赤い鞘

紫乃森統子

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四.赤鞘の二壮士

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 隊長・樽井が撤退を決意した頃には、既に日は高く昇りきっていた。
 薩摩兵であるらしい敵の攻撃が緩む気配も薄く、退却するにも困難が付き纏う状況である。
「隊列を組んで行軍する余裕はない。それぞれ散開して退却するとしよう」
 敵味方の放つ銃声の合間にそう言うと、樽井は未だ激戦の最中にある自軍の陣営を見渡した。
 纏まって引き揚げたとしても、纏めて追撃の的となる。
 小銃の撃ち合いは今も続いており、間もなく弾薬も底を尽くだろう。撤退戦を繰り広げながら城まで戻ることは不可能に近かった。
 加えて、地理不案内だろう官軍にとって、退いて行く樽井隊は二本松城下への格好の嚮導役ともなり得るのだ。
 樽井は暫し呻吟した後、眉間を一層狭めた。
「青山、和田。俺たちが守るべきは、主君のおわす城――。そうではないか」
 樽井の口調は、二人へ賛同を求めるものだった。或いは、不本意な退却の理由として、樽井自身が自らに言い聞かせたものかもしれない。
 二本松藩は既に殆どの兵を奥羽の同盟軍として城下外に送り出してしまっている。そして、各地に派遣された藩兵は未だ帰藩していないだろうとも思われた。
「此処で全滅するよりは、一旦引いて再起するのが得策……」
 樽井が言い終えるか否かのうちに、敵陣より再び砲声が轟いた。
 辺りの梢を軋ませる轟音は、泰四郎らの身体の芯をも震わせる。
「! 隊長、一刻も早く退却の号令を――」
「敵は最早壊滅寸前! 逆賊・二本松を殲滅せよ!」
 泰四郎の声に重なるように、敵隊長らしき人物の大音声が聞こえ、続けざまに喊声が上がる。
 その声は、極限まで追い詰められた二本松兵に止めを刺そうと、自軍の士気を鼓舞するものだった。
 見れば敵兵の中に、馬上の黒い獅子頭が爆風に悠と靡く。
「官賊輩め、ここを一気に潰しにかかる気だ」
 射程距離に対峙する樽井もまた、口惜しげに唸った。
「隊を解散しよう。ここから城下までは、幾つか間道がある。生き残った兵は思い思いの道をゆけ」
 草木の生い茂る中に身を隠しながら城下を目指せ、と樽井は言う。
 そうして、樽井は陣太鼓を手に持つと、けたたましく撥で打ち鳴らした。
 退却の合図だ。
「兵は皆、明朝、城下光現寺に集合せよ!! 撤退だ!!」
 樽井は一際声を張り上げると、颯爽と馬の背に飛び乗った。
 敵の銃撃に驚いて躍り上がる馬を往なし、樽井は周囲の兵を率いて退陣を開始する。
「俺たちも行くぞ、悦蔵」
「…………」
「おい、聞いてるのか!?」
 急き立てるように言ったが、悦蔵はそれには答えず、眉目を険しくして戦場を振り返った。
 樽井隊は後方から撤退を始め、最前列で小銃を使う兵は未だ退く気配も見せずに弾を撃ち続けている。
 悦蔵は敵陣に睥睨を投げ、早急に退却しようと促す泰四郎の手を払った。
「!? 悦蔵っ!」
「駄目だ泰四郎、定助がまだ前にいる……!」
「何だと!?」
 本来鼓手である定助が前線にいるはずがなかった。
 そもそも、身を潜めて伏せていろと泰四郎自ら指示していたのに、いつの間に前線などへ出て行ったのか。
 泰四郎は未だ幾多の硝煙が立ち上る前線に目を凝らす。
 定助がいた。
 従軍する以上、形として刀を佩いてはいるものの、銃撃戦でそれは役には立たないし、たとえ白兵戦であっても定助がそれを扱える冷静さを保っているとは思い難い。
 定助は身を縮めて胸壁の影を這いずっていた。
 そのすぐ傍らでは、定助と歳の近い二人の銃手が射撃の腕を揮っている。
 樽井隊に従軍する者の中では、定助が最年少だが、今土埃と硝煙にまみれて銃を構える二人も、まだ齢十七ほどだ。
 泰四郎よりも、悦蔵よりも年少の者たちだった。
「あいつら、何をいつまでもしがみついているんだ。ここで死ぬつもりか……!」
 このままでは退くに退けなくなる。
 すぐに退却させなければ、いずれ弾が尽きて敵兵に斬り伏せられるか、敵の銃弾に斃れるかの末路だ。
 まだ年若い少年である三人を放置したまま、先に逃げるわけにはいかないと思った。
 だが、見据える先の三人は、途切れることなく敵弾の飛び交う前線にいる。
 既に胸壁は崩れ落ちたものもあり、味方も撤退し出した今、彼らの許へ向かうのは困難だろう。
「くそっ、これじゃあ近付けやしない」
 泰四郎は、ただ身体の動くままに樽井隊の退路に目を向ける。
 既に退却を始めた樽井隊の生存兵は、その数を瞬く間に減らしていた。
 隊長である樽井は、今も馬上から兵に指示を下し、その退路を示している。
 相当の調練を重ねたであろう屈強な栗毛の馬だが、敵弾の激しさに驚いているのか、落ち着きのない様子で、時折樽井を乗せたまま躍り上がった。
 このまま退けば、生きて城まで戻ることは可能だろう。ここから城下までは、そう遠くはない。
 ――俺たちが守るべきは、主君のおわす城だ。
 退却を決意した樽井の言葉が、泰四郎の脳裏を掠める。
 守るべきは、主君と、その城。
 己自身よりも歳若の藩兵を見捨て、城へ急ぐべきか。
 だが、それでは大儀を盾に保身することと同義にはならないだろうか。
 泰四郎は奥歯を噛んで逡巡した。
「泰四郎」
 そんな泰四郎の心のうちに気付いてか否か、悦蔵は訝しげに泰四郎の名を呼ぶ。
 名を呼ばれ、泰四郎は改めて悦蔵の視線を真っ向から見返した。
 焦燥と、怯懦と、そして僅かな猜疑をも含んだ目が、こちらをじっと見詰める。
 泰四郎は思わず目を逸らし、歯を食い縛った。
「ちくしょう、このまま退けるかっ……!」
 呻くように口走ると、泰四郎は抱えていた銃をかなぐり捨てた。
 代わりに、腰の朱鞘からすらりと鈍色の刀身を引き抜く。
「こいつで斬り込んでやる。悦蔵、おまえは先に退け」
 言うが早いか、泰四郎は民家の影に飛び込み、敵軍の死角を素早く駆けた。
 無論、敵軍の背後に回りこむことは不可能に近かったが、側面に回ることは叶いそうだった。
 硝煙と土埃が噎せ返りそうなほどに蔓延していたが、血と臓腑の放つ異臭のほうが強い。
 戦とは、噎せ返るほどに血生臭い殺戮だ。
 敵は樽井の言った通り、やはり薩摩の軍だった。
 その側面に回りこんだ事で、泰四郎は漸く敵兵の様子を窺い知る事が出来た。
 当初、急襲したのは三春城に駐屯していた土佐兵だろうと踏んでいたのだが、その予測は外れていたのだ。
「泰四郎っ」
 小声ながらに緊迫した声音が泰四郎を呼んだ。
 僅かにぎくりと肩を竦めた泰四郎だったが、すぐに、敵兵が名を呼んでくるわけがないと判断して胸を撫でる。
 悦蔵だ。
 先に退却しろと言ったばかりだというのに、悦蔵もまた銃を捨て去り、抜き身を手にして泰四郎の後をついて来ていた。
 泰四郎は悦蔵の双眸を一瞥し、嘆息する。
「退けと言ったのに、この馬鹿め。……城には帰れんぞ」
「泰四郎だって同じだろ」
 そう揶揄するように言った悦蔵の喉が、ごくりと固唾を飲み下す。
 ――自分自身の意思というものがないのか。
 常に泰四郎と同じ道を選び、同じ選択をする。
 そんな悦蔵に、いつしか抱いていた軽い侮蔑。
 それを今、泰四郎は悔いていた。
 泰四郎に倣い、後をついてくることは、能のない者の猿真似に過ぎないと思っていた。だが、悦蔵に限っては、それは当てはまらないということが漸く分かったからだ。
「覚悟の上か」
「覚悟がなくて、こんな選択が出来るかよ」
 悦蔵はその柔和な顔立ちに似合わぬ剛毅な笑みを浮かべ、泰四郎もまたつられるように笑う。
 間近で繰り広げられる銃撃戦の騒音が、耳に煩わしかった。
 ――やはり、こいつは怖い。
(俺の後をついて来ているようで、とうに俺を追い越していやがる)
 泰四郎は軽い戦慄を覚えた。
 これから踏み込もうとしている敵軍に対してではない。
 昔からの馴染みである、悦蔵その人に対してだ。
 払暁の銃撃戦ではあれだけ尻込みしていた奴が、今は何の恐れも感じていない様子なのだ。
 少なくとも泰四郎は、恐ろしくて堪らないというのに。
 退くか否かの逡巡を断ち切って尚、泰四郎は自らの戦死が恐ろしかった。
 だが。と、泰四郎は崩れかけた民家の土壁に背を添わせて敵軍の兵を見遣る。
「ここで戦わずして、のこのこと城下になぞ帰れるものか」
 斬り込むと決めた自らと、それについて来た悦蔵の手前、今更怯懦は吐けなかった。死地の戦慄を呑み込み、泰四郎は得物の刃を返して呟いた。
 悦蔵もまた、袴の帯を固く締め直して腰の朱鞘の位置を整えた。
「泰四郎。どちらが多く敵を斃すか、これで競うぞ」
「臨むところだ」
 言葉短な会話が終わるか否かで、二人はほぼ同時に物陰を飛び出した。

     ***

 敵は全くの不意を突かれた。
 今まさに、白兵戦へと切り替わろうとした矢先のことで、樽井隊壊滅への止めとでも言うかのように敵方の白兵が繰り出したところだったのだ。
「くたばれ、官賊輩!」
 己の声とは思いがたい、地鳴りのような咆哮と共に泰四郎の大柄な体躯が跳躍する。
 退却を始めた二本松藩士が未だ民家の陰に潜んでいようとは思いもしなかったのだろう。薩摩兵は驚愕の声と共に散開した。
 だが、それよりもまだ、不意を突いた泰四郎の剣のほうが幾分も速い。
 飛鳥の如く躍り出た泰四郎の刀は、瞬く間に一閃し、数人の喉笛を切り裂いた。
 夥しい鮮血が迸る瞬間、泰四郎はくるりと身を翻して更に白刃を閃かせる。背に生暖かい飛沫が跳ねた。
 二の太刀も、飛び退き遅れた数人を斬り付けた。
 一人は眼を、一人は顔から肩を、そして一人は胸部を斬る。
 返す刀であった割には、どうやら深手を負わせることが出来たらしい。
 両眼をやられた者は地に崩れてのた打ち回り、胸部を斬られた者は鮮血の中にその白い骨を覗かせるのが見えた。
 泰四郎の刀はその膂力に見合わせて、身幅も厚く、やや重厚なものである。
 昔日からの鍛錬の賜物だろう。
 実戦経験のない道場剣術と言えど、実戦に耐え得るだけの力は確実に備わっている。
 多勢に無勢。形勢は明らかに泰四郎らの不利だが、泰四郎の体力・剣技はそれを補って余りある。
 敵勢は慄いてどよめき、その統制を欠く。
「うああ! 奇襲じゃ!」
「退け! 早う退かんかっ!」
「気をつけろ、手強かぞ!」
 口々に叫び、中には銃を放り出して陣の後方へ逃げ込む者もいた。
「何をしている、相手はたったの二人! 恐るるに足らん、怯むな! 討ち取れ!」
 恐らく敵大将であろう人物の怒声が轟く。
 敵兵は瞬時に三々五々に散らばったが、流石に調練の行き届いた薩摩軍だ。すぐに各々が体制を立て直し、泰四郎と悦蔵の二人に襲い掛かった。
 それを、泰四郎は横に薙ぎ払い、振り下ろし、斬り上げる。
「悦蔵、決して突くな!」
 泰四郎は声を張り上げた。
 突けば、刀身を引き抜く間の隙が出来る。敵は数限りないのだ。突きを食らわせようものなら、後手にやられるのは目に見えていた。
 剣戟が止むことは無く、鉄の弾き合う鋭い音が絶え間なく響く。
 斬り込んだ二人の気迫に怯んだのか、銃声は何時の間にか止み、それは今や激しい剣戟に代わっていた。
 ちらりと見遣れば、前線に取り残された三人の少年たちの姿が見えた。
 無事だ。
「早く退け! 退いて城を守りに行け!」
 そう叫んだ矢先、泰四郎の右肩に激痛が走った。
「――っ!」
 泰四郎は短く呻いた。
 撤退勧告に少々気を削がれた隙を突かれた。
「泰四郎っ!」
 呻いた声を聞きつけ、悦蔵が呼ぶ声がする。
 ほぼ同時に、少年たちが口々に泰四郎の名を叫んだのが聞こえた。
「無事だ、気にせず行け!」
 感覚だけでも相当深く斬り付けられたことが分かったが、泰四郎は咄嗟にそれを気取られまいとして叫んだ。
 肩の創からは血潮が噴き出し、刀を握る右の手にまで痛みが走る。
「くそ、手が利かん!」
 そう思うや、泰四郎は素早く刀を左に持ち変え、二の太刀を打ち込んで来た敵の刃を受け止める。
 と、またも別方向から泰四郎に迫った敵兵の白刃を、悦蔵の得物が弾き飛ばすのが見えた。
 耳を劈くような金属同士の擦れる音が響き、泰四郎は思わず目を眇める。
 弾いただけでは留まらず、泰四郎の目の前で悦蔵はすぐさま刀身を翻し、相手を上から斬り下げた。
「泰四郎、大丈夫かっ!」
「心配要らん!」
 泰四郎が負傷したことで、悦蔵も出来うる限り泰四郎のほうへと身を寄せる。
 よほど泰四郎が気に掛かっているのだろう。それまで無勢にも拘らず、至極有利な接近戦を展開していた悦蔵も、泰四郎の負傷に気を削がれて圧され始めていた。
 既に何人もを斃した刀は、とうに敵を斬り伏せるだけの威力は残っておらず、ただ刃を交えるのみで、全く埒が明かない。
 泰四郎の息も上がり、徐々に疲労が増してくるのが分かる。
 だが、定助らが退却したのを見届けるまでは斃れることは出来ないと思った。
 そうでなければ、決死の覚悟で飛び込んだ意味がまるでなくなってしまうからだ。
 悦蔵も呼吸は大きく乱れていた。
「悦蔵、もう退け!」
「泰四郎が退くなら俺も退く!」
 疲労困憊する中でもはっきりとそう断言する悦蔵に、泰四郎は苛立ちながらもやはり呆れざるを得なかった。
 すると突如、止んでいたはずの銃声が再びけたたましく鳴り出す。
 敵が銃撃を再開したのだ。
(まずい……!)
 心の蔵が、一瞬どくんと縮み上がった気がした。
 再び定助らに逃げよと指示を叫ぼうとしたが、泰四郎が声を発するよりも先に、定助の悲鳴が上がった。
 まさか撃たれたかと思ったが、それは定助ではなく、共に前線でたった今まで銃を構えていた二人の少年のほうだった。
 二人の少年が相次いで土埃の中に倒れ臥すのが、泰四郎の視界の隅に映る。
 その傍らに、定助の狼狽する姿があった。
 激しい動揺のためか絶叫とも悲鳴ともつかない声を上げて、尻餅をついたまま後退る定助。
 敵弾を受けたらしい二人の少年が倒れる様には、泰四郎もぎくりと身の強張る思いがした。だが、それに構っている余裕は泰四郎にも悦蔵にも与えられない。
「何をしている、早く逃げろ馬鹿野郎!」
 泰四郎と悦蔵、たった二人の斬り込みで数多の敵兵を斬り伏せたが、それももうあと幾許も持つまい。
 逼迫した泰四郎の声に続き、悦蔵が更に退却を促す。
「無事ならおまえだけでも逃げろ、後ろを見ずに走れ!!」
 すると漸く、定助もこけつまろびつしながら這いずるように撤退していく。
 悦蔵も既に何人もを斬っているようだ。
 敵の血と膏とで、泰四郎の刀も切れ味を相当に損ない、その殺傷力は著しく削がれていた。
 骨をも絶たれたような右肩の痛みを堪え、泰四郎は左手の刀を振り翳した。
 蒸し暑さと緊迫から溢れ出る冷や汗とが、泰四郎の視界を濁し始める。
 敵の銃撃も一層激しくなった。
 三十程度は残っていただろう二本松藩兵も、その止めの銃撃で更に数を減らした。
 最期まで胸壁で銃戦に当たっていた味方が被弾し、最早、敵に噛み付かんとしているのは悦蔵と泰四郎の二人のみとなった。
 敵は的を絞る。
 気付けば薩摩兵たちは殆ど白兵を引き下げ、銃撃態勢に戻っていた。
 泰四郎の脳裏に、ふとその後の展開が浮かぶ。
 一斉射撃が来る――。
「いかん、退却だ悦蔵!」
 残る白兵の刀を夢中で弾き飛ばし、泰四郎は崩れた胸壁を飛び越えた。
 悦蔵も事態を呑み込んでいたのか、泰四郎の呼びかけと同時に最後の一振りを敵兵に浴びせて飛び退る。
 指揮系統と軍備、調練の一切が隅々まで行き届いた敵軍の、豪雨のような射撃が始まったのは、それとほぼ同時だった。
「泰四郎っ、悦蔵――っ! もう良い、引き揚げろ!!」
 この場より遥か遠く、退路の殿になるまで、樽井は馬を宥めて留まり続けていた。
 樽井は定助を自らの馬に乗せ、残る二人の壮士に最後の退却命令を下すとすぐに馬腹を蹴った。
 ピュンッと鋭く空を切り裂く敵弾が、泰四郎の耳許を掠めていく。
 敵正面を逃げるよりも、胸壁や民家の間を逃げたほうが無難と即座に判断し、泰四郎は無軌道に駆けた。
 無論悦蔵もその直後に同様の退却を始める。
 だが――
「! く……!」
 嵐のような弾を避けきれず、敵弾は泰四郎の腕を掠め、脇腹の肉を抉った。
 そのたびに、ぐらりと身体が傾げそうになるのを踏み堪えて、退路を駆けに駆けた。
 腹の底が冷え切る思いがした。
「馬鹿め、逃がすな! 早う当てんか!」
 命令とも罵声とも言える敵隊長の声が、苛立ちも顕わに怒鳴った。
 白兵を悉く斬った泰四郎らに対しては、敵も躍起になって斃しにかかっているらしい。
 今、命を永らえているのは、単に運そのものだ。覚悟はもとより決めてはいたが、生きた心地がしないとはこういうことか、と泰四郎は倉皇とする中で感じていた。
 山間の農村の、僅かな平地から山道へ入るまでの距離が、やたらと遠く思える。
 銃撃にはやや規則的に波があった。負傷直後に第一波が弱まったのとほぼ時を同じくして、すぐ背後からどしゃりと土を滑るような音がした。
 泰四郎は、遅れてついて来ているはずの悦蔵を振り返り、愕然と瞠目する。
「!? ――悦蔵っ、おまえ……!」
 見違えるばかりの奮迅を見せていたはずの悦蔵が、苦痛に顔を歪めつつも、渾身の力で尚その身を起こしかけたところだった。
 瞬きするよりも早く、泰四郎の目に悦蔵の銃創が飛び込む。
 肩と腹部、そして腿のあたりから鮮血が噴出していた。
「三発、くらった」
 青褪め引き攣った笑顔を上げて、悦蔵は短く言う。
 言って直後にその目は大きく見開かれ、ごぽりと不気味な音を立てて血を吐いた。
 どろりと赤い血が、地面に叩きつけられるように落ちる。
 泰四郎の全身に、かつて覚えたことのない戦慄が走った。
「――来いっ、悦蔵!」
 泰四郎は臓腑の凍っていくような感覚に襲われながら、悦蔵を抱えるようにして夢中で駆けた。
 一刻も早く、この場から逃れなければ――。
 でなければ、待ち受けるのは死のみ。
(死ぬな――)
 己の銃創もまた、酷く疼いていた。

     ***

 這々の体で戦場を離れた二人は、緑の深い下生えの深い木を選んで倒れ込んだ。
 日の差さない山道は、一昨日の雨のせいで酷くぬかるみ、重傷を負った身体で歩くには足場が悪すぎた。
 腿と腹を撃たれた悦蔵は脚に殆ど力が入らないようだったし、それを支えて歩く泰四郎もまた、肩と脇腹に深い銃創を負っているのだ。
 銃声は、もう聞こえてはこない。
 聞こえるのは風にざわめく木立の音と鳥の声、そして悦蔵の喘鳴だけだ。
 ただ、ふと仰いだ上天、木々の枝葉の合間から、立ち上る黒煙が見えた。
 上之内のあの村を、焼き払っているのだろう。
 食糧や、少しでも値打ちのありそうなものを略奪してしまえば、樽井隊を壊滅寸前にまで追い込んだ今、薩摩軍は村に用などないのだから。
 もう殆ど斬れなくなった刀を放り出し、泰四郎は悦蔵の負った銃創を看る。
 腹部の傷は完全に背から腹にかけて弾が貫通していた。
 だが、肩と腿の銃創は骨に当たって、まだ弾が残っているらしい。
 いずれも出血は止まる気配もなく、夥しい量だった。
 泰四郎もまた、肩や脇腹に受けた傷から血を流してはいるが、悦蔵のそれほどではない。
 激しい苦痛は伴うものの、まだ歩くことも話すことも出来る。
 まだ刀を振れるだけの余力もある。
「悦蔵、大丈夫か」
「…………」
 声を出すことも思うに任せないようで、悦蔵は喘鳴の中、首を小さく縦に振って見せるのみだった。
 その状態は決して大丈夫なものではないと、泰四郎は即座に感じ取る。
 苦しげに繰り返す乱れた呼吸も、随分脆弱になっていた。
 早急に止血しなければ、程も無く落命するだろう。
 仰向けに倒れた悦蔵の顔色は蒼白になっており、そのせいで吐血の跡がいやに鮮やかに見える。
「おい、しっかりしろ! もう戦場は離れた。あとは城へ帰るだけだぞ!」
 双眸を閉じて苦悶する悦蔵の頬に触れ、泰四郎は懸命に励ました。
 焦りのためか、ややもたつく手で自分の額から白木綿の鉢巻を解く。
 白地に黒の丹羽直違紋が一つ染め込まれていたものが、汗を吸って埃にまみれ、薄汚れていた。
 それを悦蔵の腿の付け根に、力一杯引き絞って結び付ける。
 その圧迫に新たな痛みを伴ったのか、悦蔵は殊更に顔を顰めた。
 ここへ来るまでに悦蔵が流した血の量に比べれば、最早その程度の応急処置が効果を成すとは考え難い。
 そして腹部と肩の傷は、もう手の施しようがなかった。
 何か使えそうな物はないかと辺りを見回し、自らの衣装を探っても、何も出て来はしない。
 持ち物といえば、僅かな水を入れた竹筒が一つと、殆ど刃の潰れた刀のみ。
 瀕死の重傷を負った悦蔵に何もしてやれないことが、ただただ口惜しかった。
 いつもへらへらと笑っていた悦蔵が苦しむ様は、一層見るに耐えない。
 今ここに、馬の一頭でもあれば――
 そう思ってみても、馬など影も形もない。
 激戦に驚いて樽井隊から逸れた馬もあったはずなのに、もうとっくに遠くまで逃げてしまったのだろう。
 馬さえあれば、悦蔵を乗せて城下へ戻ることが出来るのに。
 呻吟する泰四郎の手に、不意にひやりとしたものが触れた。
「定助、たちは――」
 冷たい感覚を伝えたのは、悦蔵の手だった。
 泰四郎の手に触れたかと思うと、探るように握り締める。焦点の定まらない目を微かに開け、悦蔵は前線に取り残されていた少年達の安否を尋ねたのだった。
 咄嗟に、泰四郎は両手で悦蔵の手を握り返した。
「大丈夫だ、樽井隊長が率いて無事に退却した」
 無事に退却したのは、取り残されていた三人のうち、定助ただ一人だったのだが。
 他の二人が既に戦死したことを、あえて口に出すことは出来なかった。
 泰四郎の返事に安堵したのか、悦蔵は紫色を帯び始めた唇で微かに笑う。
「泰四郎は、怪我……大丈夫か」
「俺は何ともない。掠った程度だ」
 数発の弾は受けたが、深いものは右肩の傷のみで、他は衣服を裂くか皮膚を掠った程度の軽傷だ。
 泰四郎がひとまずあの死地を潜り抜けたことに、悦蔵は一言「良かった」と呟くと、苦しげな呼吸の下で更にその声を絞り出す。
「俺は、も……駄目だ」
「馬鹿を言え、俺は城下へ帰るぞ。おまえも帰るんだろうが!」
 既に力を失くした悦蔵の手を、泰四郎は殊更強く握り締めた。
 辺りは先日の雨の湿気と、残暑の熱気とで草いきれが立つほどだというのに、握り締めた手は酷く冷たい。
 その冷たさが、そのまま恐怖となって泰四郎の手に流れ込む。
「そうだ、止血に効く薬草があるはずだ。血止め草……ああ、オオバコならこの辺にもあるだろう、すぐに探して……」
「たいしろ……血止めは、オトギリソウ。オオバ…コは、腹痛、だろ。ちゃんと、覚えとけって」
「オトギリソウか、オトギリソウだな!? きっとある、すぐに探してきてやる!」
 待っていろ、と言い聞かせて傍を離れようとした泰四郎の手を、悦蔵は力の萎えた手で引き止める。
 異様なほどに青白い悦蔵の顔がこちらを向いていたが、最早その焦点は合ってはいなかった。
 血を流しすぎたのだろう。悦蔵は虚空を見詰め、口の動きだけで「行くな」と呟く。
「まだ敵が…――」
 辺りに潜んでいるかもしれない、と忠告したかったのだろう。
 それを皆まで言えず、悦蔵は激しく咳き込んだかと思うと、再び赤い血液を吐いた。
「悦蔵……!」
「……泰四郎、早く……行け」
 全身の血が流れきってしまうのではないか。そんな不安に駆られる泰四郎に、悦蔵はほんの僅かに語気を強めて退却を促した。
 これが、いつもこちらの都合などお構いなしに引っ付きまわっていた悦蔵の言葉なのか。
 泰四郎は顰蹙も顕わに悦蔵を叱咤する。
「こんなところでぶっ倒れる奴があるか! おまえ、いっつも俺に引っ付いて来てただろう。俺の後について、城に帰るんだろ!」
 悦蔵の虚ろな目を覗き込み、必死で呼びかけた。
 その激励の声は、動揺と不安とで大きく震えてしまう。
「城に帰れば、きっと今度は城下で戦うことになるんだ。おまえ、さっき何人斬ったか数えたか? 数えてないだろ? そんな余裕、なかっただろう?」
「泰、四郎」
「俺もだ。俺も自分が何人斬って、そのうち何人斃せたか、さっぱり数えていないんだ。城下戦で仕切り直さないか? なあ、どっちが多く、敵を斃す、か……」
「…………」
 急に視界が潤んで、悦蔵の表情すらよく見えなかった。
 昔よく泣いていた悦蔵でさえ、もう何年も泰四郎の前で涙を見せたことなどないのに。
 気付けば、泰四郎は悦蔵を励ましながら、滂沱と涙を流していた。
「おまえの目指すのが俺だというなら、城までついて来い……!」
 矢継ぎ早に語りかけた泰四郎の声は、涙に咽んで潰れかけていた。
「泰四郎……。ごめん、……もう、無理だ」
「無理でも何でも、城下へ帰るんだ、馬鹿!」
「死ぬまでに……、一度くらい、勝ってみたかっ、――」
「――――」
 悦蔵の、か細い声が途切れた。
 悦蔵の手を握り締めたまま、泰四郎は己の全身から引き潮のように血の気が失せた気がした。
 伏し目がちに双眸を開いた悦蔵は、それきり瞬きをしなかった。
 強く握った手には、既に脈打つ気配もない。
「悦蔵……、悦蔵っ!!」
 声を荒げて呼んだが、もう二度と返事が返ってくることはなかった。

     ***

 血に汚れた悦蔵の顔を、泰四郎は汗と埃にまみれた袖で拭ってやり、間道を大きく外れた大木の根本に安置した。
 埋葬してやるには地に穴を掘らねばならない。
 素手で地面を掻いてみたが、木の根が邪魔をして、人を一人埋葬できるほどの穴はとても掘れそうにないことを知ったのだった。
 大木の下生えに埋もれるような格好で、仰向けに横たえられた遺体の上に、その遺品を整える。
 刃はぼろぼろに刃毀れし、幾多の敵を斬った刀身も激しく反りを歪めていたが、泰四郎は悦蔵の腰に括られた鞘を抜き取ると、何とか刀身を鞘に収めた。
 時は既に日没に近い頃なのか、緑の深い山中には薄暮の闇が漂い始める。
 既に、上之内の方向からは何の気配も感じられなくなっていた。
 村の食糧を奪い、用済みの村を焼き尽くし、敵は恐らく三春方面へと引き揚げていったのだろう。
 山中はひっそりと静まり、戦場のあの喧騒が嘘のようだった。
 未だ薄く開かれたままの悦蔵の瞼にそっと手を当て、静かにその双眸を眠らせる。
 それから、泰四郎は朋友の亡骸に寄り添うように座り込み、命を終えて間もないその顔をぼんやりと眺めた。
 共に生きてきたと言っても過言ではない、竹馬の友。
 今に、いつもの調子で起き上がってくるような気がしたが、何時まで待ってもその目が再び泰四郎を見ることはなかった。
 同じ戦場を死地として、何故悦蔵だけが死なねばならないのか――否、悦蔵だけではない。樽井隊の殆どの者が命を落とした。泰四郎のように辛うじて生き延びた者は、稀であるに違いなかった。
 死を覚悟しながら共に戦った仲間は、その殆どが戦死した。そうにも拘らず、死ぬつもりで飛び込んだ己が、何故今生きているのか。
 慙愧と悲嘆とが渦巻いて、何も考えることが出来なかった。
 自らもまた重傷を負っているが、その痛みすら感じることの出来ないほどに、泰四郎は哭ないた。
 身中の膿をすべて抉り出すかのように――。

     ***

 上ノ内を払暁に襲撃したのは、薩摩四番隊、川村与十郎の率いる一隊であった。
 川村は敵を殲滅し、灰燼に帰した山間の小さな村落を眺め渡す。
 戦の過ぎた戦場は、どこも同じだ。
 あるものは瓦礫と化し、あるものは炭同然にまで悉く燃え尽きた。踏み荒らされた田畑と、焼けた土。泥を被り破損した、がらくたのような武器弾薬。積み重なった屍。
 様々なものが焼け、辺りは深い森の匂いを凌駕して尚余りある異臭を漂わせていた。
「川村隊長、遺体はどげんしたらよかですか」
「適当な場所に葬ってやりゃあよか。……ああ、ただ、敵さんには野晒しで我慢してもらうしかなかが」
 川村が言うと、部下は少々怪訝に眉を顰め、曖昧な返事をした。
 敵兵の弔いまで気に掛けるのが、聊か腑に落ちなかったのだろう。
 察しながらも川村はそれを咎めることはせず、ただ小さく息を漏らした。
 ――奥羽征討。
 その名目のもとに軍を進め、もう幾月が立っただろうか。
 訪れる先々で、もう幾度見たかも知れない光景だった。
 兵卒は皆、焼け残った民家から僅かな食糧や金品を持ち出し、それぞれの取り分として懐に入れる。尤も、こんな辺鄙な村に豊かな物資は無いも同然だったが。
 食糧があれば腹に入れ、逃げ遅れた女がいればそれを慰みにする。
 これまで行軍してきた中でも、それが当然のように罷り通っていた。
 時代の今昔、洋の東西を問わず、戦というのはそんなものだ。大義名分こそ違えど、戦場の悲惨さにおいて大差などない。
 どんな大義のもとに戦っても、結局、その大義名分の手足となる兵卒たちの所業は、賤しく浅ましいものなのだ。
 兵は誰もが、死の気配を背筋に感じながら戦場に立つ。
 良識から逸脱した行動に出ることで、身近に迫る死の臭いから気を逸らすのだろう。
 人の精神などは極めて脆弱で、兵を統率する隊長としても、現状を慨嘆しつつもそれを黙認せざるを得なかった。
 先を競って民家に踏み入る兵卒たちを眺め、男は微かな渋面を作る。
「さっさと終わればよか。こげん戦は」
 目指すは会津。隣国の国境をようやっと突破したばかりだ。
 季節が過ぎ去れば、じきに雪も降り始める。
 南国の者には慣れぬ、北の戦。まして冬の戦場ともなれば、聊かの不利も生じることだろう。
 そう考えれば、手早く終息に向かわせたかった。
 実を言えば、この払暁戦も川村の独断専行であり、三春に駐留する土佐藩の大隊からの許可は得ていないものだ。
 だからこそ二本松兵の目を欺き、その不意を突くことで圧倒的勝利を収めることが出来た。
 今も三春にいるはずの、土佐藩兵を率いる板垣などは、まだこの戦を露とも知らぬだろう。
 ここに来るまで、多くの小藩が不戦のうちに帰順している。
 だが、白河城の攻防戦から戦い続けている二本松藩は、そう易々と降伏しそうにはなかった。
 故に、川村はこの奇襲を仕掛けたのであった。
 それはある種の降伏勧告とでも言うべきか。
(……いいや、そや皮肉ちゆうもんか)
 速戦即決の隊長には似つかわしくもない、寂しい自嘲が込み上げた。
「隊長!」
 つい先程遺体の処理を尋ねてきた一兵が、再び駆け戻った。
 その手に、泥のついた朱鞘を携えているのが目につく。
「おお、日高か。なんじゃ、そいは」
「森の手前で見付けもした。恐らく、さっきの二人のどっちかが落としていったもんと思われます」
「さっきの――」
 朱鞘の二人、壊滅寸前にまで追い込まれた状況の中、果敢にも白兵で斬り込んできた二人の青年がいた。
 思い起こすまでもなく、その姿は瞼に焼きついている。
「どげんしますか。あげなに強か敵じゃったら、追って仕留めたほうがよかじゃっどがか」
「いや、それには及ばん」
 そう言って、男は部下の手から朱鞘を取り上げた。
「見てみらんや。奴らのせいで何人もやられとる。追手のほうがやられてしまうじゃろ」
 促し、また促された眼前の光景の中には、賊軍兵の亡骸に混じって、確かに斬り斃された官軍兵の亡骸が数体、転がっていた。
 川村隊所属の日高壮之丞という青年は、言われるままに辺りを見渡し、やがてその視線を川村に戻す。
「そぉじゃっちなぁ、おいも先の斬り合いでは背筋が寒くなりもした。もうちっと前列にいたら、今頃おいもあの中にいたはずじゃっじ」
 二人の青年の決死の斬り込みを受け、命辛々助かった者も多いが、中には腰が抜けて立ち上がることも出来ない者も見られる。それを思えば、この日高などは肝の据わったほうだろう。
 さっきからいそいそと事後処理に動いているらしいが、日高は戦後の略奪行為に参加しようという素振りは全く見せない。ふとそのことに気付いて、川村は問う。
「のう日高。わいは何も取らんのか?」
 戦火に焼き払われたとは言え、農村なら幾許かの食糧ぐらいあるだろう。
 だが、日高は困ったように一笑するのみ。
 それから手にしていた朱鞘を川村に手渡すと、今度はまた負傷した味方の兵に手を貸すべくその場を離れて行ったのだった。


【五.御城下の戦】へ続く
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