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#4 内科医VS外科医
#5
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あと一時間もすれば昼休憩だったことで、指導医の指示のもと、そのまま窪塚と一緒に医局に戻ることになったのだが。
他に誰もいなかったこともあり、医局のPCに向かい黙々と、各所からあがってきていた検査結果や入院患者の経過などなどの電子カルテへの入力作業に没頭するフリを装うのが関の山だった。
内心では、さっきのことをどうやって取り繕うべきか。どう言ったら不自然じゃないだろうか。
否待てよ。もしかしたら、本当に体調が悪いだけだと思っているのかもしれないし。
ーーさて、どうしたものか……。
頭の中はそんなことで埋め尽くされてしまっていて、他のことに気を配るような気持ちの余裕など微塵も持ち合わせちゃいなかった。
そんなことをやっている私の元に、乱雑になっていた書類の整理を終えたらしい窪塚が背後から歩み寄ってくる気配がして、緊張感は一気に高まった。
――何を言われるんだろうか。やっぱりさっきのことだよね?
今から死刑宣告を言い渡されようとしている死刑囚にでもなったようで、生きた心地がしない。
そんな私の眼前に位置するデスクの上には、
『ほら、一息つけよ』
ぶっきらぼうにそう言ってきた窪塚がたった今置いたミルクティーのペットボトルが鎮座している。
死刑宣告がミルクティーに取って代わったもんだから、目をパチクリさせるしかなかった。
しかもそのミルクティーというのが、その頃私が嵌まってて、出勤する時いつも買ってきていたものだ。
それを分かった上でかどうかは、定かじゃないが……。
おそらくは、さっきのことで気落ちしてしまっている私のことを見るに見かねて、窪塚は窪塚なりに元気づけようとしてくれていたのだろう。
でも、その時の私には、先述のように、そんなことを汲み取るような心のゆとりなどなかった。
それほどに、私にとっては、外科医になるということが重要な意味を持つことだったのだ。
虚を突かれた私が吃驚して窪塚の方を見やれば、気まずげに首の後ろに手を当てて斜め向かいのデスクに向かう窪塚の後ろ姿が視界に飛び込んでくる。
それと同時に、窪塚の声が耳に流れ込んできた。
『別に、そこまで無理して外科医に拘んなくてもいいんじゃないか? お前にはお前の良さがあるんだし。実はさ、俺の兄貴ーー』
『なによ? 急に。外科医になりたくてもなれない可哀想な私に同情して、慰めてるつもり? アンタに私の何が分かんのよッ?! アンタのそういうとこスッゴイ腹立つッ!』
今まさに斜め向かいのデスクで私と同じように腰を落ち着け、PCに向かおうとしている窪塚の声をぶった斬るようにして、ケンカ腰で食ってかかってしまっていた。
一応、さっきの件については医局に戻る途中でちゃんとお礼だって伝えてあったけれど。
これまでは周囲に同僚の誰かしらが居て、こんな風に窪塚とふたりきりになったことなどなかったこともあり、それきり押し黙ったままだった。
でも本当は、ふたりきりだという気まずさよりも、窪塚に『外科医なんて向いてないからやめておいたほうがいい』そう言い渡されてしまうのがなにより怖かったのだ。
確かに、窪塚が言おうとしていたように、人には誰だって向き不向きがあると思う。
私だって、そんなことくらい分かってはいる。
頭では分かってはいるけど、誰にだって譲れないことがある。
本当は、研修医になる前から、外科医になるのは無理だろうことは分かってはいた。
それでも、それを他の誰かに言い渡されるのは嫌だったのだ。
とことん頑張って、それでも駄目ならキッパリと諦めるつもりだった。
それを、よりにもよって窪塚なんかに無様な姿を見られ助けてもらった挙げ句に、同情までされてしまうことになるなんて。
それでなくとも、窪塚と一緒に研修を受けてるだけでも、指導医や上級医たちからも、何かあるごとに、なんでもそつなく熟してしまう窪塚と比較されて、日頃からそういうモノが蓄積されていたっていうのもあった。
今にして思えば、窪塚にしたら、いい迷惑だったに違いない。
自分ができないのを棚に上げて、なんでも完璧にやってのける窪塚のことをただ単に妬んでいただけなんだから。
そんな身勝手な想いから、いつもポーカーフェイスを決め込んでいるいけ好かない窪塚に、これ以上何かを言い渡されてしまう前に、私の放った言葉に驚いて固まってしまっている窪塚に対しての牽制でもあった。
これは私の問題だ。もうこれ以上、この件に関して口を挟むことは許さない。アンタには関係ないことなんだから、首を突っ込んでくるな、っていう。
それから、これも言い訳になってしまうが……。
それまでも、窪塚とは、同じ医大の同期といっても、授業の際にグループ分けされた中にたまたま居合わせただけってだけで、それほど親しい訳でもなかった。
勿論、何度か話したりしたことはあるにはあったが、藤堂の話が出た折りにも説明した通り、元々窪塚が特定の誰かと深く関わるようなタイプではなかったからだ。
それなのに、一番触れて欲しくない時に限って、珍しく踏み込んでこられたもんだから、余計に腹が立った。というのもあったかもしれない。
『……どうせ、血が苦手なのに外科医になりたいなんて、バカだとでも思ってるんでしょ?』
『い、否、俺は別にそんなつもりで――』
『もうやめて。アンタの意見なんて聞きたくないッ! もう二度と話しかけてこないでッ!」
今思えば、完全な八つ当たりだ。
それからだ。窪塚と距離を置くようになったのは。
否、正確には、冷静になってから、酷いことを言ってしまったという罪悪感に苛まれ、顔を合わせづらくなって避けるようになったのだ。
あの時、窪塚は何を言おうとしていたんだろう?
あの時、窪塚はどんな表情をしてたんだっけ?
何度思い返そうとしても、自分のことで精一杯だったせいか、その時の記憶はとても曖昧だ。
けれども、これだけは断言できる。
窪塚の優しい気遣いに対して、いくら心に余裕がなかったとはいえ、あんな酷い仕打ちをした私のことを窪塚が好きになるはずがない――。
自分のことを窪塚が好きなんじゃないかという可笑しな仮説が浮上してきて、あの時のことを思い出すたびに、私は幾度となくそうやって結論づけていた。
✧✦✧
「あっ、晴れてきた。久々のデートなのに降ったら嫌だなぁって憂鬱だったんだよねぇ」
「ホントだ。やったじゃん」
「ヤッパ日頃の行い?」
「だったら土砂降りなんじゃない?」
「なにそれ、ヒッドー!」
「冗談だってば」
彩の弾んだ声で、つい先ほどまで分厚い雲に覆われてた空を見上げてみれば、雲の隙間からちらほらと薄日が射していた。
ーーさてと、もうひと頑張りしますか。
余計なことに気を取られないためにも、真っ直ぐに前だけを見据え、しっかりと踏みしめるようにして一歩を踏み出した。
他に誰もいなかったこともあり、医局のPCに向かい黙々と、各所からあがってきていた検査結果や入院患者の経過などなどの電子カルテへの入力作業に没頭するフリを装うのが関の山だった。
内心では、さっきのことをどうやって取り繕うべきか。どう言ったら不自然じゃないだろうか。
否待てよ。もしかしたら、本当に体調が悪いだけだと思っているのかもしれないし。
ーーさて、どうしたものか……。
頭の中はそんなことで埋め尽くされてしまっていて、他のことに気を配るような気持ちの余裕など微塵も持ち合わせちゃいなかった。
そんなことをやっている私の元に、乱雑になっていた書類の整理を終えたらしい窪塚が背後から歩み寄ってくる気配がして、緊張感は一気に高まった。
――何を言われるんだろうか。やっぱりさっきのことだよね?
今から死刑宣告を言い渡されようとしている死刑囚にでもなったようで、生きた心地がしない。
そんな私の眼前に位置するデスクの上には、
『ほら、一息つけよ』
ぶっきらぼうにそう言ってきた窪塚がたった今置いたミルクティーのペットボトルが鎮座している。
死刑宣告がミルクティーに取って代わったもんだから、目をパチクリさせるしかなかった。
しかもそのミルクティーというのが、その頃私が嵌まってて、出勤する時いつも買ってきていたものだ。
それを分かった上でかどうかは、定かじゃないが……。
おそらくは、さっきのことで気落ちしてしまっている私のことを見るに見かねて、窪塚は窪塚なりに元気づけようとしてくれていたのだろう。
でも、その時の私には、先述のように、そんなことを汲み取るような心のゆとりなどなかった。
それほどに、私にとっては、外科医になるということが重要な意味を持つことだったのだ。
虚を突かれた私が吃驚して窪塚の方を見やれば、気まずげに首の後ろに手を当てて斜め向かいのデスクに向かう窪塚の後ろ姿が視界に飛び込んでくる。
それと同時に、窪塚の声が耳に流れ込んできた。
『別に、そこまで無理して外科医に拘んなくてもいいんじゃないか? お前にはお前の良さがあるんだし。実はさ、俺の兄貴ーー』
『なによ? 急に。外科医になりたくてもなれない可哀想な私に同情して、慰めてるつもり? アンタに私の何が分かんのよッ?! アンタのそういうとこスッゴイ腹立つッ!』
今まさに斜め向かいのデスクで私と同じように腰を落ち着け、PCに向かおうとしている窪塚の声をぶった斬るようにして、ケンカ腰で食ってかかってしまっていた。
一応、さっきの件については医局に戻る途中でちゃんとお礼だって伝えてあったけれど。
これまでは周囲に同僚の誰かしらが居て、こんな風に窪塚とふたりきりになったことなどなかったこともあり、それきり押し黙ったままだった。
でも本当は、ふたりきりだという気まずさよりも、窪塚に『外科医なんて向いてないからやめておいたほうがいい』そう言い渡されてしまうのがなにより怖かったのだ。
確かに、窪塚が言おうとしていたように、人には誰だって向き不向きがあると思う。
私だって、そんなことくらい分かってはいる。
頭では分かってはいるけど、誰にだって譲れないことがある。
本当は、研修医になる前から、外科医になるのは無理だろうことは分かってはいた。
それでも、それを他の誰かに言い渡されるのは嫌だったのだ。
とことん頑張って、それでも駄目ならキッパリと諦めるつもりだった。
それを、よりにもよって窪塚なんかに無様な姿を見られ助けてもらった挙げ句に、同情までされてしまうことになるなんて。
それでなくとも、窪塚と一緒に研修を受けてるだけでも、指導医や上級医たちからも、何かあるごとに、なんでもそつなく熟してしまう窪塚と比較されて、日頃からそういうモノが蓄積されていたっていうのもあった。
今にして思えば、窪塚にしたら、いい迷惑だったに違いない。
自分ができないのを棚に上げて、なんでも完璧にやってのける窪塚のことをただ単に妬んでいただけなんだから。
そんな身勝手な想いから、いつもポーカーフェイスを決め込んでいるいけ好かない窪塚に、これ以上何かを言い渡されてしまう前に、私の放った言葉に驚いて固まってしまっている窪塚に対しての牽制でもあった。
これは私の問題だ。もうこれ以上、この件に関して口を挟むことは許さない。アンタには関係ないことなんだから、首を突っ込んでくるな、っていう。
それから、これも言い訳になってしまうが……。
それまでも、窪塚とは、同じ医大の同期といっても、授業の際にグループ分けされた中にたまたま居合わせただけってだけで、それほど親しい訳でもなかった。
勿論、何度か話したりしたことはあるにはあったが、藤堂の話が出た折りにも説明した通り、元々窪塚が特定の誰かと深く関わるようなタイプではなかったからだ。
それなのに、一番触れて欲しくない時に限って、珍しく踏み込んでこられたもんだから、余計に腹が立った。というのもあったかもしれない。
『……どうせ、血が苦手なのに外科医になりたいなんて、バカだとでも思ってるんでしょ?』
『い、否、俺は別にそんなつもりで――』
『もうやめて。アンタの意見なんて聞きたくないッ! もう二度と話しかけてこないでッ!」
今思えば、完全な八つ当たりだ。
それからだ。窪塚と距離を置くようになったのは。
否、正確には、冷静になってから、酷いことを言ってしまったという罪悪感に苛まれ、顔を合わせづらくなって避けるようになったのだ。
あの時、窪塚は何を言おうとしていたんだろう?
あの時、窪塚はどんな表情をしてたんだっけ?
何度思い返そうとしても、自分のことで精一杯だったせいか、その時の記憶はとても曖昧だ。
けれども、これだけは断言できる。
窪塚の優しい気遣いに対して、いくら心に余裕がなかったとはいえ、あんな酷い仕打ちをした私のことを窪塚が好きになるはずがない――。
自分のことを窪塚が好きなんじゃないかという可笑しな仮説が浮上してきて、あの時のことを思い出すたびに、私は幾度となくそうやって結論づけていた。
✧✦✧
「あっ、晴れてきた。久々のデートなのに降ったら嫌だなぁって憂鬱だったんだよねぇ」
「ホントだ。やったじゃん」
「ヤッパ日頃の行い?」
「だったら土砂降りなんじゃない?」
「なにそれ、ヒッドー!」
「冗談だってば」
彩の弾んだ声で、つい先ほどまで分厚い雲に覆われてた空を見上げてみれば、雲の隙間からちらほらと薄日が射していた。
ーーさてと、もうひと頑張りしますか。
余計なことに気を取られないためにも、真っ直ぐに前だけを見据え、しっかりと踏みしめるようにして一歩を踏み出した。
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