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宇宙の中で
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朝、良樹からメールが届いた。
仕事が終わる頃迎えにくるというので、彩子は午後6時に退社できると返信した。
平日に会うのは珍しい。何か特別な話でもあるのかなと、彩子は思った。
仕事は予定どおり6時に終わった。彩子が席を立つと、そのタイミングで工場長が事務所に入って来て、楽しそうに話しかけてくる。
「彩子ちゃん、外にいる人、もしかして恋人?」
「えっ」
「ブルーの車にもたれて誰かを待ってる様子なんだけど」
おそらく良樹だ。彩子は慌ててバッグを持ち、帰ろうとする。
「ええっ、彩子ちゃんの恋人? わあ、見せて見せて」
パソコンで作業していた新井が、嬉々として立ち上がった。
「見せて見せてって、見世物じゃないんだから。なあ彩子ちゃん」
そう言う工場長も、新井と一緒に窓を覗き込む。
彩子は恥ずかしかったが、もう遅い。急いで退出し、通用口から外に出ると、良樹が通りのパーキングに車を停めて待っていた。
「お疲れ、彩子」
良樹はワイシャツにグレイのセーター、紺のジャンパーという服装だ。胸に会社名の刺繍がある。
「良樹も仕事帰り?」
「うん。すぐそこの得意先に用があって、直帰の予定だった」
「あ、なるほど」
だから仕事終わりに迎えにくると言ったのだ。
「ええと……それじゃ、行こうか」
良樹は彩子の背後に目をやり、なぜか会釈した。彩子が振り向くと、工場長と新井が窓ガラスに張り付き、ニコニコしている。
「ご、ごめんなさい」
「どうして。良さそうな職場じゃないか」
赤面する彩子に良樹は微笑むと、助手席のドアを開けた。
「少しドライブしようか」
良樹は北に向かって車を走らせた。
国道は街から山へと抜けている。およそ1時間後、山々の稜線に切り取られた夜空に、星が瞬きはじめた。
「どこに行くの?」
「そうだな……腹が減った?」
良樹は答えの代わりに質問を返した。
「えっ? うん、まあ……すいたけど」
「それなら何か食べよう。もう少し行くとドライブインがある」
山のドライブインは、レストランやコンビニが並ぶ大きな施設で、駐車場も広々としている。乗用車のほかに観光バスが数台とまっていた。
車を降りると、夜の冷気が足もとから這い上がってきて、彩子はぶるっと震える。
「寒いな。早く入ろう」
良樹は彩子の肩を抱くようにして、店舗棟へ歩いた。
レストランで食事する間、良樹は世間話をした。
当たり障りの無い話題ばかりであり、彩子は首をかしげる。どこか落ち着かない様子が、いつもの彼らしくない。
彩子は食事を終えたあと、もう一度訊いてみた。
「ねえ、どこへ行くの?」
良樹は少し考えてから彩子の顔を見て、照れた笑みを浮かべる。
「何かあったの?」
本当に、今日の良樹はどうかしている。
「うん、ちょっとね」
レストランを出ると、良樹は「こっちだよ」と言って彩子の手を取り、車と反対方向へ連れて行った。
駐車場のはずれに、遊具などが設置された公園があった。薄暗い外灯が、人気のない古い施設を照らす。
「ここは、公園?」
「ああ」
良樹は頷くと、戸惑う彩子に構わず中に進んだ。
こんなところで一体何をするのだろう。彩子は遠ざかる店舗棟の明かりを振り向きつつ、強引な力に従うほかなかった。
「ほら、あれだよ」
良樹が指差す方向に目を凝らす。
突き当たりの丘になった場所に、展望台があるのがぼんやりと見えた。
「良かった。まだ現役だったな」
良樹はジャンパーを脱いで彩子に着せかけ、背中を押すようにして丘を上った。
「良樹、風邪引いちゃうよ」
彩子は心配するが、彼は平気な顔でいる。
「さあ、着いた」
丘を上りきり、展望台のスペースに着いた。
彩子は良樹と一緒に手すりの前まで行き、視界が開けた瞬間、思わず息を呑んだ。
冬の澄んだ夜空に、数え切れないほどの星が散りばめられている。これまで見たことのないまばゆい光景に、彩子はしばらく口がきけなかった。
「すごい……きれい」
やっと言えたその言葉に、良樹は満足そうに笑う。
「君に、見せたいと思って」
彼は彩子の肩を抱き、夜空を仰いだ。
南の空にオリオン座が、そして、やや左下にシリウスが輝いている。
彩子は良樹の胸にもたれながら、あの夜を思い出す。初めて結ばれたあと、二人で冬の星座を見つめた。
「オリオン座のベテルギウスとリゲルは1等星。シリウスはさらにマイナス1.5等級の明るさだ」
良樹は空を指差し、彩子に教えた。
「そのシリウス・ベテルギウス・こいぬ座のプロキオンを結ぶと、冬の大三角形になる……」
ふいに言葉を途切れさせると、彩子を抱く腕に力を込めた。まるで、恋人の温もりを確かめるように、強く。
「冬の夜空のハイライトだ」
まるで無重力――
彩子は全身で感じた。
天も地も無く、私は宙に浮かんでいるのだと。
(ううん、違う)
彩子は良樹の腕を解いて彼に向き直り、瞳の奥を見つめた。
(私は今、良樹の中に存在してるんだ)
幸せであり、何かしら恐ろしいような気持ちでもある。
彩子は背伸びをして、良樹の耳にそっと囁く。
「あなたが、好き……」
良樹は一瞬体を揺らすが、言葉に応えるように彩子を抱きしめ、柔らかなうなじにキスをした。
彩子は今、幸せだと感じる。
これは女としての幸せ。
良樹がなぜ今夜、私をこの場所に連れて来たのか。
心からそれを理解していた。
私達はひとつなのだ――
深く果てしない宇宙の中で、眠るように目を閉じた。
仕事が終わる頃迎えにくるというので、彩子は午後6時に退社できると返信した。
平日に会うのは珍しい。何か特別な話でもあるのかなと、彩子は思った。
仕事は予定どおり6時に終わった。彩子が席を立つと、そのタイミングで工場長が事務所に入って来て、楽しそうに話しかけてくる。
「彩子ちゃん、外にいる人、もしかして恋人?」
「えっ」
「ブルーの車にもたれて誰かを待ってる様子なんだけど」
おそらく良樹だ。彩子は慌ててバッグを持ち、帰ろうとする。
「ええっ、彩子ちゃんの恋人? わあ、見せて見せて」
パソコンで作業していた新井が、嬉々として立ち上がった。
「見せて見せてって、見世物じゃないんだから。なあ彩子ちゃん」
そう言う工場長も、新井と一緒に窓を覗き込む。
彩子は恥ずかしかったが、もう遅い。急いで退出し、通用口から外に出ると、良樹が通りのパーキングに車を停めて待っていた。
「お疲れ、彩子」
良樹はワイシャツにグレイのセーター、紺のジャンパーという服装だ。胸に会社名の刺繍がある。
「良樹も仕事帰り?」
「うん。すぐそこの得意先に用があって、直帰の予定だった」
「あ、なるほど」
だから仕事終わりに迎えにくると言ったのだ。
「ええと……それじゃ、行こうか」
良樹は彩子の背後に目をやり、なぜか会釈した。彩子が振り向くと、工場長と新井が窓ガラスに張り付き、ニコニコしている。
「ご、ごめんなさい」
「どうして。良さそうな職場じゃないか」
赤面する彩子に良樹は微笑むと、助手席のドアを開けた。
「少しドライブしようか」
良樹は北に向かって車を走らせた。
国道は街から山へと抜けている。およそ1時間後、山々の稜線に切り取られた夜空に、星が瞬きはじめた。
「どこに行くの?」
「そうだな……腹が減った?」
良樹は答えの代わりに質問を返した。
「えっ? うん、まあ……すいたけど」
「それなら何か食べよう。もう少し行くとドライブインがある」
山のドライブインは、レストランやコンビニが並ぶ大きな施設で、駐車場も広々としている。乗用車のほかに観光バスが数台とまっていた。
車を降りると、夜の冷気が足もとから這い上がってきて、彩子はぶるっと震える。
「寒いな。早く入ろう」
良樹は彩子の肩を抱くようにして、店舗棟へ歩いた。
レストランで食事する間、良樹は世間話をした。
当たり障りの無い話題ばかりであり、彩子は首をかしげる。どこか落ち着かない様子が、いつもの彼らしくない。
彩子は食事を終えたあと、もう一度訊いてみた。
「ねえ、どこへ行くの?」
良樹は少し考えてから彩子の顔を見て、照れた笑みを浮かべる。
「何かあったの?」
本当に、今日の良樹はどうかしている。
「うん、ちょっとね」
レストランを出ると、良樹は「こっちだよ」と言って彩子の手を取り、車と反対方向へ連れて行った。
駐車場のはずれに、遊具などが設置された公園があった。薄暗い外灯が、人気のない古い施設を照らす。
「ここは、公園?」
「ああ」
良樹は頷くと、戸惑う彩子に構わず中に進んだ。
こんなところで一体何をするのだろう。彩子は遠ざかる店舗棟の明かりを振り向きつつ、強引な力に従うほかなかった。
「ほら、あれだよ」
良樹が指差す方向に目を凝らす。
突き当たりの丘になった場所に、展望台があるのがぼんやりと見えた。
「良かった。まだ現役だったな」
良樹はジャンパーを脱いで彩子に着せかけ、背中を押すようにして丘を上った。
「良樹、風邪引いちゃうよ」
彩子は心配するが、彼は平気な顔でいる。
「さあ、着いた」
丘を上りきり、展望台のスペースに着いた。
彩子は良樹と一緒に手すりの前まで行き、視界が開けた瞬間、思わず息を呑んだ。
冬の澄んだ夜空に、数え切れないほどの星が散りばめられている。これまで見たことのないまばゆい光景に、彩子はしばらく口がきけなかった。
「すごい……きれい」
やっと言えたその言葉に、良樹は満足そうに笑う。
「君に、見せたいと思って」
彼は彩子の肩を抱き、夜空を仰いだ。
南の空にオリオン座が、そして、やや左下にシリウスが輝いている。
彩子は良樹の胸にもたれながら、あの夜を思い出す。初めて結ばれたあと、二人で冬の星座を見つめた。
「オリオン座のベテルギウスとリゲルは1等星。シリウスはさらにマイナス1.5等級の明るさだ」
良樹は空を指差し、彩子に教えた。
「そのシリウス・ベテルギウス・こいぬ座のプロキオンを結ぶと、冬の大三角形になる……」
ふいに言葉を途切れさせると、彩子を抱く腕に力を込めた。まるで、恋人の温もりを確かめるように、強く。
「冬の夜空のハイライトだ」
まるで無重力――
彩子は全身で感じた。
天も地も無く、私は宙に浮かんでいるのだと。
(ううん、違う)
彩子は良樹の腕を解いて彼に向き直り、瞳の奥を見つめた。
(私は今、良樹の中に存在してるんだ)
幸せであり、何かしら恐ろしいような気持ちでもある。
彩子は背伸びをして、良樹の耳にそっと囁く。
「あなたが、好き……」
良樹は一瞬体を揺らすが、言葉に応えるように彩子を抱きしめ、柔らかなうなじにキスをした。
彩子は今、幸せだと感じる。
これは女としての幸せ。
良樹がなぜ今夜、私をこの場所に連れて来たのか。
心からそれを理解していた。
私達はひとつなのだ――
深く果てしない宇宙の中で、眠るように目を閉じた。
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