箱庭の空をあげる

ゆるふわ畜生

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2.変化

19.密事②

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 男と、ベッドの上に座っている娼婦と猫以外居ないはずの部屋に、ひやりとした声が響いた。同時に首筋に触れる冷たい感触に、先ほどまで興奮で火照った男の顔から一気に血の気が引いた。思わず身じろぐと、ぴり、と痛みを感じた。続いて、首元を何かが伝う感覚。血だ。思わず生唾を飲み込むと、またぴりりとした痛みを感じた。

「そのまま腕を後ろに回せ」

 男は、抵抗することなく声に従った。首筋に突きつけられたナイフの刃のような冷たい声は、その通りに行動しなければ迷わず男の喉を掻き切るだろう。確かめずともそれが伝わってきた。ベッドに座っていた猫が立ち上がり、男の手首にロープをかけた。拘束され、身動きが取れない状況に男は不安と恐怖がない交ぜになった様子で喘ぐ。

「い、いったい何が目的だ。私が誰か、分かっているのか⁉」

「分かっていなければ、こんなことはしない」

 脅しを目的として放った男の言葉に、冷たい声の持ち主はぴしゃりと返した。それどころか急に足を払われ、男は受け身も取れずに転倒する。ベッドに座ったままの娼婦が思わず、と言ったように小さな悲鳴を上げた。

「ぐあッ、こ、こんなことをして……、」

「無駄話をする気はない。あんたが知っていることを話して貰う。そうしたら命は取らない」

 床に這いつくばり、男は初めて自分を脅迫している冷たい声の主を見た。猫だ。男が先ほどまで組み伏せていた赤毛の猫とは違う。晴れた空のような深い青色の髪と目。しかしその眼差しは手に持ったナイフのように鋭く、冷たい。

「馬鹿な。下層の、しかも売春宿の飼い猫なぞが私を脅迫するつもりか⁉」

「そうだ」

 男の怒りなどどこ吹く風で、青い猫はナイフをゆっくりと男の首筋から移動させていく。冷たい切っ先は、薄皮一枚を隔てて男の腕をなぞり、やがて指先へと辿り着いた。

「拷問の心得はないが、要は顔面以外を切り刻めばいいんだろう……確かに、死者でも喋りそうだ」

「や、やめ――」

 恐怖と混乱でない交ぜになったまま喘ぐと、ナイフの持ち主は男の耳元でゆっくりと囁いた。

「なら質問に答えることだ。ここしばらく、ここカンタレラを嗅ぎ回っている奴らがいる……ただのチンピラじゃない、上の――あんたたちの指示を受けて、だ」

 それは、確かに事実だった。男の勤める研究施設からとある実験体が姿を消したのは、ほんの一週間ほど前のことだ。稀少故に厳重に保管されていたはずの『それ』が忽然と姿を消した。唯一、残されたログから、どうやら下層へカプセルごと投棄されたらしいことが分かり、下層の人間に金を握らせ探らせていたのだが、この脅迫主はそのことを言っているようだった。

「雌の『猫』は確かに稀少だが、あんたたちの執着は尋常じゃない――エットこいつは何者だ、何故あんたたちは、これを追い回す?」

「……う、うぅッ……!」

「そうか」

 男の呻き声を聞いた青い猫は、僅かに目を細めると、ナイフの刃を男の指――親指だ――に這わせた。そしてそのまま、ゆっくりと刃に力を込めていく。

「ひ、ぐあぁッ……⁉」

「これは警告だ。次は骨ごといく」

「わか、わかった……! 話す! 知っていることは全部話すから……! やめ、やめてくれぇ……ッ‼」

 文字通り、身を切られる痛みに男は呆気なく降参した。もとより、荒事に慣れている訳ではない。むしろ、荒事とは無縁の世界に生きてきた男にとって、身に差し迫った危機に対して対抗する術を持たない。ただ恐怖し、乾いた唇を震わせながら懸命に許しを乞うた。

「なら、質問に答えろ」

 青い毛の猫が地を這うような低い声で尋ねる。同時に、指にかかるナイフが重みを増した。

「ひぃっ……! 言う、何でも言う……!」

「さっきも言っただろう。この赤毛の猫は何者だ。研究所から逃げ出してきた猫なんて、ここじゃ珍しくないはずだ」

「……それ、は、」

「それは?」

「……ッ、ぅ……」

「そうか。ならまずは親指を貰う。不便らしいが、まあせいぜい頑張ることだ」

「やめろ! 言う、言うから……ッ‼」

 青い猫がナイフに体重をかけるのを感じ取り、男は絶叫した。

「そいつは……その雌は『母胎』だ……猫獣人を繁殖、させるための……」

「何……?」

「お前たちは知らないだろう……『上』では、研究都市では猫獣人の繁殖を目指してきた……、しかし猫獣人自体の数は少なく、その中でも雌――しかも性交と出産に耐えられる個体はまったくと言っていいほど存在しなかった。我々は長年に渡り、雌の個体を探し続けていた……そしてある日、ようやく手に入れたのだ……それが――」

こいつエットという訳か……」

「そうだ。そいつは、その雌は研究都市の『夢』そのものだ。喉から手が出るほど欲しい、稀少なサンプルだ。だから私は……」

「『上』が回収して手が届かなくなる前に『味見』をしようとした訳だ。『上』の人間らしい、いい趣味だ」

「ぐ……、」

「だが、理由が分からない。そこまでして何故、猫獣人を繁殖させる必要がある? 今更、愛護精神という訳でもないだろう」

「し、知らない……」

「……」

「ぎ、あ……ッッ! 本当だ! 私はこれ以上何も知らない‼」

 ぐ、と再びナイフの冷たい刃が指先に押し当てられ、男は身も世もなく叫んだ。しかし、青い猫は気にも留めない。

「ノル」

 しかしふとそこで青い猫を嗜める声が響いた。ノル、というのが青い猫の名前だと分かったのは、指にかかっていた力が僅かに和らいだからだ。

「本当だと思う。その人は、嘘は言ってない」

 そう言って青い猫を止めたのは、先ほどまで男がのし掛かっていた赤毛の猫だった。ベッドから立ち上がると、ノルと呼ばれた青い猫に忍び寄り、ナイフを持つ手に自分の手を重ねた。

「だからノルがこんなことする必要はもう、ない」

 しばし、その場には沈黙が落ちた。緊張の糸が張り詰めたまま、誰も言葉を発しない。しかし、やがて静かに息を吐いたものがいた。ノルと呼ばれた青い猫だ。

「……『上』の人間が、ここまで我慢強いはずがない、か」

 そう呟くと、青い猫はゆっくりとナイフを男の指から離した。

「お、俺をどうするつもりだ……? 知っていることは全部、話したぞ」

 痛む傷に歯を食いしばりながら、男は尋ねていた。ひとまず指を切り落とされる脅威は去ったが、それ以外はなにも解決していない。口封じにここで殺される可能性は十分にある。むしろ、男のイメージするスラムの住人ときたら不潔で狡猾で、自分たちの不利益になることを見逃さない。そんな連中が自分を見逃すとは、男には到底思えなかった。

「確実を期すなら、あんたを帰すのは間抜けのすることだ」

 そしてやはり、男の予想通り、青い猫の言葉は氷のように冷たい。しかし、男にとって幸運だったのは、彼を嗜める者の存在だった。

「ノル、」

 くい、と青い猫の服の裾を引っぱったのは、先ほども男の窮地を救った赤毛の猫だった。二匹の猫は互いに見つめ合っていたが、やがて青い猫の方が大仰にため息を吐いた。

「……だが、あんたが帰らずに探りを入れられることはもっと面倒だ」

「――え、」

「手当の手配をしてやる。そのことを恩に感じる心がひと欠片でもあるのなら、今夜のことは全て忘れて、二度とここへ来るな」

 男は我が耳を疑った。先ほどまで男を苛んでいた死に神の如き青い猫が見せた慈悲を、すぐには信じられなかったからだ。しかしどうやらそれは男の聞き間違いでもなんでもなかったらしい。男の手には簡易的ではあるが治療が施され、痛みも幾分か和らいだ。

「まっとうな治療をすれば痕も残らない。せいぜい拾った命、大事にするんだな」

 そう言って立ち去ろうとする青い猫と、彼に続こうとする赤い猫と娼婦、彼らに向かって男は気づけば声を掛けていた。

「待て」

「……」

「……近く、もう間もなく『獣人狩り』がある。このスラム中の隅から隅までを攫ってでも、『母胎』を見つけるためだ」

「『上』の兵隊がここに押し寄せてくると?」

「そうだ……お前たちは『母胎』の価値を分かっていない。研究都市は、スラムの人間全員を殺してでも『母胎』を見つけ出すつもりだ。悪いことは言わない。『獣人狩り』が行われる前に、そいつを『上』へ差し出せ。私に言えるのはそれだけだ」

 男はそれだけ言うと、今度こそそそくさとカンタレラを後にした。もう二度とここには来ないだろう。残されたノルとエット、シャーリィの間には、深く、重い沈黙が落ちた。
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