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第二章『——遊戯の盤上にて踊る』
第九話『神の掌にて踊る』
しおりを挟む——友人共々、クロトは死んだ。
それも間違いなく、確実に、目の前で友人の死を焚き付けられ、惨たらしいまでの死を。
そこで終わったのだ。湧き上がった殺意も、憎悪も、それを上回った喪失感さえも、全てはなかったことに。
間違いなく、死んだ。死んだ、筈だった。
だが、その意識は突として動きを再開した心臓の鼓動によって再覚醒する。同時に体中の機能も再開し——屍が、再びクロトとして活動を開始した。
「かは——ッ!」
身体の内側から殴られるような衝撃に、クロトは飛び起きるようにして上体を引き起こした。
呼吸の再開にあたって喉官の砂やら埃やらを咳き込んで吐き出し、嗚咽に涙目になりながらクロトは肩を上下させる。
ぼやけた視界が、薄らと目下の薄墨色の地面を映し出している。
頭痛や耳鳴りが、鼓動が酷く五月蝿く感じる。激しく、荒く呼吸している筈なのにその音は遠い。聞こえない。——何が起こったのか分からない。
羽山黒兎は死んだ筈なのだ。確実に、永劫的に。
しかし、胸に触れた掌に伝わってくるモノは、確かにここに命があることを証明している。
身体を抱いてしまうほどのこの寒気も、現在進行形で取り戻しつつある熱が甘やかに溶かし、その熱が『生きている』という実感を与えてくれる。
死の喪失感を体験した。死んだ。死の帰還の代償をその身をもって痛感した。生き返った実感を得た。
そんな死んだ人間が生き返る、なんて事がある訳が——、
「——やぁ、諸君。お目覚めのほどは如何かな?」
幼げな声が響いた。
この場であってはならない、儚げで憂う存在の高い声音。早く、その危うい存在を手繰り寄せて保護しなければ——そんな憂う気概など、微塵も得ることはなかった。
全くの逆だった。女性のような高音で発せられたその柔らかな声の裏側に隠された真意は紛れもなく、楽しげで有象無象と此方を侮蔑視する弾んだ声音だ。
本能的に、全神経が警笛を鳴らす。
全身が怖気立ち、冷えきっている筈の身体に汗が伝う。筋肉という筋肉が強ばり、その声を愛おしく思う。何もかもごちゃごちゃに入り乱れ、その声音一つでクロトの思考は奪われ、その身は犯される。
身体が、心が、魂が今この場で唯一求めたものは——彼の前でひたすら跪くこと、ただそれだけだった。
「ふむ。良い心掛けだ」
言葉一つで人間、こうもあっさりと愛おしいまでの寵愛を受けたかのように嬉々とした感情で膝を突くものかと思う。
ただ、その感情が進む先にそれ以上は存在しない。残念ながら、その存在をこの目に映すことは叶わないのだ。
愛おしい相手がそれを禁じるのなら、そうしなければならない。代わりに、その者の一言一句たりとも、漏れる吐息の音も、その兆しさえも逃しはしない。
——落胆とした吐息が零れる。
一息して、信愛なる存在は「だが」と言葉を継ぎ、
「残念ながらたった一人、例外だ」
哀しむように、この場に居る筈もない存在を愉しげに嘲笑う。
そのたった一言が、重要な単語が、クロトの身体を、心を、魂を震わす。胸の奥で、小さくはあるが高鳴りがあったのを感じた。
理解が生じる。及ぶ前に、強制的に断絶された理解。クロトが死の体験をする前後に得た、魂からの喪失感を招き入れる切っ掛けとなった——『死』。
クロトの瞳から慈愛の色が消える。心の底から嬉しいと感じ緩んでいた頬が元の形を繕う。
全ては、信じ難い情景を期待せずにはいられない執念が故に、そのスカスカで空っぽな器を満たしたい一心が故に、クロトは顔を上げた。
「いや、二人か」
愉しげな声音が響く。
だが、今のクロトにその言葉の真意は前提からすり抜けて行く。
意識は別の方向へと流れ、ゆっくりと持ち上げたその淡い希望を秘めた顔の先で、クロトは四つの影を目視する。
——地面に跪き、慈愛に満ちた瞳で寵愛に嗤う、そんな四人の姿を。
それは見紛うことなく、目の前で死んだ筈の友人達の姿だった。
「——。ぁ……」
——残念ながらたった一人、例外だ。
驚愕に目を見開き、本能が求める方に手を伸ばそうとして、クロトは想起した言葉に手を止めた。それはさっき、誰かが口にした言葉だ。
ぐっと溢れ出しそうになる感情を堪え、一人一人、クロトは順番に見据えて行く。見据える。見据える。見据える。
言葉一つでしっぽを振り、その者の言葉を信じて疑わない、絶対の服従の顔を、見据えて行く。そして——、
「タツ——ッ!」
見つけた微光。親愛の名を、クロトは声高に叫んだ。
目の前の絶対的な存在が一人じゃなく、二人と言った意味。目の前に、その意味が存在している。
慈愛、憎悪、憤怒、恐怖、罪悪感、苦痛。様々な感情がタツの心を今、揺さぶり続けている。
空色の双眸が激情の波にその光を点滅させている。噛み締める唇が裂け、血が飛び散る。地面を掻くその指は爪が砕け悲惨なほどに血が滲む。
彼の生き方がそうさせるのか。誰よりも優しい彼の心がそれを拒絶しようとしているのか。どちらでもないかもしれない。だが、たった一つだけ分かることがある。
——抵抗している。
ただ、それだけで、
「今すぐ、止めろ……。これ以上、此奴らを冒涜するな。止めないなら……」
「止めないなら?」
「——殺すッ!」
怒りを迸らせ、クロトは憤怒の剣幕を絶対的存在に叩きつける。
声相応の容姿だった。幼い顔つきで、貧弱な小さな身体をした少年。ただ、それだけの点を捉えればの話で、向き合った今でもクロトの怒りは治まるどころか増加の一途にある。
神々しいまでの短い金の髪を揺らし、何所までも透き通った金に輝く瞳は侮蔑に嗤い、小さな口端が愉しげに嗤う。
——宙に胡座で座り込む、幼い少年の姿がクロトの全身を迸らせる。
こんな異質な存在の何所が子供だというのか。目の前の存在は、子供の皮を被った正真正銘の化け物だ。
「ふむ。状況を理解出来ていない様だ。——もう一度、死んでみるか?」
「——ッ!?」
その首に一閃。確かな殺意を持って、クロトは愛刀の鞘に触れていた。
殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す。絶対に、殺す——。
だが、それは眼前、視界一面を覆った光景によってあっさりと、決意も怒りもあらぬ方向へとぐねり、音を立ててひしゃげた。
「今直ぐ跪け。たったそれだけで、今の無礼は取り消してやる。これは、僕が個々に与える最後の慈悲だ」
声は、聞こえなかった。
——ただ、眼前、いや、暁会館の天蓋を埋め尽くした無数の光の刃に、一度この身を、友人達の命の灯火を散らした耀きに、クロトは唇を震わせ、己の膝を折ることでしか命を守れないだと知った。
愛刀から手を離し、クロトは地に膝を着く。
プライドのへったくれもない、無様な姿だ。だが、そうしないと死ぬ。皆、死んでしまう。それだけはなにがなんでも避けたい未来で、一度それを身に染みているが故にクロトはがらんどうを恐れてしまう。
かつての喪失感を味わうことが、どうしようもなく怖い。
「なに、君達をどうこうするつもりはないさ。何せ、これはまだ余興でも何でもない。……ふむ。少し回りくどいか。君達の世界で小説という娯楽があるだろう? 言わばこれは、序章のようなものだ。君達があの世界に生まれ落ちて十六年、その生の物語はまだ始まってすらいない。おっと、僕としたことが失念だ」
長ったらしく、容量の得ない語りを中断して、少年の容姿を被る怪物は指を鳴らす。
次の瞬間、クロトはそれを驚愕の眼差しで見つめることになる。
——眼前、憑き物が取れるように、解放されるように、元の色を取り戻す四人の姿があったから。
一度は辿った道と同じく、四人もまたその軌跡を辿って行く。顔を上げ、各々が各々の姿を見据えて、様々な感情に瞳と喉を震わせる。
それが、この場で危うい激情だと分かっていたから——。
「動くな——ッ!!」
震えた声音で、怒声にも似た叫びが四人の動きを止めさせる。
発生源はクロトだった。状況判断もろくに出来ない状況下での理不尽、我を取り戻したばかりとはいえ、多少なりとも込み上げてくる怒りがある。
だが、その者の姿を見てしまえば、喉の奥の怒りはそこで凍り付く。
クロトという人間が、ここまで脅える姿を見たことがないのだ。たった一人、タツだけを除いて。
その記憶は、昨日のことのように今でも鮮明に思い出せる。
他の三人も見てきた訳じゃない。だが、知っている。聞かされて、クロトの苦しみの少しでも背負おうと胸の深い所で誓いを立てている。
だから、それを繰り返そうとする存在を許すわけには行かない。友人が傷つく姿を見るのは、どんなことよりも耐え難いから。
殺意の籠った鋭い眼光を浴びせられ、それを蚊ほども意に返さないとでも言うように、「それじゃあ、続きを始めよう」と少年は顔色一つ変えずに口端を吊り上げた。
「どうやら、僕は少しお喋りなようだからね。ここからは重要な部分だけを切り取って話そう」
「———」
「——僕は、神だ。君達をこの世界に転生させた元凶にして、君達を殺して蘇らせた絶対的存在である。君達は、駒だ。僕を楽しませる為の玩具で、僕の掌で踊る操り人形だ。逆らうモノは一切いらないし、僕はそれを容赦なく『死』を以って償わせる。ああ、君達は例外だ。僕にとって君達は最上の駒だからね。だから、君達も僕の慈悲にそれ相応の駒としての活躍を以て答えてもらう。その為に、この世界に転生させたんだからね。……故に、此処に僕は告げるよ」
両の掌を掲げ、重要な部分に幾つか触れて盛大に勿体ぶり、そして自称『神』は容姿の裏に隠した悪意を自ら引き剥がす。
一層の無邪気さで嗤い、一層の悪意で嗤い、一層の侮蔑で嗤い、一層の嬉々に嗤い。
それら一切合切を含んだ悪意で嗤って、愛おしむようにそっと掲げた掌で自ら頬を撫で下ろした。
「——あらゆる願いを賭けた、血塗られたゲームの開戦を」
「くそがぁぁぁぉ——ッ!」
瞬間、天蓋一面を覆っていた光の刃が降り注ぎ、この場の全てのモノを貫いて行った。
まるで雨のように——。
まるで災害のように——。
それが自然の摂理だと言うように——。
文字通り全てを——。
命の灯火が消えて行く。痛みも、感触も、熱も、感情も抱くことなく、ひたすら降り注ぐ閃光に踊り、血をばら撒き、死んで行く。
全てはまた、無に帰るのである。ただ『命』は彼の掌の中で弄ばれ、ただ『魂』は彼の掌の中に。
——また一つ、命が散った。
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