血と束縛と 番外編・拍手お礼短編

北川とも

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番外編 拍手お礼41

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 まだ完全に塞がっていない傷が、酒を一口飲むたびにズキズキと痛む。
 忌々しさに小さく舌打ちしかけた鷹津だが、右手に巻かれた包帯に視線を落とし、寸前のところで唇を引き結ぶ。
 気分的には最悪に近かった。切りつけられた右手の傷のせいで、何をするにも不便さを感じ、だからといって署内では鷹津を気遣う人間がいるはずもなく、こんな状態でありながら、仕事は山積みだ。
 世間は五月の連休に突入したというのに、管轄の暴力団組織の動きは相変わらず活発で、おかげで暴対の刑事たちも神経を尖らせることになる。
 誰よりもヤクザを憎んでいる鷹津も例外ではない。表向きは。
「――先生に叱られますよ。酒なんて飲んでいると」
 酒の味と傷の痛みを交互に堪能していると、背後から苦笑交じりの声をかけられる。スカした口調の主をあえて振り返って確認するまでもない。鷹津は軽く鼻を鳴らして応じた。
「〈あいつ〉がそこまで、俺の体を気遣うとは思えないがな。痛いのはあんただから、ご勝手にどうぞ、ぐらいの憎まれ口は言うだろ」
「ああ、先生なら言いそうだ。優しい人のくせに、その優しさを恥じている節がある」
 隣のスツールに腰掛けた秦の言葉に、内心鷹津は感心した。美貌の美容外科医の気質をよく理解しているからこその言葉だと思ったからだ。
 だが、口から出たのは感嘆の言葉ではなかった。鷹津は、横目でじろりと秦を睨みつける。
「誰が、隣に座っていいと許可した。これだと、俺とお前が一緒に飲んでいるようだろ」
「そう邪険にしないでください。鷹津さんにとってわたしは、数少ない飲み友達でしょう」
「……鳥肌が立つようなことを言うな」
 鷹津が低い声で吐き捨てると、秦は軽やかな笑い声を立てる。
 華やかで艶っぽく、軽薄そうでありながら、どこか掴みどころのない秦という男は、鷹津を恐れない。鷹津が持つ刑事という肩書きにも、長嶺組との浅からぬ縁にも、特に関心がないようだ。
 しかし唯一、鷹津が佐伯と体の関係があることを、やけに好意的に捉えているようだ。
 それはどちらかというと、鷹津に対してというより、秦個人が、佐伯に対して好意的であり、関心を持っているが故の感情なのだろう。
 なんにしても、鷹津と秦の関係は、険悪ではなかった。気が向けば、こうして並んで酒を飲める程度には。
 いつもは、秦が経営している店に押しかけてタダ酒を堪能するのだが、つい先日、そのせいで右手を負傷する目に遭ったため、さすがにしばらくは自重することにした。鷹津としても、命は惜しい。
 こんなツラをして、一体誰に恨まれているのかと、鷹津は冷めた視線を秦の横顔に向ける。涼しい流し目で返した秦が小首を傾げた。
「どうかしましたか?」
「……こんな時間から、店をいくつも経営している実業家が優雅に酒なんて飲んでいいのかと思ってな」
「どの店も、店長がしっかりしてますからね。あんな騒ぎがなければ、連休中は国外脱出でもしようかと思っていたぐらいで」
「母国への里帰りか」
 さすがというべきか、鷹津がさらりと投げつけた言葉の爆弾にも、秦は微塵も動揺を示さない。それどころか、見事に無視された。何度か一緒に飲んでいて、この男のこういう反応にも慣れた鷹津は、さほど気にせずグラスに口をつける。
 しかし今夜はいつもと様子が違い、ささやかな仕返しをされた。
「――そういえば先生、連休中は旅行に行っているそうですね」
「旅行?」
 鷹津が軽く眉をひそめると、秦がニヤリと笑う。
「おや、鷹津さんでもご存知なかったんですか」
「引っかかる言い方だな。俺は、用があればあいつに呼ばれるだけの関係だ。生活のすべてを監視しているわけじゃない」
 そう言いはしたものの鷹津は、連休に入ってすぐに、佐伯からかかってきた電話のことを思い出す。ひどく慌てた様子で、数日ほど忙しいため、怪我の治療ができないだけではなく、電話にも出られないことを一方的に告げてきたのだ。何かあるとは思っていたが、これだったのかと、ようやく合点がいった。
「そういうお前は、どうして知っているんだ」
「わたしは、中嶋――総和会にいる人間からの情報です。先生と親しい奴なので、お供をすることになったそうです。もっともさすがに、行き先までは教えてもらえませんでした。こうしてわたしが、鷹津さんに話してしまいますし」
「……親切心で話したわけじゃないだろ。何か要求があるのか?」
 テーブルに置かれたカクテルグラスを、秦は気取った手つきで持ち上げる。
「ちょっした情報提供をお願いしたくて」
 鷹津は秦に、一方的にタダ酒を集っているわけではない。風紀係にいる同期経由で入手する情報を、ときおり秦の求めに応じて流しているのだ。
 唇を歪めた鷹津は、グラスの縁を指先で弾く。
「これだけの酒と、そんな世間話の対価にしては、ずいぶん吹っかけてくるじゃないか」
「――先生の旅行のお供には、三田村さんもいるそうですよ」
 一瞬、顔が強張ったことを、秦は気づいたのかどうか――。
 鷹津は込み上げてきた苦々しい気持ちを、酒とともに喉に流し込む。
 佐伯の傍らに、ひっそりと控えめに寄り添う男の姿が、脳裏に蘇った。佐伯が総和会と関わりを深くしてから、行動をともにすることは極端に少なくなったようだが、それでも三田村は、佐伯の特別な男だ。
 胸クソが悪い、と鷹津は心の中で呟く。三田村のことだけではない。佐伯を取り巻く男たちも環境も、何もかもが胸クソが悪い。
 いつからこんな感情を抱くようになったのか、面倒なので鷹津は思い返すこともしない。ただ、佐伯とのこれから先のことは、よく夢想するようにはなった。抱えた胸クソの悪さとは対照的に、これは妙な心地よさを覚えるのだ。
「なんだか、悪だくみをしている顔になっていますよ」
 冗談っぽく秦に指摘され、負けじと鷹津も言い返す。
「お前も、俺を煽ってやったという顔をしているぞ」
「まさか。鷹津さん相手に、そんな怖いことしませんよ」
「ヤクザ相手に上手くやっているから、刑事相手もそうできると思っているんだろ。ああ、ついでに〈オンナ〉の相手も上手くやっているとも思っているか?」
 ふっと真顔になった秦が、次の瞬間にはしたたかな笑みを浮かべた。きれいな顔立ちをしている男だが、こういう表情をすると、ヤクザ顔負けの凄みが出る。
「それは、鷹津さんのほうでしょう。長嶺組とも、先生とも――」
 わずかに腰を浮かせた途端、スツールの足元で無粋な音が鳴る。鷹津は囁くような声で恫喝した。
「……あまり、調子に乗るなよ。色男。俺は、お前に丁寧に接してやる義理はないんだからな」
「先生だけですか」
「俺はあいつの、番犬だからな」
 必要以上に素っ気なく答えて、スツールに腰掛け直す。秦は意味ありげに笑い声を洩らした。
「わたしにとっても、先生は特別ですよ。命の恩人ですし、何より、個人的に気に入っているんです。多少のわがままなら叶えてしまいそうなほど」
「今のあいつならたいていのことは、甘い声を出せば、周りの男たちが叶えてくれるだろ」
「まあ、そうですね……。わたしにできそうなのは、ホストやホステスをはべらせての豪遊をセッティングすることぐらいですか」
 なんだそれ、とさすがに鷹津が笑い出しそうになったとき、さりげなく秦が付け加えた。
「あとは――、誰にも知られず、海外への逃亡を手助けすること……」
 鷹津は、発言の真意を確かめることすらしなかった。聞こえなかったふりをしたのだ。それをいいことに、秦は独り言のようにこう続けた。
「先生限定ではないですよ。わたしはけっこう、義理堅いんです。世話になった人には、しっかり恩は返します」
 グラスの中身を一気に呷った鷹津は、お代わりを頼む。さっさと話題を変えるか、沈黙を通すべきかと迷ったのは、そう長い時間ではなかった。
 新たなグラスが置かれてから、鷹津は切り出す。
「――それで、なんの情報が欲しいんだ」
 笑んだ秦の目には、憎たらしいほど狡知な光がちらついていた。

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