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16.陽、落ち込む
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レンゲを持ち上げる。冷めてしまった料理はそれでも、口に入れると思い出したかのように熱を発し、味蕾という味蕾を焼き始める。
しばらく待ってみたけど、水岡は特に反応を示さなかった。
「そうでしょうね」
「……同意されると、それはそれで話しづらいな」
「自信家ですねって笑った方がよかったですか?」
「はい」
冗談半分の言葉を肯定する。
そう言って欲しかった。「おまえなんて大したことない」と、「すぐに追い抜いてやりますよ」と、そう言って欲しかった。
「新卒でいまの会社に入って、最初についてもらった先輩、俺のせいで辞めたんです」
いい人だった。文化祭の実行委員すらしたことのなかった陽に、一からイベントの進め方を教えてくれた。気難しいクライアントのあしらい。案件を通しやすい声の掛け方。上司の機嫌のいい時間帯。
何もかもが新鮮で、楽しくて、そんな陽を見ていた先輩自身も楽しそうだった。楽しそうに見えた。
「いまどきこんなブラック企業を第一志望にしてくるなんて、バカだなあ」と言いながら、どんな小さな案件でもうれしそうに「また残業が伸びちまう」と椅子の背をしならせて笑ったものだった。
陽が三年目のときに、受注件数が逆転した。
最初は「ようやく一人前だな」と背中をたたいていたその手が、だんだんと陽から離れていったのはいつからだったか。
気づけは、いつもとなりにいた先輩は定時で帰るようになり、ある日来ないな、と思ったら辞めていた。
「それからはもう、同じことの繰り返しです。入ってきた新人の担当になって、育ったかなあってくらいで辞めていく。みんな須永と同じように『渡来さんみたいにはできないから』って言って。指導係を外してくれって頼んでるんですけど、ほかに人もいなくて」
「あなたは、それがつらいんですか?」
「……どうでしょう」
自分のことを、仕事ができる人間だなんて思ったことは一度もない。
ただ、仕事にかける時間が他人より長いだけだ。情熱を傾ける趣味も、時間を割きたい友人や恋人もなく、やることがないから仕事をして、その分だけ結果がついてきた。
釣り糸を垂らしている時間が長ければ、魚が引っかかる回数も多くなる。時間で割れば、釣果はむしろ低いくらいだ。
だから、なんでだろうと思うことはあった。
ようやく慣れてきて、「休みには道ばたの落とし物を写真に収めてインスタに上げてるんです」とか、そんなプライベートな話をするようになって、なのにある日とつぜん、「もうついていけない」と突き放される。
「縁がなかったんだよ」と上司は言うけど、何か自分に重大な欠損があって、それが相手を少しずつ少しずつ削っているんじゃないかと思うと恐ろしかった。
笑顔で会話をしながら、この言い方でよかったんだろうかとふと我に返ることが増えた。
泥のなかで手をかき回しているような、途方のなさを感じた。
なにより、そんな状況に少しずつ慣れていく自分が怖かった。
「辞めるって言われても、最近はもう、ああまたか、くらいしか思わなくて。釣ったばかりの魚をずっとバケツに入れて、じわじわ死んでいくのを見ているみたいな。それだけならまだよかったんですけど、だんだん正当化するようになっちゃって」
「正当化?」
「自分のこと。こんなに丁寧に教えたのに、とか」
「別に普通じゃないですか?」
「普通ですかね。でもなんか、どこまでも増長しそうで」
ときおりニュースになる、目を覆いたくなるようなハラスメントの数々。その芽が胸の真ん中を割ってどくどくと成長し始めているような気がして落ち着かない。
「なら転職しては?」
「そう、ですよね」
何度も考えた。けれど、後輩ひとつ育てられなくて、先輩も辞めさせて、自分まで抜けたら、ただの会社クラッシャーだ。実際はそんなことはなく、きっと代わりはいくらでもいるのだろう。自分で自分の手足を縛って動けなくなっているのだから世話がない。
ふう、と水岡がため息をつく。
なんだか申し訳なくなってきて、陽はまだ手を付けていなかった杏仁豆腐をそっと水岡に差し出した。視線で問われ、どうぞと返す。
彼はためらいなく器を手に取ると、シロップにスプーンを浸した。
「なら、今みたいにしたらいいんじゃないですか?」
「は?」
「だって、仕事できるんでしょう。なら、その後輩ができない分をあなたがやったらいい。後輩が0.5しかできないなら、あなたが1.5倍働けばいいんです。別に、全員があなたと同じだけできなくたって、いいじゃないですか」
ちいさな甘味をスプーンの先で切り分けながら、水岡は言う。
「会社のメリットは分担できるところでしょう。それぞれができる範囲でできることをすればいい。全員が定食のすべてを食べきる必要はなくって、それぞれが好きなものを食べて、帳尻が合えばいいんじゃないですか?」
二つに割った白い甘味の大きい方をスプーンの先に乗せて、差し出される。
しばらく待ってみたけど、水岡は特に反応を示さなかった。
「そうでしょうね」
「……同意されると、それはそれで話しづらいな」
「自信家ですねって笑った方がよかったですか?」
「はい」
冗談半分の言葉を肯定する。
そう言って欲しかった。「おまえなんて大したことない」と、「すぐに追い抜いてやりますよ」と、そう言って欲しかった。
「新卒でいまの会社に入って、最初についてもらった先輩、俺のせいで辞めたんです」
いい人だった。文化祭の実行委員すらしたことのなかった陽に、一からイベントの進め方を教えてくれた。気難しいクライアントのあしらい。案件を通しやすい声の掛け方。上司の機嫌のいい時間帯。
何もかもが新鮮で、楽しくて、そんな陽を見ていた先輩自身も楽しそうだった。楽しそうに見えた。
「いまどきこんなブラック企業を第一志望にしてくるなんて、バカだなあ」と言いながら、どんな小さな案件でもうれしそうに「また残業が伸びちまう」と椅子の背をしならせて笑ったものだった。
陽が三年目のときに、受注件数が逆転した。
最初は「ようやく一人前だな」と背中をたたいていたその手が、だんだんと陽から離れていったのはいつからだったか。
気づけは、いつもとなりにいた先輩は定時で帰るようになり、ある日来ないな、と思ったら辞めていた。
「それからはもう、同じことの繰り返しです。入ってきた新人の担当になって、育ったかなあってくらいで辞めていく。みんな須永と同じように『渡来さんみたいにはできないから』って言って。指導係を外してくれって頼んでるんですけど、ほかに人もいなくて」
「あなたは、それがつらいんですか?」
「……どうでしょう」
自分のことを、仕事ができる人間だなんて思ったことは一度もない。
ただ、仕事にかける時間が他人より長いだけだ。情熱を傾ける趣味も、時間を割きたい友人や恋人もなく、やることがないから仕事をして、その分だけ結果がついてきた。
釣り糸を垂らしている時間が長ければ、魚が引っかかる回数も多くなる。時間で割れば、釣果はむしろ低いくらいだ。
だから、なんでだろうと思うことはあった。
ようやく慣れてきて、「休みには道ばたの落とし物を写真に収めてインスタに上げてるんです」とか、そんなプライベートな話をするようになって、なのにある日とつぜん、「もうついていけない」と突き放される。
「縁がなかったんだよ」と上司は言うけど、何か自分に重大な欠損があって、それが相手を少しずつ少しずつ削っているんじゃないかと思うと恐ろしかった。
笑顔で会話をしながら、この言い方でよかったんだろうかとふと我に返ることが増えた。
泥のなかで手をかき回しているような、途方のなさを感じた。
なにより、そんな状況に少しずつ慣れていく自分が怖かった。
「辞めるって言われても、最近はもう、ああまたか、くらいしか思わなくて。釣ったばかりの魚をずっとバケツに入れて、じわじわ死んでいくのを見ているみたいな。それだけならまだよかったんですけど、だんだん正当化するようになっちゃって」
「正当化?」
「自分のこと。こんなに丁寧に教えたのに、とか」
「別に普通じゃないですか?」
「普通ですかね。でもなんか、どこまでも増長しそうで」
ときおりニュースになる、目を覆いたくなるようなハラスメントの数々。その芽が胸の真ん中を割ってどくどくと成長し始めているような気がして落ち着かない。
「なら転職しては?」
「そう、ですよね」
何度も考えた。けれど、後輩ひとつ育てられなくて、先輩も辞めさせて、自分まで抜けたら、ただの会社クラッシャーだ。実際はそんなことはなく、きっと代わりはいくらでもいるのだろう。自分で自分の手足を縛って動けなくなっているのだから世話がない。
ふう、と水岡がため息をつく。
なんだか申し訳なくなってきて、陽はまだ手を付けていなかった杏仁豆腐をそっと水岡に差し出した。視線で問われ、どうぞと返す。
彼はためらいなく器を手に取ると、シロップにスプーンを浸した。
「なら、今みたいにしたらいいんじゃないですか?」
「は?」
「だって、仕事できるんでしょう。なら、その後輩ができない分をあなたがやったらいい。後輩が0.5しかできないなら、あなたが1.5倍働けばいいんです。別に、全員があなたと同じだけできなくたって、いいじゃないですか」
ちいさな甘味をスプーンの先で切り分けながら、水岡は言う。
「会社のメリットは分担できるところでしょう。それぞれができる範囲でできることをすればいい。全員が定食のすべてを食べきる必要はなくって、それぞれが好きなものを食べて、帳尻が合えばいいんじゃないですか?」
二つに割った白い甘味の大きい方をスプーンの先に乗せて、差し出される。
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