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ーーー…

 それは公爵令嬢セレナが幼き頃の話。

 ヴィーシャス家の広い庭園に黒い猫が傷を負った右足を引きずっているのを見つけたセレナは、家に戻り包帯を持って治療した。

 右足に包帯を巻き終えると黒猫は逃げるように茂みに飛び込んでどこかへ行ってしまった。

「足が治ったらまた来てね」

 セレナはもう姿の見えない黒猫に呟いた。

ーーー…


「セレナ、このうなじの印は一体?」

 フィーリア王国の都に聳える城の庭園で、公爵令嬢セレナが王太子オーフェスと散歩していた時だった。

 セレナは栗色のふんわりとした髪と真っ白な柔肌、翡翠色の瞳にぷっくりとした薄桃色の唇をもつ美しい十八の娘で、その美貌から王太子オーフェスに見初められ婚約をした。

「うなじですか?何かございます?」

 セレナはうなじに手を当ててみたが、特に凹凸などは感じられず首を傾げていると、オーフェスが指でその箇所に触れた。

「部屋に戻って鏡で見てみようか」

 オーフェスに言われるがままに手を引かれ、部屋へ戻り大きな鏡のある華美なドレッサーの前に座らされ、手鏡を渡される。

「ほら、見えるかい?」

「あら本当…痣というよりまるで印を押されたようですね」

 合わせ鏡に映ったその痣らしきものは3センチくらいのもので、うっすらとまるで本の中しか見たことのない魔法陣のような形をしていた。

 オーフェスは口元に手を当てしばらく黙り込んでからようやく口を開く。

「我が王室御用達の魔術師を呼んで見てもらおう」

「ええ、そうして頂けますでしょうか?」

 オーフェスは金色の髪を靡かせて頷いて部屋を後にした。何だろう、この痣、嫌な予感がするーーセレナはその翡翠色の瞳に憂いを湛えていた。

 1時間後くらいだろうか、セレナはオーフェスに魔術師のいる地下に案内された。
 城の地下に行くのはセレナも初めてだった。地下は剥き出しの石の塀に囲まれひんやりと寒気がした。

 しばらく歩いた突き当たりに小さな木のドアがあった。オーフェスがドアをノックし開けると、一つの椅子を取り囲むように国王、王妃を始め第二王子など王族が集結しており、予想以上の大事になったとセレナは思わずたじろいだ。

「セレナ・ヴィーシャス様、どうぞこちらの椅子へ。貴女のその印の正体を暴きます」

 中央にいる黒いローブを纏った魔術師の老婆に言われるがままにセレナは恐る恐る椅子に座る。王族の視線がセレナに集中する。

 セレナが椅子に座り、魔術師がうなじにある印を見るや否やヒャアと悲鳴を上げてひっくり返った。王族達が騒めきだす。

「こ、これは…なんということか!千年に一度現れるという稀代の悪女の印ではないか…!わしにも手が負えぬぞ!」

 セレナがうろたえている間に、国王を始めとする王族が皆一斉に叫びながらこの部屋から逃げ出した。

「待って…!オーフェス様…!」

 オーフェスは腰を抜かしてへたり込みながらセレナを見ていたが、セレナが近付こうとすると避けるように後退った。

「違います、私…何も…」

 歩み寄るセレナをオーフェスは手で制した。

「も…もういい!君はここから出て行け!いいか?千年前、その印を持つ女が王族の前に現れて破滅へと導いたんだ!この意味がわかるか?君はこの王族を滅ぼす災いそのものなんだ!結婚の話は無しだ!今すぐここからいなくなれ!」

 王子はそれだけを言い残し、足を滑らしながらセレナの前から逃げ出した。セレナが後を追おうとすると、大勢の槍と剣を持った兵士達が部屋に突入してきてセレナを取り囲んだ。

 何?私をどうするつもりなの?まさかその槍と剣で私を刺すつもり?

「お可哀想なセレナ様…」

 魔術師の老婆はセレナに哀れみの目を向けた。

 待って、私ここで終わるの?

「そんな…どうして…」

「セレナ様、お覚悟を…!」

 セレナを取り囲んだ兵士が一斉に向かってくる。そんな!誰か助けて…!セレナがぎゅっと目を閉じたその瞬間だった。


「私を呼んだかな、お嬢さん」

 頭に直接響くような男の声。セレナだけでなくその場にいた兵士など全員が聞こえたようで、皆辺りを見回す。

「おい!上だ!」

 その声で皆が上を向くと、そこには大きな漆黒の両翼を羽ばたかせ、バッファローのようなこれまた黒く鋭い角を生やしたマント姿の男が宙に浮きながら高笑いをしている。

「あれは…魔王だ…!魔王だぞ!皆逃げろ!」

 その場にいた魔術師の老婆や兵士たちは一目散に逃げ出した。魔王と呼ばれたその男は二人きりになると不敵に笑んでゆっくりとセレナの前に降り立った。

「やっとお目覚めだな、聖女様」

 魔王は跪き、セレナの手の甲に口付けをした。初心なセレナの頬は赤く染まる。

「せ、聖女…?!私は先ほど悪女だと…というか貴方は何者なんですの?!」

「私の名はノア。人間からは魔王と呼ばれているな。お前のうなじに現れたその印は、守護の力が特に強い聖女に現れるものだ。しかしどういうわけかこの国の王たちはそれを悪女の印だと勘違いしているようだ、残念だな」

 魔王ノアは微笑を湛えた。その漆黒の黒髪から覗く透き通った紅蓮の瞳に、セレナは吸い込まれるように見惚れていた。ノアに禁忌の美しさと、どこか懐かしさをセレナは感じていた。

「聖女セレナ・ヴィーシャス。この私がお前を引き取ってやってもいいぞ?お前に帰る場所はもうないのだろう?」

 セレナは魔王ノアの言葉に黙った。彼の言うとおり、セレナには帰る場所がない。

 セレナには妹がいた。セレナと同じく妹もまた美しい容姿を持っていたが、セレナと違うのは愛嬌だった。セレナは昔から大人びており落ち着きのある子で、表向きは褒められていたものの、無邪気に子どもらしく甘えたりはしゃぐ妹の方が明らかに両親から愛されていた。両親はセレナにどこか一線を引いたように他人行儀に振舞っていて、それをセレナも子どもながらに感じ取っていた。

 極めつけは両親が夜な夜な二人で話していた内容を廊下で盗み聞きしまったことだ。あの子は冷たい、子どもらしくない、可愛げがない、と。このヴィーシャス家では愛されていないのだとセレナは理解した。

 王太子に見初められ婚約が決まった時、両親はたいそう喜んだ。しかしそれが破棄となったことがわかったら…。

「そうね、私に帰る場所なんてなかったわ」

 実家に戻れば両親は受け入れてくれるだろう。しかしまた窮屈で居心地の悪い日々が始まると思うと素直に帰りたいとは思えなかった。

「それなら私についてこい。私は今までのやつ等とは違う。親のように無碍にしたりしないし、聖女だろうが悪女だろうがお前を見捨てたりもしない」

「なぜ私にそこまで…」

「お前を気に入ったからだ」

 魔王ノアがフッと口角を上げると、その手の平が赤い光を放ち始め、セレナはあまりの眩さに目を閉じた。光が消え、セレナがゆっくりと目を開けると、赤く光っていたノアの手の平には赤い宝石が嵌められた指輪があった。

 ノアはセレナの左手を取り、薬指にその指輪をそっと嵌めて指輪に口付けをした。

「この私がお前を必ず幸せにしよう」

 セレナは頬を赤くし頷いた。

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