伯爵様のひつじ。

たつみ

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後編

罪人に番人に 4

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「たいしたことないのに」
 
 家に帰り、ファニーは傷の手当を受けている。
 とはいえ、大袈裟にするほどの傷ではない。
 牧場で働いていればめずらしくもない「ちょっとした」擦り傷だ。
 それでも、ナタリーは、食堂のイスに座っているファニーの前にひざまき、丁寧に膝に傷薬を塗っている。
 
「あのさ、ナタリー……亡くなったのは、ナタリーの親族?」
「それに近しい者にございました」
 
 本当に血が繋がっているかは関係ない。
 それくらいに近い関係の相手だったのだと、ファニーは思う。
 だからこそ、言葉が見つからなかった。
 
 自分も父を殺されている。
 身内を失う悲しみはわかる。
 
 そんなふうに言うことはできるかもしれない。
 だが、感情はそれぞれで、喪う痛みもファニーのものとは違う。
 簡単に「わかる」はずがないのだ。
 感覚としては似通ったものを持っていても、言葉にすると別物になってしまう。
 
「ファニー様……伯爵様は、大丈夫でしょうか……?」
 
 ナタリーが、不安そうな表情をしていた。
 あの「黒いの」のことを心配しているに違いない。
 確かに、あれは危険だ。
 負の感情にのみこまれそうになる。
 
「大丈夫だよ」
 
 ファニーは、しっかりとうなずいた。
 ナタリーを安心させるための嘘の答えではない。
 伯爵の瞳を見たので、確信がある。
 
「大丈夫。伯爵様は、ちゃんと戻って来る」
 
 こくっとうなずくナタリーを見てから、ファニーは立ち上がった。
 それから、ナタリーに手を差し出す。
 ナタリーの手を掴み、ぐいっと引っ張り上げた。
 
「ちょっと思い出したことがあるんだ。ナタリーも一緒に行かない?」
「どこへなりとお供いたします」
「前に言ったと思うけど、闇夜の森だよ? 怖かったら……」
「いいえ、少しも怖くはございません」
「そっか。じゃあ、一緒に行こう」
 
 手を繋いで、家から出る。
 忙しくなったこともあったし、ナタリーを心配させるかもしれないと思い、長く行かずにいた。
 3ヶ月以上も間が空いたのは、初めてだ。
 
 慣れた道を、どんどん歩いて行く。
 少しずつ周りが暗くなっていた。
 夕陽の光も葉の繁った木に隠され、ファニーたちまでとどかなくなる。
 
「私は、ここが怖いと思ったことないんだよね。みんなが、なんで怖がるのか不思議だった。父さんとお祖父さんは、怖いっていうより悲しくなるからって嫌がってたんだけど」
「悲しいのは……嫌ですね」
「そうだね。嫌だね。つらいし、苦しいしさ」
 
 話しながら、森の奥へと入って行った。
 もう少し行けば到着だ。
 
「あのさ、ナタリー。食堂に4つイスがあるでしょ? 私のと、母さん、父さん、お祖父さんのイス。最初に母さんのイスが空いて、次がお祖父さん、父さんのイスも空席になって、使うのは私だけになってた。ちょっと前までね」
 
 けれど、今は伯爵や、時々はナタリーも座ってくれる。
 最初は同じ席に着くのは「メイドとして」駄目だと言われたが、「友人として」お願いをすれば座ってくれるのだ。
 そして、2人で「内緒話」をする。
 
「日々の暮らしは変わってく。誰かのイスに誰かが座ってくれることもある。でも、心の空席には誰も座れないんだよ」
「心の空席、ですか?」
「心の中には、母さんや父さん、お祖父さんのイスがいつでもあってさ。そこが空いても、誰も座れない。そこは、その人の席だから」
「ですが……それですと、ずっと空席のままになってしまいます」
「そうだよ。それで、いいんだもん」
「よろしいのですか?」
「空いた席に気づくたびに思い出すでしょ? あの人がいたなぁって。そりゃあ、悲しくなっちゃうけどさ。そのほうがいいんじゃないかな。たぶんね」
 
 悲しいことや、つらいこと、苦しいことは嫌だ。
 忘れてしまいたくなることもある。
 実際、食堂のイスを見るのも嫌だった時期もあった。
 
「父さんなら、悲しんでないで働けって言うかもしれない。でも、死んじゃった人が、どう思うかなんてわからない。だから、私は忘れてる時は忘れてるし、思い出して悲しくなったら、つらくなったり泣いたりすることにしたんだ」
 
 ナタリーの手を離し、大きな木に、ぎゅっと抱きつく。
 ナタリーが小さく体を震わせたことには気づいていない。
 木の幹に頬をあて、目を伏せているからだ。
 
「伯爵様の闇はね、悲しくて悲しくて深い恨みもこもってて、悔しい悔しいって嘆いてて、でも……すごくすごく優しかったよ。闇夜の森も闇の防壁も、伯爵様の闇は優しい」
 
 伯爵が眠りについてからも、闇の防壁が半島を守ってくれた。
 闇夜の森で、ファニーは獣に襲われたことがない。
 
「あんなに苦しんでるのに、伯爵様は私たちを守ろうとしてくれてたんだね」
 
 それは「法の番人」だったからではないのだろう。
 オスカー・キルテスという人が、そういう人だったのだ。
 
 強くて冷徹で、正しくて厳しい。
 けれど、やっぱり優しいのだ、伯爵は。
 
「伯爵様はすごいよなぁ。私なんてさ、未だにポールが生きてたら、棍棒で殴り飛ばしてやりたいって思ってる。罰っせられて命まで取られてるのに、ぜーんぜん許せてないんだもん。もういないってわかってても、あいつらのせいでって思っちゃうんだ。だから、伯爵様はすごい。恰好いいしね」
「ファニー様は、本当に伯爵様がお好きでいらっしゃいます」
「そう! 大好き! どんな伯爵様も大好き!」
 
 ちゅっと、木の幹に軽く口づける。
 伯爵がした額への口づけを思い出したからだ。
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