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「え」

 その声に振り返ると高野さんが階段を踏み外している最中で、その体は私が伸ばした手ではなく、後ろにいた男の体に抱き留められた。

「大丈夫?」

 高野さんを抱き留めた田中君が、覆いかぶさるように高野さんの顔を覗き込む。

「だ、大丈夫です! あの、すいません。私重いですから、手、放してください」

 ちょっとパニックになっている高野さんの顔は赤くなっている。
 ……確かに免疫なくてこの状態は、照れるかもなぁ。

「ちょっと田中君、高野さん助けてくれたのは助かったけど、いつまでも抱きしめてたらセクハラになるよ」

 私の言葉に、田中君が高野さんの体制を整えて手を放す。

「狭山さん厳しい」

 じとっと私を見られても、何も出ませんが。……田中君はイケメンの類なのかもしれないけど、私の琴線には全く触れない。

「口説くのは仕事時間外にしてくれる。今から患者さんのところに行くんだから」
「僕も行くところなんで」
「だからって口説く必要はないし」
「ちょ、ちょっと狭山先輩、田中さん助けてくれただけですよ! 口説くとかどうとかじゃありませんよ、失礼ですよ」

 田中君の野望を知らぬこの高野さんは、本当に純粋にできていると思う。

「そう? じゃ、行こ」
「あ、田中さんありがとうございました」

 ぺこりとお辞儀する高野さんの姿を愛おしそうに見ている田中君に、うんざりする。

「気づかれてないし一方的だとストーカーだと思うよ」

 たぶん田中君は、我々が階段を上っていくところを見かけて、わざわざ上の階に用事を作ったに違いないと思っている。

「違いますって!」

 いや、違わないよ。
 何でリハ科の新人歓迎会に、薬剤師が混ざる必要があった?
 最初に高野さんを連れて薬剤部に挨拶に行ったとき、この田中君の瞳がきらりと光った気はしたけど、まさか高野さんにロックオンしたとはその時は思いもしなかった。
 もう高野さんが入職してから4か月が経つけど、田中君は一生懸命高野さんに絡んでいる。
 だけど、高野さんは、その好意を、純粋に好意だととらえていて、自分に恋愛感情が向いているとは思っていない。

 高野さんに目を付けた田中君の目が確かなのは認めざるを得ないけど、 周りをウロチョロされるのは鬱陶しい。早くどうにかしろとは思うけど、手伝う気はない。
 高野さんは自分が気づかない間に、溺愛されている。
 それに気づくのがいつの日か、はたまた気づかれることなく高野さんが誰か他の人を好きになるのか、個人的には楽しみにしている。
 田中君がどうなろうと、私には関係ないし。
 高野さんが幸せになってくれるなら、それでいいのだ。

 結局さっきまで私と高野さんが話していたはずなのに、高野さんと田中君が話を始めて、でも高野さんと何の話をしていたか思い出せなかったところだったから、ある意味ほっとした。
 私と高野さんは無事に、元の世界に戻ってきた。しかも、転移した瞬間に戻ってきたらしい。今回は一瞬のタイムラグのせいか私の伸ばした手は高野さんに届くことがなかったけど。後ろに田中君がいて助かった。それくらいは感謝しよう。

 戻ったところで、高野さんが混乱している様子はないし、うまく記憶も消せたんだと思う。
 ……私も魔力が枯渇したのはわかるけど、生きてこの世界にいる。ほんとにギリギリの魔力だったんだと思う。
 もうあの世界に行くことは叶わない。
 マシュー様があの世界で王としての責務を全うしてくれることを願うばかりだ。

 *

「狭山ちゃん、これ」

 患者さんの食事を見てリハ室に戻る前にナースステーションに寄ると、よく話をするナースの原田さんが、ちょっと待って、と私を呼び止めた。
 そして持ってきたものは、ケーシーのポケットにちょうど入りそうな包みだった。

「これって?」

 私の疑問に原田さんが、驚いたように目を見開く。

「いやだ、今日誕生日でしょう? おめでとう」

 誕生日……。
 それでようやく、この濃い1日が自分の誕生日にあっている出来事だと思い出す。

「ありがとうございます」

 思わぬ贈り物に涙がこぼれそうになる。たぶん御菓子が入っていそうな膨らみと軽さだけど、久々の正しい贈り物の形をとったものに、喜びがわき出る。

「いいのいいの。これくらいなら気兼ねしなくていいでしょ?」

 私が必要以上に人と関わろうとしないのをわかっていて、あえてお返しも必要ないものをくれたのだとわかる。
 だから原田さんとは距離感が心地よくて、ちょっとした雑談もしてしまうんだと思う。

「ものすごく嬉しいから、お返しはしますよ?」
「いいのに」
「いやいや、させてくださいよ」

 私の言葉に、ん、と考えた原田さんが、パッと顔をあげる。

「じゃ、ご飯食べに行こうよ」

 ご飯。

「今日とは言わないしいつでもいいよ?」

 いつも誘われるけど、断っていた。

「いいですよ」

 原田さんのこの言い方なら、2ヶ月先に遂行しても約束は果たしたことになるだろう。多少の文句は言われても、私の相談には乗ってくれると思う。4つ年上の既に子供が二十歳過ぎてる原田さんなら、私の相談相手にはぴったりだと思うから。
 原田さんが驚きに目を見開いている。

「本当に?」
「嘘はつきませんよ」

 今すぐではないけれど。……別に込み入った話をするつもりはない。極々一般的な質問しかするつもりはない。
 だから、それぐらいなら、母の呪いも発動しないんじゃないかと……思いたい。
 原田さんに浮かんだ笑顔に、それでも一線を引いてしまう自分が哀しい。
 でも、必要以上に親しくすることで、原田さんに“災い”が起こるのは絶対に嫌だ。
 だから私は、距離を保たないといけないのだ。

 *

 階段を下りながら、不思議な気持ちになる。
 この階段に戻ってきたのは数時間前で、この世界では1分にも満たない時間だったのに、向こうの世界では4ヶ月近くを過ごしていたのだということを、今では証明することさえ難しい。
 唯一あるとすれば。

 そっと左のピアスに手を触れる。原田さんに別れ際「あれ? 右落としちゃった?」と指摘されたピアス。
 あの世界で今日の朝、マシュー様に右側のピアスを渡した。
 私の命を守るための儀式なんだと、あの世界の、500年前の騎士の世界ではあった風習なんだと、マシュー様に懇願されて、渡してしまった。 
 あの世界に片方のピアスを置いてきたけど、魔法陣から魔力を抜いてしまった私には、もうあの世界のことを感じることすらできないのだ。
 あの世界と私のつながりは、もう完全になくなってしまった。
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