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恋をしない女
しおりを挟む「僕と付き合ってくれ」
しつこく迫られ、この状況から何とか脱却したい。
伊藤美羽はそう強く思いながらもうまくいかず、助けを求めるように視線を移動させた先にあったのは、透き通ったこげ茶色の瞳だった。
短い黒髪を風に揺らしている長身の男が無表情に美羽をじっと見ていた。
それに気が付いた美羽は、透き通ったガラス玉のような綺麗な瞳に吸い込まれる。黒いジャケットに白いシャツに黒いスラックスという、その辺を歩いていればいくらでもいそうな服装をしているのに、何故か人目を引いていた。そう思わせるのは、中性的なすっきりとした骨格に載せられた目鼻口が、俗にいう「カッコいい」と言わせる黄金比配置になっているからなのだろうか。それとも、その瞳のせいなのか。美羽はその男に目が離せなくなっていた。
尚も美羽に縋りつくように、少し一緒に出掛けてくれるだけでもいいんだ。という近くにある声は、なんの音もしない風のように美羽の耳から耳へと流れていく。
美羽の足は綺麗なこげ茶色の瞳に、自然と吸い寄せられるように足を向けた。
踏みしめる度に柔らかい芝生は、かさかさと音を立てる。美羽がその男――怜に近づいていっても、表情は全く変わらない。端正な顔は、相変わらず美羽を正視していた。
美羽は、ゆっくり怜に近づきながら、この状況を打破できる方法が頭にふわりと浮かびあがってきていた。やわらかい芝生を踏みしめるたびに、浮かんだ策を実行するべく決意が固められていく。
「待たせてごめんね。行きましょう」
そういいながら、美羽は怜の横に並んで、黒いジャケットの裾を右手でぎゅっと握った。
そんな行動をし始めるの美羽を目の当たりにして、しつこい男の足がピタリと止まった。
美羽はそれを背後で感じながら、いい反応だわ。このままいけば、きっと無事に解放される。
美羽はそう思う一方で、後悔という大波に飲み込まれそうになっていた。
見ず知らずのこの人を自分の恋人のように思わせて、迫ってくる男性を諦めさせようと強行策に出てはみたけれど。
私って、そんな大胆なことができる人間じゃなかった。
美羽は、足元から緊張が身体を駆け上がり始めているのを感じ始めていた。背筋に冷たい汗が流れ落ちて、手足が冷たくなる。脈が速さを増して、息が切れそうになってくる。
美羽はその急激な変化の中で、これは緊張のせいじゃないかもしれない。と、冷静に判断を下していた。
美羽は溺れかけた身体を何とか水面に浮かべるように、空いている左手を胸に当てて新鮮な酸素を取り込んでいた。それを何度か繰り返していたら、足がつかないほどだった水深は、両足で立てる程になり、脈は穏やかにゆっくりと元の速さに戻ってゆくのを感じていた。
よかった……。美羽は安堵すると、その右手に握っていたジャケットで現実に引き戻されていた。美羽は勝手に立てた作戦の最中だったことを思い出す。
私の右手に捕まってしまったこの不運な男は、今物凄く嫌な顔してるんだろうなぁと思いながら、恐る恐る頭一つ分高いところにある顔を見上げていた。
すると美羽の目に飛び込んできたのは、嫌な顔もしていないし、当然喜んでいるわけでもない、全く感情が読み取れない無表情な横顔。そして、透き通った焦げ茶色の瞳の先は私ではなく、迫っていた男の方に向いていた。
これは、私のこの状況を察知して合わせようとしてくれているのだろうか?それとも、あまりに突飛なことをし始めた女に唖然とし、表情まで失ってしまったのだろうか?
いつもの美羽ならば、難なくその無表情の奥の感情を読み取れていたはずだが、この状況下でそんな余裕はなかった。
どう思っているのか何を考えているのかわからないままだけど、ここまで来たらこの人に付き合ってもらうしかない。
美羽はふっと息を吐き、クルリとしつこい男の方に振り向いた。
「この人。私の彼なの。だから、ごめんなさい」
もう諦めて。そう願いながら美羽は、ぎゅっと目を閉じ、頭を下げるとその上から覆いかぶさるように重苦しい沈黙が流れた。
重くて押し潰されそうな、独特な空気。何度経験してもこれほど嫌なものはない。
じっと下げ続ける頭の上から、しつこい男の声が美羽の重くなっていた背中を踏みつけるように圧し掛かってきた。
「美羽ちゃんにそんな奴いるなんて、聞いたことがない。くだらない嘘つくのはやめろよ」
君のことを何でも知っているんだぞと言っているかのような口ぶりで美羽に刺々しくそういう。
美羽の心臓はウサギのように飛び跳ね、図星。という言葉が大きく頭に占め始めていた。
……だけど、もう引くわけにはいかない。
さっと頭を上げて髪を耳にかけながら、美羽は怜の腕に自分の腕を絡ませた。
どうか、拒絶しないで。
お願いだから、話を合わせて。
腕の中にある少し太い腕に美羽は願いながら、私はもうこの人しかいません。完全に魅了されてます。そんな顔をして、いい放った。
「昨日から、付き合い始めたの。だから、みんな知らないのは当り前よ」
そんな美羽に、まさか、本当なのか?と目を丸くして、驚愕の表情を浮かべ始めていた。
けれど、その隙間に相変わらず疑いの色が見え隠れしている。
「おい、本当に美羽ちゃんと付き合ってんのかよ?」
迫る男の怒りが滲んだ声色が、美羽の頭を飛び越えていった。
マズイ。
美羽はそう思い、左上にある顔を弾けるように見上げる。けれど、美羽の視界の中にあったのはピクリとも動かない顔で透き通りすぎて何を考えているのかわからない瞳。
そこまで話を合わせる義理もない。面倒なことに巻き込むな。余裕のない美羽にはそう読み取る。
それはそうだろうなと思う。これは、この男性にとって貰い事故のようなものだ。ここで話を合わせたところで、この人には何のメリットもないのだから。
万事休す。美羽は目をぐっと目を瞑ったその時。淡々した声が、はっきりと空気を震わせていた。
「ああ。そうだ」
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