もしも、いちどだけ猫になれるなら~神様が何度も転生させてくれるけど、私はあの人の側にいられるだけで幸せなんです。……幸せなんですってば!~

汐の音

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第二章 動き出す歯車

50 帰城と恋の行方

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「……なんで、キスできなかったんだ……」

「…………」

 ――聞き違いか。聞き違いだな、と、侍従は速やかに判断した。

 アストラッド王子はとみに優秀で利発。
 幼い頃より学問や武芸、魔法の技は言うまでもなく、対人面でのそつのなさは群を抜いていた。
 これまでも、何事においても和を重んじ、第三王子としての務めを果たしてこられた。
 そう。今日も。

 侍従は、こほん、と咳払いをした。

「殿下。帰城早々の陛下がたへのご報告の儀、まことにお疲れさまでした。しかるに明日のご予定なのですが」

「――下手に踏み込んでも彼女たちを危険にさらすだけだし。兄上たちと協力して“屋根だけ切り離して翔ばそう”と立案したのは、現地に到着してからだった。それから周囲に住民がいないか確かめて」

「…………左様ですか」

 驚いた。かなり綺麗に無視された。

 確かに火急の事態ではあったし、聖人君子のようなこのかたにも、よほど胸に収めがたいことがあったのだろう。独白(?)を終えねばこちらのげんは聞き入れてくださらないらしい。

 仕方ない、と腹を括った侍従は手にした王族の予定一覧表を円卓に置いた。
 大きくとられた窓際の椅子に腰かけ、執務机に肘をつき、組んだ両の指に額を乗せて悩ましさ全開の主に近づき、向き直る。

 アストラッドは、つらつらと思うところを述べていた。

「反則だ……。ちゃんと、こちらの意を汲んで姉上を引っ張って来てくれた機転にも驚いたが、一直線に僕のところに飛び込んでくれて。可愛かった。奇跡だと思った」

「はぁ」

「彼女が可愛いのは出会ったときからだけど、胸を打ち抜かれた。あんなに細くて柔らかくて、ふわふわしてて。泣き顔もいじらしいのに、あの仕草で上目遣いは……しぬ。もれなく全自我ぼくが死んでしまう」

「!? 若い身空で死なないでください殿下。『全自我ぼく』って何ですか」

 何だろうね、とため息をついたアストラッドは、ようやく側に立つ侍従に視線を流した。

「とにかく。彼女が無事でよかった」

「そうですね。仰る通りです。わたくしめも胸を撫で下ろしております。城勤めの、事情を知る者はすべてかと」

「うん」

 こくり、と頷く仕草にはまだ幼さの名残がある。
 とても聡明。そして素直なかたでもある。

 侍従は、そっと口のを微笑のかたちにとどめた。
 具体名は伏せられていたが関心の対象はあからさまに絞られていた。実の姉ロザリンド殿下の立場は一体……? と唸ってしまうが。

 目を瞑り、今ごろはご両親から同時に雷を落とされているのだろうやんちゃ姫にも思いを馳せつつ。再び円卓まで戻る。
 予定表をとり、ぺらりとめくった。

「では明日の夜。姫君がたのご無事を祝う内々の宴についてと、日中の皆様がたのご予定について。お時間よろしいでしょうか」

「もちろんだ。言って」

 途端にしゃきっと上体を立て直した王子を、侍従は微笑ましく思った。

 ――――完全に、恋。

 『アストラッド殿下は、カリスト公爵令嬢ヨルナ殿に夢中になっておられる』と。
 まことしやかに広がり始めた城内の噂は本当なのだな、と結論付けた。



   *   *   *



「あぁっ! ヨルナ様……!!」

「サリィっ」

 馬車での帰城。
 そして、待ちわびてくれた面々との再会。
 やがて城付きの女官に連れられ、扉を開けてすぐ、客室に控えていた専属侍女のサリィは涙声でこちらに駆け寄ってきた。

 仲のよい主従に、女官も淡く微笑む。

「ではヨルナ様。侍女殿。本日はお食事もすべてお部屋に運ばせますので、ごゆっくりお休みくださいませ。一階の湯殿でも、隣の浴室でもお好きなほうをどうぞ」

「ありがとう」

 優雅な一礼で女官が退室する。
 パタン、と扉が閉まると、すぐに二人は顔を見合わせた。それから泣き笑いとなり、サリィはヨルナの両手をとる。

「本当に……よろしゅうございましたわ、姫様。わたくし、生きた心地がしませんでしたもの」

「ごめんねサリィ」

 しゅん、と萎れる少女に、サリィはそれ以上の泣き言を連ねなかった。
 にこっとお日様のように笑い、主の手を額に押し戴く。

「神に感謝を」

「あら」

 ――そうね。無事に戻ってこれたのは神様のおかげでもあるはず。だって、夢の中で『干渉はできない』と仰りながら、とても気にしてくださっていた。
 ヨルナは困り笑いを浮かべる。

「とりあえず、湯浴ゆあみがしたいわ。手伝ってくれる?」

「喜んで」

 てきぱきと準備を整えたサリィを伴い、ヨルナは隣室に向かった。



   *   *   *



 ぽちゃん……

 天井の窓から明かりが差し、水滴がしたたる。立ちのぼる香油アロマの湯気に癒される。
 猫足の白いバスタブには熱めの湯がたっぷり張られ、色とりどりの花びらが浮かんでいた。
(極楽……)
 うっとりと顎まで沈み、後頭部をへりへと預ける。

 ちょっとだけ一人になりたかったのもあり、入浴は自分だけ。サリィには湯上がりの世話をお願いした。
 石鹸で埃を落とし、髪も洗った。このまま寝てしまいたいくらい気持ちいい。でも。

(ロザリンド様、相当ショックだったのかな。憧れの魔王様が……)


 ――――なんで、子どもなの? ゲームのユーグラシルは、シュスラより少し年下なだけだったわ。


 と。
 馬車を降りたとき、ぼそっと呟いていたのを聞いてしまった。顔色は見えなかったけど、あんなにも何事にも動じなかった彼女が、うち震えるなんて。

「……『わたし、ショタじゃないわ』って。つまりそういうことよね」


「? ヨルナ様? 何か仰いまして?」

「あ、いいえ」

 我に返ったヨルナは慌てて半身を起こした。ちゃぷん、と湯が揺れる。

「何でもないわ。そろそろ上がります」

「畏まりました」



   *   *   *



 三十分後。
 ほかほかと温まり、すっきりとしたヨルナが部屋に戻ると、一通の封書が届けられていた。
 ごくシンプルな白い封筒。流麗な文字。
 どなたでしょう、とサリィが裏返すと、二人はそろって目をみはった。

 ――セネレ・リム・ゼローナ。

 三人の王子と一人の王女の母。
 国王オーディンの妻にしてクリスタルの温室の主。王妃セネレの、めったに聞くことのない実名フルネームだった。


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