残りの時間は花火のように美しく

雨宮 瑞樹

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動揺

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「あの二人やっぱり本当に付き合ってるんだ!」
 そんな外野の声が遠くから割って入ってきて怜は現実に引き戻された。
 腕の中におさまっている細く華奢なぬくもりの存在に気付き慌てて身を離した。
「ごめん」

 そういう怜は、動揺を隠せずこげ茶色の透明な瞳が左右に大きく揺れていた。
 一体俺は何をしているんだ?
 今日の俺はおかしすぎる。さっきは、綾に対する怒りは制御できず感情のままに怒鳴ったのはついさっきのことで。その上、今は美羽を抱き締めるなんて。気づいたときには、身体が勝手に動いていた。これまで、一度だってそんなことなかったのに。
 俺は、本当にどうしてしまったんだ?
 少し顔を赤くしていた美羽は、黙りこくったまま大揺れに揺れる怜の瞳を見て、くつくつと笑っていた。

「ま、細かいことは気にしなくてもいいじゃない?」
 細かいことか?自分にとっては、重大事項だ。と思う怜だったが、そういったところで墓穴を掘るだけな気がして、大きな穴に押し込めた。

「それに、これで本当に付き合ってるのか?っていう耳にタコが出きそうな質問から解放されるかも」
 ほら、みて。と、美羽は中庭の外にいる群衆がざわついている。時折聞こえてくる声を拾い上げれば、その内容は
「付き合わないはずの二人が付き合っていたっていう噂は本当だった」
「こんなところで、堂々とあんなの見せつけられて、百年の恋も覚めた」
 そんなものだった。
 美羽は、ね? 結果オーライでしょ? そう言って、笑っていた。
「……そうか……」
 怜は心ここにあらずな顔をして、頷いた。完全に怜の頭は今起こった出来事の検証する方に気を取られていた。
 初夏を匂わす強くなりかけた日差しが怜を容赦なく照りつけているせいか、怜の顔は心なしか赤い。そんな怜を見て、美羽は苦笑していたようだった。

 それからどのくらい時間が経ったのか。
 突っ立ったまま微動だにしない怜に、いつまでそうしてるんだろう? 滅多にみられない光景を楽しむように近くのベンチに美羽は腰を下ろした。そんなに気にすること? 明るい声を投げかけるが、それでも無言のまま立ち尽くす怜。
 それから、さらに数分経ち、やっと冷静さを取り戻すことに成功したのか怜は深く溜息をついて、美羽の隣に腰を下ろした。
 クスクス笑いながら今の話は触れないようにしようと思ったのか美羽が「この後、授業?」と尋ねる。
「いや、今日はこれで終わりだ」と怜は返しながら、もう今日は寄り道せずに早々に帰ってしまおう。
「そっか。私もこれで授業は終了。じゃ、行こっか」
 突然そう言って、立ち上がった美羽。
 ふわりと揺れるスカートを怜は見ながら、行こう? どこへ?
 座ったまま、首をかしげる怜に、美羽は振り向いてニコリと笑った。

「海でも見に行こう」
 さらりという美羽に、いつもの調子を取り戻つつあった怜の顔に困惑が浮かんでいた。
 それを見た美羽はニヤリとして「それで、さっきのは忘れてあげるから」といった。
 そう言われたら、何も言えない怜仕方なく「わかった」と了承した。その答えに、美羽は花が咲いたように顔を明るくさせていた。

 美羽に導かれるがまま学生線から乗り換えて、十分ほど電車に揺られると目的とする横浜の海に到着した。大学から一番近い海が横浜だ。美羽のメモの、どこかの質問の答えに横浜の海と書かれていたのを怜はぼんやり思い出しながら、地下鉄の改札を抜ける地上に上がった。平日の昼過ぎのせいか、人はそれほど多くはなかった。そのせいか建物の隙間から海の欠片が現れ始め、漂う潮の香りが一層色濃させている気がした。その香と共に懐かしさとあまり思い出したくない怜の記憶が霞がかって漂ってくる。

「見えてきた!」
 美羽は嬉しそうに頭一つ分高いところにある怜の顔を向けてくる。
 その顔を間近に見た怜は、胸に押し寄せ始めようとしていた霧がさっと引いていった。
 代わりに胸の奥に蝋燭の火が灯るようにほんのりと温かい熱を帯びて、また鼓動が少しだけ早まる。やっぱり今日の俺はおかしいすぎる。
 そう思いながら、新旧入り乱れた建物の間を抜けてゆくと、視界いっぱいに青が広がった。
「うわぁ、みてみて! 海!」

 子供のようにはしゃぎ、飛び跳ねる美羽の声。そして、海に浮かぶ大きな白い外国の大型客船が寄港しているを見つけると
「これ、よくテレビで出てくる豪華客船ってやつじゃない!? すごい迫力!!」
 と、また大きな歓声をあげていた。
 飛び跳ねる水色のワンピースを見ながら、怜の困惑もいつの間にか吹き飛んでいた。
 海を間近でみたいという美羽に応えて大桟橋の青に映えるウッドデッキの遊歩道まで足を延ばす。美羽が怜の少し前を歩く。
 怜は寄港している客船を横目で眺めながら美羽の背中から伸びる影をゆっくりと辿っていた。
 海から吹き抜ける初夏の匂いを含んだ風が、美羽の肩より少し長く伸びた髪が綿毛のように揺らす。青い空から降り注ぐ太陽はその髪を赤茶色に輝かせていた。

 いつか彼女が渡のことを珍獣と言っていたが、それは彼女自身のことかもしれないとふと思いながら、怜は目を細めていると桟橋の一番最先端にたどり着いた。
 立ち止まった美羽は防護柵に手を置いて、海を眺める。
 その右側に怜も並んだ。
 見渡す限りの青い海。
 日差しが強いせいで汗ばんでいた身体も、海から吹き込む少しひんやりした風はとても心地が良い。

「風も気持ちいし、最高! 海、ずーっと見たかったの」
 太陽に反射して光る水面が、美羽の瞳をキラキラと輝かせながらまっすぐ前を見据えたまま微笑んでいた。
「最後に海に行ったのは中学生の頃だったかなぁ。家族旅行で伊豆の方に行って、それ以来」
「海なんて家からもそんなに遠くないからいつだって来れただろう」
「まぁ、ね。でも、なかなか足を伸ばす機会に恵まれなくてね。夏には花火もあがるんでしょ?」 
「そうだな。実家がこの辺りで、何度かいったことがある」
 忘れかけていた霧が、また少しだけ立ち込めてくるのを感じながら怜は答えると
 「そうなんだ。いいなぁ。私みたことないの。花火」
 と美羽は、空を仰いで思いを馳せるようにいった。
 怜がちらりと美羽の横顔を見やる。
 風で揺れる髪と太陽の光に晒されるその顔は、息をのむほど美しくて、顔に熱が集中しそうになるのを散らすのに必死だった。

「あ、小さい手持ち花火はあるわよ? そうじゃなくて、花火大会みたいな空にあがる大きな花火」 
「……珍しいな。今時花火を見たことがないなんて」
「……そうね。私は希な人間なの」
 そういう美羽は海に顔を向けたまま、少し困ったような笑顔を浮かべていた。 
 怜の耳には「希」という美羽の言葉がやけに耳に残り、その言葉の裏側に怜が思考を巡らせようとしたところで、美羽の質問が飛んできてすぐにそれは遮られた。

「ねぇ、この辺りが実家なら学校通えそうなのに、何で一人暮らししてるの?」
「両親と折り合いが悪いんだ。昔から」
 正直にそんなことを言い出す自分自身に怜は内心驚く。
 久しぶりにこの場所に来たせいか。それともこの雲一つない晴れ渡った青い空と穏やかな海を目の前に、気分が高揚しているせいなのか。それとも、今日の自分がおかしすぎるせいか。と思っていた怜だったが、いちいちそんなことを気にするのも馬鹿らしくなり、かかり始めた霧も気づけば自分で振り払っていた。視線を青い海の奥へと向け、いつもなら絶対に他人に話すことのない言葉が勝手に怜の口から滑り出ていた。

「両親は医者で、病院をやってるんだ。親は当然俺も医者になって家業を継がせる気でいた。
 でも、ずっと俺は嫌だった。中学までは親の言いなりになってきたけど、高校二年くらいかな。言ったんだ。俺は継ぐ気はないって。
 そしたら、お前は子供じゃないと激怒された。
 母方の祖母だけは唯一俺の味方をしてくれたが、あとはみんな俺は存在しなかったという扱いだ。それから、ほとんど口をきいていない。そのまま実家を出た」
「そうだったんだ……。ごめん。嫌なこと思い出させた。……でも、きっとご両親は悔しかったのね。こんなに優秀な息子なのに、違う道に進むなんて……って」

 怜が美羽に視線を戻すと、少し俯かせている白い顔に翳りが見え隠れしていた。こんな話して悪かったなと思いながら、また海に視界を戻そうとしたら、美羽の瞳がこちらを向けられた。
 その瞳の中心には確かな強い光があった。美羽は怜の目を真っ直ぐ見据えて、美羽ははっきりと言った。
「この前教授のところに三年生で行った時に溝口教授が言ってたわ。『大隈は、優秀な奴だ。将来必ず名を残す』って。そんなことあのオタク教授に言わせちゃうんだから、怜がいこうとしている道は間違ってない。必ずご両親がギャフンと言う日がくるよ。間違いない。私が保証する」

 自信たっぷりにそういう美羽を怜は少し目を大きくして見つめていた。
 両親という呪縛は、毒に変わり全身に回っていた。その毒は消えること一度たりともなかった。なのに、今はその毒がどこからともなく身体の外へと昇華されるようにすっと軽くなる。
 根拠なんてありもしない美羽の言葉が、ずっと溺れかけていた心を掬い上げてくれているようだった。怜はそんな不思議な感覚に戸惑いながら、もう一度美羽を見返す。押し黙っている自分にまた、美羽も戸惑っているようだった。そんな美羽に苦笑しながら、この沸き上がる何かをそっと押し込めて、次の話題を探した。

「そういえば。
 花火。毎年夏にゼミの旅行があって、毎年恒例の富士五湖の花火大会に行くんだ」
 ふと、思いついた話題は溝口ゼミの恒例行事だった。教授が山梨県出身で、毎年必ず花火を見ることにしているのだという。花火を見ると、どんなに失敗続きの実験もまた頑張ろうと思えるのだそうだ。それに、付き合わされるのが溝口ゼミ生だ。
 去年初めて参加した怜だったが、その時は男子八人に、女子の綾一人というメンバーだったのと、当時の四年生が怜を気にかけてくれていたために、怜にとっては、楽しい酒席だったことを思い出していた。
 湖に移る花火がまた美しいと評判だったが、正直酒のことしか覚えていない。

「え? そうなの?」
 弾けるように怜の方に顔を向けて、美羽は目を輝かせていた。
 だが、心なしか顔が白くなっている見えた気がしたがそれは、日差しの明るさのせいだと怜は思った。 
 また遠くの海に視線を移して、恒例行事を話して聞かせた。

「まぁただ飲んで騒ぐだけの会だけどな」
「楽しみだなぁ……」
 ずっと明るかった声に急に深い影がかかっているような違和感を感じて怜は、海から美羽の顔へと視線を移した。
 飛び込んできた美羽の顔に怜の目は大きく見開いた。
 顔色は元の白を通り越し青く変化し、額には玉のような大きな汗が噴き出していた。
 少し息が上がっているようにも見える。
 怜の高かった体温は、急速に冷えていった。

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