる男性は皆愛想が良く友好的だったが、どこまでが本音なのかちっとも分からない。アニーの言うチョロさとはこういうところなのだろう。打算なく話しかけてくれている人と、ブラクストン侯爵家への婿入りを狙っている人との区別がつかないのだ。あるいはニーアの心を射止めたいがためにまずは私からろうらくしようという魂胆かもしれない。むしろその可能性のほうが高そうですらある。
 彼らは私が名乗ると一様に「あのニーアの」と目を丸くした。私はあくまでもニーアのオマケでしかなく、熱心に誘ってくれるのはきっとニーアに近付きたいからなのだろう。
 行きの馬車で両親に何度も言われた。お前に寄ってくる男などみんなそうだと。近付いてくる人たちがみんなそんな企みを抱えているのだとしたらうんざりだ。
 それでもオマケ扱いしてくれるだけ、家族よりはマシなのかもしれない。
 少なくとも彼らは私を蔑むような目で見ないし、ニーアに良く言ってもらいたいからか私にも優しくしてくれる。
 それが嬉しいとは、これっぽっちも思えなかったけれど。

「おやどちらへ?」
「少し喉を潤そうかと」
「では私がドリンクを取ってきます。その後で私と踊っていただいても?」

 笑顔を作るのにも疲弊して、人のいないバルコニーに逃げようとしても、話しかけてくる男性は後を絶たない。

「ごめんなさい。少し夜風に当たりたいので」
「まだ寒いですよ。僕のコートをお貸ししますので、ご一緒しましょう」

 一人かわすとまた別の男性がにこやかに言ってきて、さすがに頭を抱えたくなってきた。こういう場に慣れた女性なら、もっと上手く回避することができるのだろうか。

「……ええと、実はとても申し上げづらいのですが」

 とっさに思いついて、少しまぶたを伏せてはにかむように言えば、男性たちがハッとした顔になった。

「それは失礼を。場所はお分かりですか?」
「ええ。ご心配いただきありがとう存じます」

 この広い建物のどこに何があるかなんてまったく知らなかったけれど、平然とした顔でうなずき、会釈と共にその場を辞する。彼は私の後を追ってはこなかった。
 その演技の有効性を確信して、声をかけられるたびに化粧室に行くふりをした。そうして一人になれる場所をあちこち探し回って、ようやく中庭に逃げ込むことに成功した時には、もはや体力は限界を迎えていた。


 外の空気はひんやりと冷たく、慣れない会話にのぼせた頬の熱がゆっくり引いていく。
 木に囲まれた石畳の道を少し歩くと噴水が見えてきて、その周りを月明かりが優しく照らしていた。水音に誘われるように近寄っていく。屋敷内の喧騒から切り離されたその一角は、絵本の挿絵のような佇まいをしていて、私の疲れた心を少しだけ癒してくれた。
 噴水のフチに腰掛けて、足を振り靴を脱ぎ捨てる。今日はヒールの高い靴だったから、ひどく足が痛かった。コロンと地面に転がったのは、妹が捨てる寸前だった靴だ。幸か不幸かサイズが一緒だから、お優しい妹様が恵んでくださったのだ。ちょっと前に飽きたとか時代遅れだとか言っていた気がするけれど、私が持っているどの靴よりもピカピカだった。
 もう何度目かも分からないため息が漏れる。
 やはり私にこういうことは向いていない。パーティーに妹ばかり出席させていた両親の判断は正しかったのだ。
 血の滲み始めた踵を見て思う。
 パーティー用の靴一つ満足に履くこともできない。ダンスも辛うじてリードについていけるだけ。所詮、私は執務室にこもって書類仕事と格闘しているほうがお似合いなのだ。
 水音を聞きながら再びため息をついて、星空を見上げる。

「綺麗だわ……」

 ひとり呟く声が虚しく響く。
 無数の星がキラキラと輝いて、それはニーアがいつも自慢してくる宝石の山なんかより余程美しい。
 だけど彼女は星空を見てもきっと、「だから何?」くらいの感想しか言わないだろう。
 想像して少し笑う。
 妹が欲しがるものは、私にとっては要らないものばかり。
 妹が要らないものは、私が欲しくても手に入らないもの。
 結局この手に掴めるものは、何一つないのかもしれない。
 虚しくなってうつむきそうになった瞬間、カツンと石畳を踏む靴音が聞こえて咄嗟とっさに身構える。

「……っと失礼、誰もいないと思ったもので」

 ガーデンライトに照らされたその人物は、落ち着いた低い声でそう言った。
 その人の顔を見て思わず目をみはる。
 ダークブラウンの髪に理知的な黒い瞳。筋の通った鼻に薄い唇。
 今日、何度も思い出しては不思議な気持ちになっていた彼。
 それは去年ニーアが捨てたと言っていた、ジェレミー・オーウェン伯爵その人だった。
 記憶と違わぬその姿に、驚いて無意識に立ち上がる。

「いえ、どうぞそのまま。こちらがこの場を去りますので」

 それを見て私が移動しようと思ったのか、彼が制止するように言った。

「あっ、いえその、休憩に来られたのですよね? どうぞ、掛けてください」

 慌てて言って、自分の隣の辺りを指し示す。
 動揺のあまり上手く喋れていないし、淑女の振る舞いではないのは自覚している。けれどどうしてだか、彼を引き留めなくてはと強く思ってしまった。
 伯爵は少し戸惑った顔をした後で、女性に恥をかかせまいと思ってくれたのか「では遠慮なく」と言って、少し距離を置いて私の隣に腰を下ろした。

「……いい夜ですね」
「は、ええ、……そうですね」


 少しの沈黙の後、気まずい空気に耐えられなかったのか、彼が静かに切り出した。その声は穏やかで優しく、私の動揺を少しだけ静めてくれた。
 相手のことを知っているのはこちらだけで、彼は私のことなど覚えていないだろう。そう気付いたら、変に緊張をしているのが馬鹿みたいだった。
 ほんの数ヵ月付き合っただけの恋人の、一度会ったきりの姉だ。覚えているはずなどない。そもそも私が覚えているのだって本当はおかしいのだ。だって妹の今までの彼氏なんて、ほとんどまともに思い出せない。それなのにどうしてこの人だけ。

「ああ」

 ふと、彼が私の足元に視線を移して小さく呟く。

「足を怪我していますね。靴擦れですか」
「あっ……はい、すみません、お見苦しいところを」

 放り出されたままの靴に気付いて顔が熱くなる。
 まるで子供のようなことをしている。それを彼に知られてしまったのだ。
 けれど彼はそんな私の動揺に気付かず、ごく自然な動作で私の前にひざまずくように屈み込んだ。

「血が出ていますね。ちょっと失礼」

 言って懐からハンカチを取り出して、ピッと半分に裂いた。

「足に触れても?」
「え、ええ、でもあのなにを」

 慌てる私の足に、できるだけ触れないように気をつけながら、彼はハンカチを丁寧に巻いてくれた。それから転がったままの靴を、私のすぐ近くに揃えて置いた。

「これで少しはマシになるかと。後できちんと消毒をしたほうがいいと思います。女性は大変ですね」
「すみません、ありがとうございます……ハンカチ、必ず新しいものをお返ししますね」
「気にしないでください。お役に立てたなら良かった」

 ふわりと笑って噴水のフチに座り直す。さっきより少し距離が近付いた気がして、緊張が増した。何か話したいのに、胸がいっぱいで上手く言葉が出てこない。それなのに聞きたいことや言いたいことが、後から後から湧いてくる。
 彼はこんなにも優しい人で、それなのに妹はなぜ彼を振ってしまったのだろうか。
 きっとひどい振り方をしたのだろう。あの子はいつもそうだ。別れる時には男性のプライドを傷つけるような言葉をわざわざ選んで、自分が格上の存在だと思い知らせてやるのだと言っていた。姉として謝ったほうがいいだろうか。
 でも、せっかく一年経って忘れられたかもしれない過去の古傷を、再びえぐってしまうことになったらどうしよう。

「妹さんはお元気ですか」

 葛藤を否定するようなタイミングで問われて、ドキリと心臓が跳ねた。
 まるで見透かされたみたいだ。
 とっさに返事ができず黙っていると、彼が苦笑してみせた。

「すみません、覚えていませんよね」
「いえ! あの、オーウェン伯爵様ですよね」

 慌てて言うと、彼は驚いたように目を瞬いた後、嬉しそうに笑った。
 散々美青年を見た後でも、やはりこの人は整った容姿をしていると思う。それに柔らかで美しい微笑みだ。あの時はこんな柔和な印象ではなかったが、落ち着いたトーンで話すのは変わっていない。
 言葉の端々に知性を感じさせる彼は、その印象に違わず領主の仕事を精力的にこなし、先代よりもさらに領地を栄えさせているらしい。
 妹と別れた後も忘れられず、噂好きのアニーの口から彼の噂を聞くたび嬉しい気持ちになっていたのはなぜか。

「そうです……よかった。忘れられていたらどうしようかと」

 はにかみながら言われて胸が高鳴る。
 そうして急激に自覚した。
 今なら分かる。彼を覚えていた理由なんて簡単だ。
 ニーアに恋人として紹介されたあの日、私は彼に恋をしていたのだ。


   ◇◇◇


 不愛想な人だな、と初めに思った。
 不機嫌なのかもしれない、とすぐに気付いた。
 妹が彼を屋敷に連れてきた時のことだ。

「ほらぁ、ジェレミー様! これが私のお姉様よ! 全然似ていないでしょう?」

 ノックもせず、はしゃいだ様子で私の執務室に入ってきたニーアが、グイグイと腕を引きながら彼を連れてきた。
 私は顔を上げることもせず、「またか」と心の中で思って小さくため息をついた。

「姉のユリアです。申し訳ないけれどご覧の通り忙しいのでお構いもできませんが、どうぞごゆっくり」

 愛想の欠片もない言い方だという自覚はある。けれど両親が溜め込んだせいでうずたかく積み上げられた書類の期限は刻一刻と迫っていたし、何よりニーアの恋人に興味がなかったせいで、笑みを作る余裕も手を止める時間もなかった。
 だいたいニーアの恋人が姉の私に会いたがるとも思えない。ニーアはただ冴えない私と自分を比べることで恋人に褒めてもらいたいだけだし、なんならついでに恋人と一緒に私を嘲笑いたいだけなのだ。そんなものにいちいち付き合っていられないし、まともに取り合ってそう何度も傷付きたくなかった。

「……ジェレミー・オーウェンと申します。執務中に大変失礼いたしました。ご無礼をお許しください」

 思いがけず丁寧な言葉が聞こえて思わず耳を疑ってしまう。ニーアが連れてくる恋人は、みな判で押したかのように軽薄で無礼な人たちばかりだったから。
 手を止めそろりと視線を上げれば、ジェレミーと名乗ったその人はむっつりと怒ったような顔で、まっすぐに私を見ていた。その理知的な黒い瞳を無言で見つめ返してしまう。
 ――ニーアの新しい恋人、よね? 今までと全然違うタイプだけど、もしかしたら恋人の従者の方とかなのかしら。それにしてはずいぶんと気品と威厳を感じるけれど。いつもの感じの恋人なら、この人と並ぶと見劣りするのではないかしら。ああでもオーウェンと名乗っていたっけ。オーウェン伯爵と言えば、このブラクストン領に隣接する形で領地を持つ領主だ。確かご両親を不慮の事故で亡くされて、若くして爵位を継いだと聞いていた。それならやっぱりこの人が。
 そんなことをつらつらと考えていると、彼はニーアに視線を移した。

「ブラクストン嬢。お邪魔のようなので私は帰ります」

 お付き合いをしているわりに他人行儀な態度に、少し違和感を覚える。付き合い始めたばかりというのは聞いていたけれど、今までの恋人は期間など関係なく人前でも平気で親密そうにしていた。
 オーウェン伯爵はそういったことを好まない人なのだろうか。それとも照れ隠しなのかもしれない。どちらにしろ、やはり何から何まで今までの人たちとはタイプが違う。

「んもぅ! ニーアでいいって言ってるのに!」

 ニーアが不満そうな顔をする。さりげなく二の腕に触るのはいかがなものかと思うけれど、彼女にとっては普通のことなのだろう。

「それに気になさらないで。お姉様はニーアとお話しながらでもお仕事できるのよ? だってサインするだけなんですもの」

 ニーアがクスクスと可愛らしく笑いながら言う。

「なのにお姉様ったらいつも大変なフリをするの」

 もちろんサインだけでいいわけもなく、文書をよく読み内容を精査し、ブラクストン領に益のあることかを総合的に判断する必要がある。けれどそんなことを説明しても、ニーアが理解する気はない。何度言っても仕事中にお喋りをしに来るのをやめてくれないから、八割ほど聞き流しながら仕事をする術を身につけただけ。そのせいで余計にニーアが私の仕事を片手間でできるものとして侮るようになってしまったのだけど。

「領主の仕事のお手伝いをされているのでしょう?」

 ため息を堪えて再び仕事に取り掛かろうとした私に、伯爵が静かに言った。

「えっ、ええ」


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