アイリスに祈る

双葉愛

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 鏡の自分を見つめる。星が散りばめられたように輝く瞳、巻いてもいないのにゆるいウェーブがかかった髪。


 まだ数年あったはずの猶予が、なくなった。

 女神ラトラがこの体を乗っ取ろうとしている。
 妄想でもなく、お得意の口から出まかせでもなく、本当に。

 アイリスが処刑された理由は幾つもある。でもそれは全て、ただのフェイクだった。


 真の理由はただひとつ。アイリスの中に女神ラトラがいたからだ。



 前世、女神と同化しそうなことを知っているのは父親と国王、そして宰相だけだった。

 リュートは何も知らず、悪い悪い婚約者を窘め続けてくれた。


 肩甲骨が痛み、羽らしきものが生えてくるまで。自分がラトラになるなんておぞましいことが起こるなど、アイリスは考えもしなかった。そのため、婚約者同士問題なく関係を築いていた。

 それまでは。

 むしろ楽しんでいた。アイリスの問題行動は確かに多かったが、貴族とはそのようなものだろうとリュートから見逃してもらえる範囲だったのに。
 事情が変わった。見逃してもらえないところまで行かなくてはならなくなった。お遊びでは済まなくなった。


 アイリスは女神ラトラそのものになる。のみこまれる。アイリスが消えていく。


 不意にリュートの瞳を見たくなった。あの、海のように穏やかで、静かな。太陽の輝きもなく、かといって夜の闇もなく。凪いで綺麗な色を。




 
 前世では。

 教会に目をつけられるわけにはいかないので、知る者は最小限に抑えた。

 母にも言わず、婚約者であるリュートにも。

 女神がこの世に復活するなんて、信者が知ればどうなることやら。きっと、国が割れる。王よりも上位の存在は許されない。

 背中に生えてくる羽は、その度に抜いて、もいだ。爛れた背中。背中のラインが綺麗なドレスは着れない。薬も侍女ではなく、秘密を共有する父親が手ずから塗ってくれた。

 じくじくと熱を持って痛む。それを嘲笑うかのように、羽は日々新しく生える。いったい自分の身体の中はどうなっているのか不思議に思ったほどだ。

 それでもアイリスは全く諦めていなかった。己の身に不可思議な現象が起こっても、どうにかしてみせると。元が女神のように美しいのだ。神化しても、変わらない。羽さえもげば、大丈夫。

 どこかに転がっているかもしれない原因を探すために、アイリスは更に貴族の闇の部分に足を突っ込んだ。公爵家の令嬢ということもあり、元から片足は染まっていたようなものだが、もう、全身どっぷりと。







 その日はラトラ教の異端集会に、伝手を使って潜り込んでいた。仮面をつけた貴族たちが美しく着飾る煌びやかなホール。

 名前と顔を隠してもアイリスだと駄々洩れていたけれど、何度も通う手間なく、組織の中枢に食い込んだ。にもかかわらず、ラトラ復活を願って若い女性を生贄にしているだけで、有力な情報は得られなかった。

 ある日は悪魔信仰のパーティに出向いた。教会から破門された一族の子供を使った悪魔召喚。悪魔なんて現れずとも、血の惨劇に参加者は熱狂していた。

 悪魔が現れないか、かなり本気で見守っていたが、駄目だった。悪魔に頼めば、女神くらいなんとかなるだろうと思ったのだけど。

 ある日は闇取引のオークションに。銀色の髪をもった人間と金色の目をした人間が出品されると聞いて。けれど、実際は、ただの灰色の髪とかなり薄い茶色の瞳だった。
 アイリスのものとは全く違う。

 他に女神に乗っ取られた人間がいないかも調べたのに、結局、アイリスが唯一無二と分かっただけだった。


 アイリスは決して諦めなかった。あるかも分からない光を求めて、闇を突き進む。

 ある日は、ある日は、ある日は。

 真っ当ではない人脈と伝手ばかりが広がる。肝心の情報が何も手に入らない。毒を制すために取り込んだ毒ばかりがましていく。毒を食らわば皿まで、と決めていたが、とうに致死量は超えていた。


 公爵家の御令嬢かつ将来の王妃が “こちら側” と知った貴族たちは、こぞってアイリスに参加状を送り付けた。趣味の悪いそれを指先で摘まみながら、破り捨てることなく参加した。


「ああ、本当に美しい。我らが女神」
「女神ラトラ、何がほしい。全てを与えよう」
「女神様、どうか御慈悲を与えていただけませんか」
「女神様」
「女神様」


 いかれた女神信仰を浴び続けたせいか。
 どうやら信仰されればされるほど症状が進むと判明した頃には、もう手遅れだった。


「……アイリス。きみは、変わったな」

 久方ぶりに会ったリュートの言葉に、自分の限界を悟った。

 瞳だけではない。全身が輝き始めている。声が変わっている。きっと、リュートは見た目のことを言っているのではなく、アイリスの“噂”を聞きつけたにすぎないのだろうけれど。


 昔は些細なことでも真面目にアイリスを咎めていたリュートは、裏に馴染んだアイリスに何も言うことはなくなった。


 言って下さればいいのに。前のように、アイリス、何をしているのだ、と。ねえ、言ってくださいませ、リュート様。


 でもね、このわたくしをもってしても、どうしようもないのです。



 アイリスのいる王都のあたりだけ、雨が降らなくなった。酷い日照りが続く。教会に人が押し寄せる。中庭の美しい花が弱っていく。雨は降らない。

 女神ラトラの声が聞こえた。

『アイリス。おまえは私にふさわしいわ。その身体、ちょうだいな』

 絶対にいやよ。
 わたくしに相応しい存在なんてわたくししかいないのよ。


 死んだ方がマシ、とは、このことだ。






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