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「えっとじゃあまず、その、服、着替え、あ、その前に、お風呂、お風呂にしましょう」

なんとか立ち直ってかろうじて提案してみる。
この世界のことを何一つ知らないのだ、まずは私が生活基盤を整えてあげなくてはならない。
なにそれ超楽しい。

「風呂とは人族のする湯浴みの習慣のことか」
「そうです、あっ、もしかして必要ないですか⁉」

そういえばあの世界、魔法で結構なんでも出来てしまうのだ。
お風呂なんて魔王様には無用の存在かもしれない。

「いや……今までは確かに魔法頼りだったがこの世界ではそうもいくまいな。なにせ魔力の存在が希薄だ」
「濃度が薄いと仰っていましたね」
「ああ。この部屋だけではないのだろう?」
「だと思います。この世界には魔法自体が存在しないので」
「濃度が薄すぎて魔法技術そのものが発展しなかったのだな」

確かにエネルギー源がないのなら、それを使った技術は発展出来ないだろう。

「洗浄の魔力消費量は微々たるものだがな。大気中から魔力を生成するのは難しい。今体内に蓄積している魔力を使えば出来ないこともないが、減った分を今後新たに蓄えることも難しそうだ」

少量ずつでも回復せずに減り続ければいずれ枯渇するだろう。
今後どんなことが起こるかもわからないのに、清潔を保つためだけに魔力を削り続けるのは得策ではない。

「すまないが風呂とやらの使い方を教えてもらえるか」
「もちろんです!」

風呂の習慣がなかったのなら使い方が解らないのも当然だ。
知っていたとしてもあの世界とこの世界ではだいぶ違うだろうし、最初から説明する気は満々だったのだけど、殊勝にお願いする魔王様に俄然テンションが上がる。

「どうぞこちらへ」

先行して案内しようにも狭い家だ、大した距離もない。
すぐ後ろをついてくる気配にひどく緊張しながら脱衣所に辿り着いた。

「この籠に脱いだものを入れてください。ここを押すとドアが開きます。それでここを捻ればお湯が出てきます。熱かったらここで温度を調節してください」
「なるほど。上の印で温度が上がるのだな」
「そうです。それから髪を洗うのはこれで、身体を洗うのがこっちです。あのタオルを使ってください。顔はあれです」
「部位によって違うのか。人間は面倒なのだな」

基礎中の基礎の使い方を説明していく。
浴室内に声が反響して、変にドギマギしている私は変態だろうか。
ちゃんと毎日お風呂掃除をしていて良かった。

一通り使い方を教えて、そのたび感心したような反応にほっこりしながら浴室を出る。

「今日はシャワーだけですが、明日以降はちゃんと湯船にお湯溜めておきますね」

もちろん浴槽も狭いのだけど、少しは身体の疲れも癒せるはずだ。
魔王様には出来る限りくつろいでほしい。

「で、タオルはここに置いておきます、ので、」

それから一番新しいバスタオルを出して、ハタと気付く。
着替えがない。

当たり前すぎることに今更気付いて俄かに焦り始める。

「……っとあの、こんな感じで、その、ゆっくり温まってきてくださいね!」
「ああ、助かる」

その言葉と共に脱衣所を退散する。

今から男性用の寝間着を買いに行く余裕はない。
だけど準備がないと言えば風呂を遠慮してしまうだろうし、それどころか汚れた服のままでは迷惑をかけるとか言って出て行かれたら困る。
魔族を統べる王たる彼は、支配者にあるまじき気遣い屋さんなのだ。

大急ぎでクローゼットに噛り付く。
奥をひっくり返す勢いで何かないかと探すと、新品に近い男物のスウェットの上下が出てきた。
確か新卒時代に付き合っていた元カレが残していったものだ。

私が仕事というか丁度魔王様に夢中になり始めた時期だった。
三次元への情熱が疎かになっていたせいであっさりフラれたのはいい思い出だ。
忙しさにかまけてフラれたけれど、忙しさにかまけて私物を捨てないままにしていて助かった。
古着は分別が面倒なのだ。

防虫剤臭さに顔を顰めながら、それでもないよりはマシと思ってそれに決めた。
さらにシャワー音が聞こえ始めるのを待って財布を握り締める。

さすがに男物の下着はない。
幸いなことに家賃の安さで決めたこのアパートは、一階がコンビニになっている。
玄関から飛び出て猛スピードで六階から階段を駆け下りる。
このアパートにはエレベーターなんてハイテクなものはついていない。
なんせ安いから。

荒い呼吸でコンビニに飛び込んで、それから下着コーナーの前に陣取る。
もちろんコンビニなので種類は少ない。
少ないけれど、それは迷わないということとは別だ。

シャツは一種類のみだったのですぐに決まった。

パンツの柄もたった二種。
二種なのに私は真剣に五分以上悩んだ。

黒無地ボクサーと水玉トランクス。

魔王様のビジュアルと彼本人の服装に沿った好みから選ぶと、黒無地一択だろう。
信者を自称するならそれを買うべきだ。

だけど果たしてそれでいいのか?

内なる声が問いかける。

今後うちでしばらく暮らしてくれるとしたら、魔王様自らの意思でパンツを買い足すこともあるだろう。そうなった時に選ぶのもきっと黒無地だ。
ということはここで私が黒無地ボクサーを買ってしまったら、意外性とギャップを存分に味わえる水玉トランクスを穿く唯一無二のチャンスをふいにするのではないだろうか。

自問自答に決着が着いて、ガシッと水玉トランクスを掴む。
レジへと向かう私はきっと歴戦の戦士の顔をしていただろう。

男物の下着に、顔馴染みの店員がチラッと私の顔を見る。
照れや後ろめたさとは無縁だった。
ただただこれを着用した魔王様の妄想に悶々としていた。

もちろん着用後の姿を見ることは一切できないことを知っていながら、だ。
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