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侍女と狼
3 「水を一杯いただけますか」
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夜、ひとりで考え事をしているとき。
呼びかけてくるものに、答えてはならない。
しかし、魔除けとして伝わる戒めは、いざそのときになると役には立たないのだ。
悪魔の囁きは、人の心の隙間につと入り込んでくる。
「水を一杯いただけますか」
夜更けの厨房でひとり、シェリルの就寝前のハーブティーを用意していたエマの耳を、いくぶん甘さを含んだ男の囁きがくすぐった。
「ええ、どうぞ」
水差しからコップへ汲み置きを注ぎ、振り向いたエマは目を見開く。
手から滑り落ちていくコップが宙に止まる。
ヴィネはコップを手に取り、時を再び動かした。
一滴残らずコップに戻った水が、微かな音を立てて揺らぐ。
「お手元に気をつけて。割らなくてよかったですね」
声は笑いを含んでいるが、闇そのものの色をした瞳は、ひたとエマを捉えていた。
エマは、小刻みに震え出す。
王宮の奥、女王と王子のための厨房だ。見知らぬ男が入り込んでいるべき場所ではない。
そして、目の前のこれは、賊ですらない。身体中、不吉な気配に総毛立つ。
「ああ、あなたの母は神官だったんですね。あなたも継いでいるらしい。ええ、怯えを恥じなくてよろしい。身の程をわかっているのはよいことだ」
ヴィネは蒼白になったエマを前に、コップを手のひらで弄んだ。ガラスは歪んで脚の細いグラスとなり、水は血の色に変わっていく。
エマは胸元を握る。服の下には、父の形見である魔除けのエンブレムを、ペンダントにして身につけていた。
「それ、加護とやらがあるものなら、あなたの父は死ななかったんじゃないですか?」
ヴィネは嘲笑って、グラスをあおる。
呼びかけ、答えられ、受け取って、あまりに容易く準備は整った。
「さて。とはいえこれでは埒があかぬ。喋ってよろしい」
ヴィネが命じると、エマの唇から、か細くも言葉が発せられた。
「ジーク、来て!」
ヴィネの口の端が、きゅうっと吊り上がる。
「あの狼が聞いたら、ちぎれんばかりに尾を振って喜ぶでしょうね。身の危険を感じた時、真っ先に頼られるなんて、雄として張り合いのあることだ。ですが残念ながら、彼は来ません。私たちの契約が終わるまでは」
「契約なんて、しない……!」
エマは必死に声を絞り、目を尖らせた。
「お前が、国を呪った悪魔なんでしょう! 病気を流行らせて、魔物を操って、みんなをおかしくして……シェリル様を、苦しめて、っ!」
見えない手に喉を圧迫されて、エマは息を詰める。ヴィネの顔からは笑みが消えている。
その手にある空のグラスの脚は、指で力をかけられて、今にも折れそうに軋んでいる。その華奢なガラスが、そのままエマの首なのだった。
ヴィネはエマを十分苦しめたあと、グラスを机に置いた。
エマは途端に膝から崩れ落ち、激しく咳き込みはじめる。
「お前は気に触る」
ヴィネは冷ややかに言った。
「誤りは正しておこう。下等な魔物なんぞいちいち私は差配しない。病も預かり知らぬ。人とは愚かな生き物だ。望ましくないことは勝手に悪魔のせいにする。それが、我が権能を強めるとも知らず」
悪魔はエマの髪を掴み、顔を上げさせた。
黒い爪の人差し指を、つぷりと娘の額に沈める。彼女の目は焦点を失い、口からは意味をなさない音が漏れ出す。
彼女の思念を読み取って、ヴィネは舌打ちした。
「望みは、あのお方を守ること。そのためなら、何でも差し出すと。全く忌々しいほどの忠義だ」
さらに腹立たしいのは、その思いが一方的なものではないことだ。シェリルもまた、この娘を一介の侍従以上に扱っている。
今苛立ちまぎれに魂をとってしまうのは簡単だが、それではシェリルの心にこの娘が居座り続ける。
愛らしく献身的だった、唯一無二の侍女として。
「マルク公国シェリル女王の侍女エマと、七十二柱の悪魔が一柱、序列第四十五の悪魔ヴィネは、ここに契約を結ぶ。お前の苦痛と愛欲を対価に、麗しき女王にさらなる力を捧げよう」
指が抜かれると同時に、皮膚が閉じる。
支えをなくしたエマの身体が床に伏すと同時に、厨房の燭は一つ残らずかき消えて、悪魔は闇に溶け去った。
呼びかけてくるものに、答えてはならない。
しかし、魔除けとして伝わる戒めは、いざそのときになると役には立たないのだ。
悪魔の囁きは、人の心の隙間につと入り込んでくる。
「水を一杯いただけますか」
夜更けの厨房でひとり、シェリルの就寝前のハーブティーを用意していたエマの耳を、いくぶん甘さを含んだ男の囁きがくすぐった。
「ええ、どうぞ」
水差しからコップへ汲み置きを注ぎ、振り向いたエマは目を見開く。
手から滑り落ちていくコップが宙に止まる。
ヴィネはコップを手に取り、時を再び動かした。
一滴残らずコップに戻った水が、微かな音を立てて揺らぐ。
「お手元に気をつけて。割らなくてよかったですね」
声は笑いを含んでいるが、闇そのものの色をした瞳は、ひたとエマを捉えていた。
エマは、小刻みに震え出す。
王宮の奥、女王と王子のための厨房だ。見知らぬ男が入り込んでいるべき場所ではない。
そして、目の前のこれは、賊ですらない。身体中、不吉な気配に総毛立つ。
「ああ、あなたの母は神官だったんですね。あなたも継いでいるらしい。ええ、怯えを恥じなくてよろしい。身の程をわかっているのはよいことだ」
ヴィネは蒼白になったエマを前に、コップを手のひらで弄んだ。ガラスは歪んで脚の細いグラスとなり、水は血の色に変わっていく。
エマは胸元を握る。服の下には、父の形見である魔除けのエンブレムを、ペンダントにして身につけていた。
「それ、加護とやらがあるものなら、あなたの父は死ななかったんじゃないですか?」
ヴィネは嘲笑って、グラスをあおる。
呼びかけ、答えられ、受け取って、あまりに容易く準備は整った。
「さて。とはいえこれでは埒があかぬ。喋ってよろしい」
ヴィネが命じると、エマの唇から、か細くも言葉が発せられた。
「ジーク、来て!」
ヴィネの口の端が、きゅうっと吊り上がる。
「あの狼が聞いたら、ちぎれんばかりに尾を振って喜ぶでしょうね。身の危険を感じた時、真っ先に頼られるなんて、雄として張り合いのあることだ。ですが残念ながら、彼は来ません。私たちの契約が終わるまでは」
「契約なんて、しない……!」
エマは必死に声を絞り、目を尖らせた。
「お前が、国を呪った悪魔なんでしょう! 病気を流行らせて、魔物を操って、みんなをおかしくして……シェリル様を、苦しめて、っ!」
見えない手に喉を圧迫されて、エマは息を詰める。ヴィネの顔からは笑みが消えている。
その手にある空のグラスの脚は、指で力をかけられて、今にも折れそうに軋んでいる。その華奢なガラスが、そのままエマの首なのだった。
ヴィネはエマを十分苦しめたあと、グラスを机に置いた。
エマは途端に膝から崩れ落ち、激しく咳き込みはじめる。
「お前は気に触る」
ヴィネは冷ややかに言った。
「誤りは正しておこう。下等な魔物なんぞいちいち私は差配しない。病も預かり知らぬ。人とは愚かな生き物だ。望ましくないことは勝手に悪魔のせいにする。それが、我が権能を強めるとも知らず」
悪魔はエマの髪を掴み、顔を上げさせた。
黒い爪の人差し指を、つぷりと娘の額に沈める。彼女の目は焦点を失い、口からは意味をなさない音が漏れ出す。
彼女の思念を読み取って、ヴィネは舌打ちした。
「望みは、あのお方を守ること。そのためなら、何でも差し出すと。全く忌々しいほどの忠義だ」
さらに腹立たしいのは、その思いが一方的なものではないことだ。シェリルもまた、この娘を一介の侍従以上に扱っている。
今苛立ちまぎれに魂をとってしまうのは簡単だが、それではシェリルの心にこの娘が居座り続ける。
愛らしく献身的だった、唯一無二の侍女として。
「マルク公国シェリル女王の侍女エマと、七十二柱の悪魔が一柱、序列第四十五の悪魔ヴィネは、ここに契約を結ぶ。お前の苦痛と愛欲を対価に、麗しき女王にさらなる力を捧げよう」
指が抜かれると同時に、皮膚が閉じる。
支えをなくしたエマの身体が床に伏すと同時に、厨房の燭は一つ残らずかき消えて、悪魔は闇に溶け去った。
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