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姫と悪魔
3 救いの手
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シェリルは這って逃げる。
その細い足首を、黒々と指毛の生えた獣のような手が掴む。
「嫌っ、嫌! お父様っ!」
「お父様なら、向こうにいるだろう?」
男は鉄格子の窓を指す。
「今日はいい天気だ。丸一日たって、蝿がたかりはじめている。偽物の王様と淫売王妃にはお似合いの姿だ」
シェリルの目に、光が戻った。怯えを、父母を侮辱された怒りが上回っていた。
「許さないわ! 離しなさい!」
重い衝撃に、シェリルは息を詰めた。何が起こったのか、すぐにはわからなかった。
暴力を振るわれたのは、初めてだった。
「おっと、いけない……伯父様は軍人だから、ついね」
殴りつけた腹を、今度は拳を開いて撫で回す。
「悪い親に育てられたから、悪い子になってしまった。伯父様がちゃんと躾直してやるから大丈夫だよ、シェリル。いい子になれたらご褒美にお嫁さんにしてあげよう。また、王宮で暮らせるよ」
シェリルは痛みに顔を歪めながら、触れられるのを厭って身を捩る。男の手はシェリルの身体を無遠慮に探る。腰のくびれを、レースに隠れた胸元を。
シェリルは必死にドレスを押さえ、手を払って抵抗した。
「それくらいなら、死にます!」
「おやおや……」
男はシェリルの耳に顔を寄せた。生臭い息とともに、吹き込んだ。
「残念だ。子どもも同罪なら、ギルフォードもだな?」
王宮に踏み込まれたとき、シェリルのドレスを掴んで震えていた、幼い弟。引き離されるとき泣き出すのを、シェリルは父に習って宥めたのだ。
落ち着いていらっしゃい、何も悪いことしていないんだから。すぐ誤解はとけるから……
「ギルは」
「生かしているよ。今はね」
「ギルは助けて……まだ八つなんです……」
「それでも王子というのは厄介だ。不穏分子が担ぎあげる危険がある」
動きが止まったシェリルの胸元に、男の指が伝う。
「でも、確かにかわいそうだ。伯父様は優しいから、シェリルがいい子にするなら、ギルも許してあげようね」
シェリルは叫び出したいのを抑えて唇を噛む。この男に無様に泣き叫ぶ姿など見せたくはない。
立派だった、優しかった、憧れだった父と母。
大切な、かわいい弟。
失ってしまったものと、まだ守れるかもしれないもの。
「よしよし、いい子だ。シェリルは賢いな」
耳元で舌なめずりする音。父母を殺した男に、身体を汚される。死よりも厭わしい時間が始まろうとしている。
あんなに毎日祈った神様はいなかったのだと、シェリルは知る。
神様がいるなら、お父様とお母様を死なせるはずがない。こんな醜悪な男に、王権を与えるはずがない。
素肌を触れられる感触に、目を瞑る。
婚約の話が出ていた、淡く想いを寄せあった隣国の王子を、一瞬思う。
ごめんなさい、と心の中でちいさく呟いた。
それでも、絶望の中で殺しきれなかった心の奥深くが、時空を切り裂く叫びを上げていた。
最早誰も助けてくれるはずなどないと知っていても。
誰か、助けて。
そして、時が歪んだ。
「姫君。お困りなら、手をお貸しましょう」
その細い足首を、黒々と指毛の生えた獣のような手が掴む。
「嫌っ、嫌! お父様っ!」
「お父様なら、向こうにいるだろう?」
男は鉄格子の窓を指す。
「今日はいい天気だ。丸一日たって、蝿がたかりはじめている。偽物の王様と淫売王妃にはお似合いの姿だ」
シェリルの目に、光が戻った。怯えを、父母を侮辱された怒りが上回っていた。
「許さないわ! 離しなさい!」
重い衝撃に、シェリルは息を詰めた。何が起こったのか、すぐにはわからなかった。
暴力を振るわれたのは、初めてだった。
「おっと、いけない……伯父様は軍人だから、ついね」
殴りつけた腹を、今度は拳を開いて撫で回す。
「悪い親に育てられたから、悪い子になってしまった。伯父様がちゃんと躾直してやるから大丈夫だよ、シェリル。いい子になれたらご褒美にお嫁さんにしてあげよう。また、王宮で暮らせるよ」
シェリルは痛みに顔を歪めながら、触れられるのを厭って身を捩る。男の手はシェリルの身体を無遠慮に探る。腰のくびれを、レースに隠れた胸元を。
シェリルは必死にドレスを押さえ、手を払って抵抗した。
「それくらいなら、死にます!」
「おやおや……」
男はシェリルの耳に顔を寄せた。生臭い息とともに、吹き込んだ。
「残念だ。子どもも同罪なら、ギルフォードもだな?」
王宮に踏み込まれたとき、シェリルのドレスを掴んで震えていた、幼い弟。引き離されるとき泣き出すのを、シェリルは父に習って宥めたのだ。
落ち着いていらっしゃい、何も悪いことしていないんだから。すぐ誤解はとけるから……
「ギルは」
「生かしているよ。今はね」
「ギルは助けて……まだ八つなんです……」
「それでも王子というのは厄介だ。不穏分子が担ぎあげる危険がある」
動きが止まったシェリルの胸元に、男の指が伝う。
「でも、確かにかわいそうだ。伯父様は優しいから、シェリルがいい子にするなら、ギルも許してあげようね」
シェリルは叫び出したいのを抑えて唇を噛む。この男に無様に泣き叫ぶ姿など見せたくはない。
立派だった、優しかった、憧れだった父と母。
大切な、かわいい弟。
失ってしまったものと、まだ守れるかもしれないもの。
「よしよし、いい子だ。シェリルは賢いな」
耳元で舌なめずりする音。父母を殺した男に、身体を汚される。死よりも厭わしい時間が始まろうとしている。
あんなに毎日祈った神様はいなかったのだと、シェリルは知る。
神様がいるなら、お父様とお母様を死なせるはずがない。こんな醜悪な男に、王権を与えるはずがない。
素肌を触れられる感触に、目を瞑る。
婚約の話が出ていた、淡く想いを寄せあった隣国の王子を、一瞬思う。
ごめんなさい、と心の中でちいさく呟いた。
それでも、絶望の中で殺しきれなかった心の奥深くが、時空を切り裂く叫びを上げていた。
最早誰も助けてくれるはずなどないと知っていても。
誰か、助けて。
そして、時が歪んだ。
「姫君。お困りなら、手をお貸しましょう」
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