浮気されて婚約破棄したので、隣国の王子様と幸せになります

当麻リコ

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1巻

1-2

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 けれどさっきまで私を睨んでいた強い視線が弱まり、途端にリンダが目を泳がせる。

「なっ、なぜだリンダ、さっきのはこの場をとりなすための嘘だって分かっているだろう?」

 ナルシスが焦ったように言って、彼女の両肩を掴んで揺する。

「あら、どうして? ナルシスは家を継がないのだもの。跡取り同士という障害は消えたでしょう?」

 リンダの親が許すかは別の話ではあるけれど、愛する人となら立ち向かえるはずだ。なんせ傀儡くぐつの妻を仕立ててでも続けたいくらい、強い想いなのだから。

「だって私には、もう! ……っ」
「もう、なぁに?」

 言葉を詰まらせたリンダに無邪気を装って聞くと、彼女はじわじわと額に汗をかき始めた。
 不思議ね。今日は過ごしやすい気温だし、リンダはとても涼しそうな格好をしているのに。
 意地の悪い気持ちでそんなことを思う。

『ガルニエ公爵家に、隣国の末王子が婿入りするようだ』

 そんな不確定情報が出回り始めたのはつい最近のことだ。
 財政状況が傾き始めているガルニエ家は、多額の持参金つきのその縁談を大歓迎しているらしい。
 海沿いに位置するレミルトン王国は、貿易で潤った裕福な国だ。その末王子の婿入りなんて、先方はきっと目も眩むような大金を用意してくれることだろう。
 まだ噂好きの女性たちの間でしか流れていないネタだ。だけどたぶん、真実なのだろう。だって噂話と自慢話が大好きなリンダのことだ、「ここだけの話よ」とか「あなたにだけ教えるんだけど」とか言って、自ら情報をらしていた可能性が高い。

「……っぅぐ、なんでもないわ」

 ぷいっと顔を背けて吐き捨てるように言う。さすがにそのことを口にすれば不利になると気づいたのだろう。
 婚約の話が表に出ていなければ、リンダ側は独身時代のちょっとした火遊びで済む。相手が国外の人間であれば、うまく隠せると思っているのかもしれない。リンダの表情には、そんな打算が見え隠れしていた。

「リンダ嬢、あなたも覚悟召されよ」

 逃げを許さないとばかりに、クレジオ公が冷たく言う。
 リンダが怯えた顔をしつつも、真意を測りかねたように眉根を寄せた。
 婚約相手がいるからナルシスとは結婚できないとか、ぬるいことを言っていられる状況じゃないということに気づいていないのだろうか。他人事ながら呆れてしまう。
 私の望み通り婚約破棄に至った原因を明らかにするということはつまり、リンダの行動もすべて白日はくじつの下にさらされるということなのに。
 突然浮気を暴かれた混乱で、そこまで頭が回っていないらしい。
 婚約の話が立ち消えになるだけで済めば上等だ。だけどおそらく、慰謝料の問題や国家間のめ事に発展する可能性が高い。そうなれば彼女の跡継ぎとしての立場も危ういものになるだろう。
 ああ、でも全てを理解した上で、それでもナルシスとの愛を望んでいるのかもしれないけれど。
 ならばあえて私が教えてあげる必要はないか。

「良かったですわね。これからはコソコソ会う必要がなくなるのだもの」

 これから複雑な立場に立たされるであろう二人の未来には気づかないフリをして、薄く笑みを浮かべながら言う。

「どうぞ私のことなどお気になさらず、お幸せに」

 そう言ってクレジオ公を促し、ナルシスの部屋を出る。
 閉じたドアの向こう。
 悲鳴みた罵倒ばとう応酬おうしゅうが聞こえ始めたのは、すぐのことだった。




   第一章 酒は飲んでも飲まれるな


 大きなバスケットの中に詰められるだけ詰めて、屋敷の裏口へ向かう。外はとても良い天気で、うららかな日差しに自然と足取りが軽くなった。

「あら、お嬢様。裏庭に行かれるのですか?」
「あっ、ええ、そうなの……」

 スキップを始める寸前でメイドに呼び止められ、慌てて俯く。
 彼女は心配そうな顔をしている。つい先日婚約破棄になったばかりだ。私がすっかり塞ぎ込んでいると思っているのだろう。

「お供いたします。モップを置いて参りますので、少しお待ちくださいますか?」
「いえ、その、実は一人になりたくて……」

 彼女にとっては、たった二週間前に婚約者に裏切られて傷付いた可哀想なお嬢様だ。悲しげな顔をすると、沈痛な面持ちで「出過ぎた真似をお許しください」と頭を下げてくれた。
 古株はともかく、ここ数年で雇った使用人たちは私の本性を知らないのだ。慰めを必要としていると考え、気遣ってくれたに違いない。

「いいの、気にしないで」

 健気けなげに明るく振る舞うフリをしつつ、本気の明るい声で言う。
 主人やその家族と程良い距離を保ってくれる優秀なメイドだ、変に気に病まないでほしい。後で父に彼女の献身ぶりを伝えておこうと思う。心配してくれたことに礼を言って再び歩き出す。
 早く裏庭に行きたかった。
 一人になりたいのは本当だ。


 植物の生い茂る中にぽつんとあるガゼボに辿たどり着く。
 屋敷をぐるりと取り囲むように造られた庭園には、計三ヶ所のガゼボがある。その中でも私はここが一番好きだった。
 他よりも花をつける植物が少ないこの場所は家族から不人気で、老いた庭師以外あまり人が来ないのだ。

「……っはぁ~落ち着くわ」

 ベンチに座り、テーブルにバスケットを置いて思い切り伸びをする。空をあおいで、しばしぼんやりした後、バスケットに被せていたテーブルクロスを敷いて、中身を次々に並べていく。

「よし、と。これくらいでいいかしら」

 ぱんと手を合わせ、それから最後に取り出したワインボトルからコルクの栓を抜いた。

「乾杯」

 一人で気取ったように言って、ワインを注いだばかりのグラスをカチンとボトルに当てる。

「……っふ、くふふ」

 堪えても、笑い声が後から後からこぼれてくる。早速一口目を飲んで、すがすがしい気持ちで再び青空を見上げた。
 ナルシスとの婚約破棄が成立して二週間。
 社交界の同情は見事に私に集まっている。
 真面目で優秀なミシェル・ペルグラン。跡取りとして能力の足りないナルシスを補うために、一生懸命だった彼女を裏切るなんて。晩餐会やダンスパーティーを始め、貴族の集まりではそんな話題で持ち切りらしい。
 公開プロポーズの弊害とでも言おうか。もともと注目の的だった私たちの婚約の結末は、あっという間に広がってしまった。しかもセンセーショナルな詳細付きだから尚更だ。なんと、クレジオ公は私との口約束をきちんと守ってくれたらしい。
 おかげでナルシスの秘められた嗜好しこうは、白日はくじつの下にさらされてしまった。
 それだけではない。手続きや引き継ぎの関係でまだのようだが、ナルシスの廃嫡はもはや時間の問題とされている。クレジオ公はナルシスを助ける気はないようだ。
 家督相続権を弟に譲る手続きを、ナルシス自らの手でやらせていると聞いた。劣等感を抱いて毛嫌いしていた優秀な弟に譲る手続きなんて、さぞ屈辱的だろう。しかも自分の仕事のほとんどを私に押し付けていたから、かなり苦労するはずだ。
 一応関わっていた者の責任として手伝いを申し出たけれど、さすがにそこまで甘えられないとクレジオ公は断った。ナルシスに会わせるなんて酷なことはできないし、責任と言うならあいつにこそ取らせねばならないと厳しい表情で彼は言った。
 現在ナルシスはロクに出歩くこともできず、自室にほぼ軟禁状態らしい。
 私が望む以上の対処をしてもらえて、言うことナシだ。
 そこにさらに嬉しいことが重なった。
 なんと、リンダの婚約も破談になりそうなのだという。
 やはり隣国の王子との婚約は事実だったらしい。多額の持参金をいただくどころか、賠償請求される羽目になるとか。
 慰謝料請求ではなく、賠償請求だ。
 どうやら婚約を機にガルニエ領として隣国との貿易関連の契約もしていたらしく、それら全てがふいになってしまった。もはやガルニエ家のお家騒動という話では収まらない。このままでは国際問題にも発展しかねないため、この国のトップであるマーディエフ大公家から最大限穏便に済ませるために全力を尽くせと厳しいお達しが出ているとか。ガルニエ公爵家は今、洒落しゃれにならないほどの修羅場らしい。
 だから今日は、その祝杯をあげるために一人でここに来たのだ。
 さすがにここまで大事おおごとになることを望んでいたわけではなかったけれど、正直ざまぁみろという気持ちも大きかった。私の人生を丸ごと犠牲にしようとしていた二人が、今まで通り明るい日の下を歩くのを許せるほど私の器は大きくない。
 だけどそれを人に見せるほど愚かでもないつもりだ。そんなことをすれば、あっという間に私への同情はなくなるだろう。
 根っからの淑女にというのは無理でも、家の外だけでいいからしとやかに振る舞えと諭してくれた父に感謝だ。おかげで誰も彼もがナルシスとリンダを責め、私を慰め励ましてくれる。
 とはいえ、社交界ではスキャンダルはご法度はっとだ。いくら同情を集めたところで、結婚目前で婚約破棄された傷物であるという事実はくつがえらない。そんな令嬢をわざわざ妻に迎えようなんて酔狂な貴族はそういない。
 家族の心配もひしひしと感じているし、早く気持ちを切り替えて社交界に復帰しなくてはという気持ちもなくはないのだけど。

「悲しい顔でいれば無理に次の相手を探せと言われないし、淑女のフリをするのももう疲れてしまったのよね」

 ため息交じりに一人ボヤく。
 正直、結婚はもうこりごりだ。いくら淑女のフリをしたって、偽物ではどうせまた愛されずに利用されるだけ。そんな人生はごめんだった。
 ならば、好きに生きようと思う。
 父には悪いけれど、猫を被ったままどこかに嫁ぐより、行かず後家として領内の仕事を手伝って心穏やかに生きる方がずっとマシに思える。
 ああそうだ、結婚というかせがなくなったのだから、ずっと憧れていた国外に出てみるのもいいかもしれない。
 だから、あんな男のことはさっさと忘れて人生を謳歌しよう。
 そう、ナルシスなんか。
 グラスの残りをぐいっと飲み干す。
 顔が真上を向いた途端、つうっと涙が頬を伝った。

「……っ、ふ、……っぅ」

 嗚咽おえつと共に、胸に苦いものが広がっていく。

「ナルシスのばかっ……!」

 コン、と空になったグラスを乱暴にテーブルに置く。
 正面を向いた途端、大粒の涙が後から後からこぼれ落ちていった。
 清々した気持ちは確かにある。だけどそれ以上に今は悲しみが胸を塞いでいた。
 突然のプロポーズには困惑したけれど、嬉しかった。学園の人気者が、私を見初みそめてくれるなんて。きっと彼は本当の私を見つけ出してくれたんだ。そう思った。
 だから彼を愛そうと決めた。
 一生尽くそうと思った。
 あの場での選択肢を断たれていたとはいえ、決めたのは自分だ。
 彼の手を取った瞬間、猫を被ったままでいようと、ペルグラン家とクレジオ家の橋渡し役として両家を守り立てようと誓った。
 なのに、あんなことになるなんて。
 あの場で怒鳴り散らしてやれば良かった。あんたなんて最低と言って、頬をぱたければどれだけスッキリしただろう。
 だけどナルシスがあんな間抜けな格好をしていたせいで、その機会は永遠に失われてしまった。不発に終わった怒りはくすぶり続け、今もモヤモヤを抱えたままだ。
 そのさを晴らすために、一人ワインとつまみを持ってここに来た。祝杯なんてただの口実だ。
 再びグラスにワインを注ぐ。
 一気に飲み干して、もう一杯。
 飲み下すごとにワインは涙になって、ぼたぼたとこぼれ落ちていく。もうなんの涙なのかも分からない。怒りなのか悲しみなのか、それとも悔しさなのか。
 灰色のテーブルクロスには黒々とした染みが広がっていく。それは私の中にまった感情が出ていく様のように見えた。涙と共に、裏切られた怒りとやり返してやった満足感がみるみるしぼんでいく。
 気が強いからといって、傷つかないわけではない。あんなシーンを見せつけられて、見下されていたことを知って、平気でいられるほどタフではないのだ。
 あっという間に半分近くまで減ったワインボトルを持ち上げる。
 味なんてほとんど感じない。もったいない飲み方をしている。自分でも分かっていた。こんなお酒、本当はちっとも楽しくない。

「グスッ……?」

 鼻をすすって、ヤケクソな気持ちで再びワインを注ごうとした時、何かの気配を感じて反射的に振り返る。
 そこには、驚いた顔で立ち尽くす見知らぬ青年がいた。

「……どなた?」

 わずかに警戒しながら問いかけると、彼は一瞬天をあおいで目をつむった。

「……申し訳ない、少し庭を見せてもらっていたんだが」

 それから彼は、意を決したように気まずそうな顔で進み出た。

「ミシェル嬢とお見受けする」
「ええ、そうよ」

 口調からすると、どうやら泥棒や悪漢の類ではないらしい。
 少しホッとして姿勢を正す。

「なんというか……タイミングが悪かったようで……」
「気になさらないで」

 答えながら彼の全身に素早く視線を巡らせる。
 年の頃は私より三つか四つ上だろうか。私をこの屋敷の娘と判断した上での言葉遣いを見るに、彼もどこかの公爵家の人間かもしれない。
 我がマーディエフ大公国は、小国が寄り集まってできた国だ。それをまとめあげた筆頭国の首領を大公とし、それ以外の国の首領が公爵の位を授かったため、公爵家が二十近くある。
 各当主とその配偶者、それに嫡子の顔と名前は把握しているけれど、さすがに次子以下は知らない家も多い。
 それに父の顔が広いおかげか、この屋敷にはしょっちゅういろんな貴族が出入りしている。もしかしたら公爵家ではないけれど、それに比肩する財力や権力を持つ家の誰かかもしれない。
 ただ、うちより爵位が高い家なんて大公家しかないから、どう転んでも私より地位が上ということはないはずだ。大公家の人間なら全員記憶している。

「その、ハンカチをお貸ししようか」

 じっと観察する私に、青年が言う。まずい場面に居合わせてしまったというのが表情にありありと浮かんでいる。
 それでも取り出したハンカチを、躊躇ちゅうちょなく私に差し出した。今も垂れ流しの涙を拭えというのだろう。

「ありがとう」

 ありがたく受け取って、若干呂律ろれつの回らなくなった口で礼を言う。
 それから遠慮なく涙でグシャグシャの顔を拭きながら思う。
 鼻水もついてしまったというのに、嫌な顔ひとつしない。
 たぶんこの人、いい人だ。

「……父に御用かしら」

 困った顔のまま立ち去ることもできず、私の目の前に立つ青年を見上げて問う。

「ああ。もう用件は済んだのだけど。許可をいただいて、見事な庭を見ているうちに迷い込んでしまって」
「そう。この後のご予定は?」
「うん? 今日はもう特には。せっかくだから街へ出て色々見て回ろうかと」

 良かった、約束事はないようだ。
 ならばこの善人に、図々しいお願いをしようと思う。

「つまり暇なのね?」
「……いや、だから暇というわけでは」

 決めつけるような言葉に彼が苦笑する。
 面倒な酔っ払いに絡まれて可哀想に。どこか他人事のように思う。適当に話を切り上げて逃げたって問題ないのに、まともに相手をしてくれるなんて。
 やっぱりこの人、絶対いい人だ。

「ハンカチのお礼をしたいわ。あなたも飲んでおいきなさい」
「ええ!?」

 酔っぱらって判断力の低下した頭で、不躾ぶしつけなことを言う。
 シラフなら絶対にやらない。猫を被るまでもなく、非常識な振る舞いだ。けれど今はとにかく酔っていて、しかも憂さ晴らしをしたいのに愚痴ぐちる相手もいない。
 だいたい、泣きながら一人寂しく酒盛りしているところを見られているのだ。いまさら常識人ぶったって手遅れだ。

「ええと……しかしその……」

 青年は明らかに戸惑った顔で周囲を見回した。
 だけど、生憎あいにくここには滅多に人が来ない。大声で助けを求めたって無駄だ。

「とりあえず、お掛けになったら?」

 悪人のようなことを思いながら、正面のベンチを笑顔で勧める。

「だが、それは……そうだ、俺の分のグラスもないし」

 逃げ道を見つけたという顔で青年が言う。
 だから私が使っていたグラスを持ち上げて、ドポドポと勢いよくワインを注いだ。

「どうぞ、こちらをお使いになって?」

 にこりと笑いながら言うと、有無を言わさぬ圧に負けたのか、青年がぎこちなくグラスを受け取った。

「けど、今度は君の分が」
「私のグラスはここにありますわ」

 偽者の淑女の笑みを浮かべ、右手に持ったままのものを掲げてみせる。
 万事休すとばかりに青年は片手で目を覆った。

「それはワインボトルと言うのだよ……」

 青年は力なく言って、これ以上は無駄だと悟ってくれたのか、ため息を吐いて私の正面に腰を下ろした。

「乾杯」
「……乾杯」


 グラスとボトルを合わせて仕切り直す。完全に巻き込まれた形なのに、ちゃんと付き合ってくれるらしい。
 やはりいい人だ。
 たまたま迷い込んでしまったばかりに災難ね。他人事のように同情しつつ、ボトルの注ぎ口に唇をつけた。

「結構いけるクチなんだね」
「そうかしら」

 グビグビとワインを飲む私に、彼が感心したように言った。
 お酒は好きだ。楽しい気持ちになれるから。
 人前では滅多に飲まないようにしているけれど、十六で飲酒が解禁されて以来、家で父と飲む時のペースはずっとこんな感じだ。お酒好きの父の血を色濃く継いでいるのか、どうやら人より強い方らしい。

「もしかしてお酒嫌いだった?」
「いや、そんなことはない」

 まだ口をつけていないグラスを見てそう言うと、彼は苦笑しながらグラスを鼻先に近付けた。

「……いいワインだ」

 そう言って、彼は少し口に含んでからゆっくり味わうように飲み下した。

「それ、父の秘蔵ワインなの」
「んぐっ」

 私の言葉に、青年が噴き出しそうになる。

「ちょっと失礼」

 それからグラスを置いて、慌てたように私の手からワインボトルをむしり取った。巻いてある白い布を取り去り、ラベルを確認してかすかに青褪あおざめる。

「……庶民の収入一年分」
「あら大袈裟よ」

 笑いながら言ってボトルを取り返す。ついでにもう一口飲んでから彼を見ると、呆れた顔をしていた。

「勝手に持ち出したの?」
「鍵はかかっていなかったわ」

 あえてズラして答える。
 だけど、すぐに察したようだ。

「お父上に叱られるのでは」
「いいのよ。おめでたい日用だって言ってたし」
「……君にとって今日はめでたい日ということ?」
「ええ、そう。とてもね」

 澄ました顔でチーズを取る。やはりワインにはチーズがよく合う。

「ペルグラン公爵家の令嬢は傷心中って聞いたんだけど……」

 疑わしげな顔で私の頬の辺りを見る。涙のあとでも確認しているのだろうか。だけど残念ながら、彼のハンカチのおかげですっかり乾いてしまっている。

「妹のことかしら? 社交界デビューのダンスでトチったって泣いていたわね、そういえば」

 可哀想に、とため息交じりに言ってチーズをかじる。
 私と違って繊細な妹だ。後で個人レッスンに付き合ってあげよう。

「まあ、君がいいならいいけどさ」

 諦めたように言って、彼もグラスに口をつける。ワインの出処はもう気にしないことにしたらしい。空になったグラスにワインを注ぐ。

「口をつけてしまったもので申し訳ないけれど」
「そんな細かいことを気にしていたら、この酒は飲めないだろ」
「それもそうね」

 私が笑うと、彼も笑った。
 ようやく苦笑ではなく、ちゃんと楽しそうな笑みだ。

「じゃあええと、おめでとう、でいいのかな?」

 彼がグラスを掲げる。
 もう一度きちんと乾杯をしようというのだろう。

「ありがとう。この良き日に」
「良き日に」

 再びグラスとボトルを合わせて、互いにワインを飲む。
 ああ、楽しい。
 細かいことをグダグダ言い続けないあたり、好感度抜群だ。
 それから、ふと気になったことを口にした。

「ところであなた、お名前は?」

 今更なことに気がついて聞いてみる。
 彼も自分が名乗っていないことに気づいたのか「そういえばそうだな」と呟いた。

「ヴィンセントだ。呼び捨てでいい」
「そう。じゃあ遠慮なく。私もミシェルでいいわ」

 家名を名乗る気はないらしい。


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