残りの時間は花火のように美しく

雨宮 瑞樹

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どうか光を

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 鼓膜に触れた言葉の意味が理解できず、美羽はゆっくり顔を上げる。思いがけず近い距離に透明の瞳があった。その目を見つめてみるけれど、それ以上に自分の鼓動が煩いくらい響いて靄がかかってみえる。真意を読み取ることは不可能だった。理解できない頭で口から出たのは自分でも聞き逃しそうなほどの呟き。

「……冗談言ってるの?」
 拾い上げなくてもいいようなどうでもいい独り言でも、怜は決して見落とさない。
「冗談じゃない。本気だ」

 美羽が見返した怜の瞳は逃げたくなるくらい正直で綺麗で、真っすぐだ。
 逸らすことは許してくれない。美羽の心は立ち竦み行き場を失ったところに、怜のはっきりとした声が響いた。
「全部聞いた。病気のことも、全部」

 怜のその短い言葉だけで、十分だった。
 目が痛くなるほどに見開いた美羽の瞳の先には、靄が晴れていつもの透き通った怜の瞳。何もかもが明け透けになる。
 その奥に母の今朝のおかしな行動。いたずらっぽい笑顔。時折見せる悲しげな顔が憎らしいほどその横にハッキリの浮かんでいた。
「美羽を家に送ったとき、俺が無理やり聞き出したんだ。だから、怒りをぶつけるなら俺にしてほしい」

 美羽の感情の行き先に素早く回り込んでくる怜に、怒りに任せて口走りそうになった辛辣な言葉も一緒に飲み込むと、胃の中に黒い渦巻きが現れるようだった。そこから全身に毒のように回っていく。喉の奥もぐっと押されて痛み始め、指先は震えて、唇は乾き、口の中の水分が抜けていく。なのに、目には大きな透明な水膜が張り出してくる。視界が歪んで、何もかもがぼやけて、頭の中も混乱して本当の感情がどこにあって、何が本当なのかもわからない。涙が流れてしまえば、きっと感情に流されてしまうと思った。必死に涙を押し留め抗うことに集中しながら、なけなしの理性を総動員させる。俯き、張り付いた唇を無理矢理こじ開けて紡いだ声は、自分でも驚くほど小さく頼りなく、苦しかった。

「私は、誰も好きにならない……。そう決めてるの。私は、与えてあげるものが何もない。私には、あなたを傷つけることしかできない……だから、もう、もうこれ以上近付かないで……」
 この病気になったとき、どんな罰でも受けるからどうか元の体に戻してくださいと、どんなに強く願ったか。いくら泣いても、祈っても、現実は理想とは程遠いところにあって、どんなに手を伸ばしても届いてはくれなかった。空を切るばかりの自分の手を振り回す度に、父や母を傷つけていったことも悲しいくらい知っている。本当なら、私の手は大切な人を傷つけるばかりだ。
 美羽は、ピンク色の下唇が赤くなるほどに強く噛む。痛みも感じない。
 私は自分自身にも本当の想いに手を伸ばさない。
 そう決めているはずなのに、そんな強い意志のすぐ傍にとてつもなく薄い膜がある。本当の感情はその奥にあって、膜に触れてしまえばきっと呆気なく破れ、流れ出してしまう。だから、唇の痛みで思考も感情も心の悲鳴も聞かなかったことにして、頼りない幕を守るしか方法を知らない。口の中に血の味がじわりと広がっていくのに味も感じなかった。
 なのに、怜のほうっと息を吐く音だけは、やけに美羽の耳に鮮明に届く。と、その道筋を怜の透き通った声がゆっくり辿っていた。

「人は生きていれば必ず誰かを傷付けてしまう。病気に関係なく、誰しもそうだ。
 でも、傷ついたとしても、その傷がいつか輝くこともあると思うんだ。強い思いがあればこそ、尚更。綺麗事だといわれたらそうかもしれない。だけど、そうであると信じたって悪くはないと思う」
 俯いていた美羽の顔は自然と怜の方に向けられていた。
 彼の目は決して穢れない。どんな黒いものも透明にしてしまえるのではと思えるほどに力強かった。透き通った真っすぐな瞳は美羽の瞳を捉え、離してはくれない。耐えきれず、一筋の涙が頬を伝っていく。口の中の痛みは感じないのに、伝う涙がやけに熱く感じる。怜の温かい指先がそっと美羽の涙を拭って、またまっすぐ見つめる。

「俺は、美羽のことが好きだ。
 病気のこと、一旦全部忘れて純粋な気持ちを教えてほしい。それでも、無理だというなら潔く諦める。
 自分勝手で、悩ませてごめん。時間はいくらかけてもいいから、考えてくれないか?」

 その問いに真っすぐ交わる視線に気圧されて、止めどなく溢れ出す涙。涙と一緒に思いも流れて、美羽は見返すこともできず涙は濡れたアスファルトに吸い込まれて消えていく。
 怜は、そんな美羽の頬をまた優しく拭うと「また、返事聞きに来るよ。じゃ、また」そういって、少しだけ笑って踵を返し、背中を向けた。
 口の中が痛い。鉄の味が広がる。
 美羽は手を伸ばす。だけど、手はあと少しのところで空を切った。触れられない指先の少し奥で、少しずつ遠ざかっていく背中。
 このまま見送ってしまえば。このまま一人夜の闇に放り込まれたら、本当の気持ちはきっとすべて呑まれてしまう。そうしたら、もう二度と湧き上がることはできない。沈んだまま、消えていく。
 ずっと、決めていた道だった。その道を迷わずいけばいい。そうすれば、涙を拭ってくれた優しい手も傷付けることもないのに。
ごちゃ混ぜになった感情は、圧倒的にネガティブな感情だ。
 だけど、その中に決してぶれることのない、一つの感情が何もかも蹴落としてゆく。熱く溢れ弾けて、美羽の身体は動いた。気付けば怜の背中に駆け寄り、ジャケットを掴かんでいた。

 引かれた背中に驚いた顔をして、怜は振り向いた。少し大きな目をしても、決して揺れない、透き通った瞳。間近で交わる。
 怜の視線が美羽の黒い感情の真ん中を射ぬいて、道筋を示してくれるようだった。回りの闇に呑まれないようにぐっと力を込めれば、どうしても涙が溢れて震える声。頼りなく儚い、それでも消えないたったひとつの感情を真っ直ぐ明けた道筋に乗せた。
「……私もあなたが……どうしようもないくらい好き」
 美羽の目から大粒の涙が、落ちていく。
 それを受け止めるように、怜は美羽の震える背中を抱き締めて二人は引き寄せられるように唇を重ねていた。二人の思いを分け合うように。わがままな私が選んでしまった道は必ず彼を傷付ける。いくら願っても叶わない現実を知っている。


 どのみちが正しいのかなんて、明らかだ。だけど、どうしてもこの思いだけはこの心臓が動いている限り失いたくなかった。今だけはどうしても。
 




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