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本編

13.片付けは先に済ませてしまいましょう

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「やっぱり、お祖父様の所に相談に行こうと思うんです!」
「精霊王の所へ?」
クロエは柔らかなパンをちぎったまま、首を傾げる。
朝食中に突然の宣言をしたリュカの考えがクロエには読めなかった。
昨夜は夜が更けるまでお互いの不安や考えを話し合った。
以前のクロエはリュカが成人したら離婚する気満々だったので仕方がないとはいえ、いかに建設的な話し合いをしていなかったのか、よく分かった。
リュカが手仕事が得意なことは知っていたが、成体になったら店を持ちたいと考えていたことも知らなかったのだ。
クロエと結婚したことで方向転換中という事業計画の一部も見せてもらった。
その中身は一部とはいえ市場調査まで付いたしっかりしたもので、見た目や普段の言動によらない堅実さにうならされる。
クロエの方も他愛もない騎士になった理由や、可愛げがなさ過ぎて行き遅れていたこと、これからも騎士を続けていきたいことを話した。
クロエが話すことは騎士関係のことばかりで仕事馬鹿のようだったが、実際に仕事馬鹿で他に話すことがあまりない。
婚姻を継続するか否かの問題については、結局リュカが成体になってから改めて話し合う、という今までとそう変わりない結論に落ち着いた。
とはいえ、今までの一人で漠然と考え抱え込んでいた状態より、お互いに好意と不安があることを共有したことは大きい。
クロエとしてはこのままリュカが成体になるまで、穏やかによりお互いを知っていければと思っているのだが、どうやらリュカはそうでもないらしい。
「精霊王に何をお聞きするの?」
「成体のなりかたです!」
きっぱり言い切ったリュカに、クロエは更に首を傾げた。
少し困ったように眉根を寄せて尋ねる。
「この一、二年の内には成体になるだろうと言われているのでしょう? そこまで焦らなくて良いのではない?」
「焦っているというか……不安になってきてしまって……。改めて、僕がきちんと成体になったら僕と本当の意味で結婚してくれるとクロエさんは言ったじゃないですか」
「そこまでは断言してないけど」
好意は伝えたが、そこまでの覚悟は出来ていない。
昨日もそこの所はきちんと伝えたはずなのだが、リュカはクロエの抗議を聞き流して続けた。
「それに浮かれて昨日寝る前にじっくり自分の身体の調子に意識をそわせてみたんですけど、なんだかこのままじゃ成体になれる気がしなくて。こう感覚的なことですけど、成体になるのに必要な何かが足りてないような、そんな感じがするんです」
リュカは苦しげな顔で続ける。
「今までは、一、二年の内に成体になるというお祖父様の言葉に疑いも持っていなかったのですが、改めて意識してみるとどうも……」
そう言って、リュカは不安げに目を伏せる。
「そう」
クロエは一つうなずいた。
ここで気のせいだの、焦りは禁物だからもっとどっしり構えましょうだの言うのは簡単だ。
クロエにはリュカの言う感覚は分からない。
だからと言って、リュカの言うことを否定するのも違う気がする。
精霊の血が濃いリュカには、人にはない感覚があるのだろう。
クロエは自身の体内を巡る魔力の感覚が分かるが、魔力が少ない人にはそれが分からないという。
おそらく、似たようなものだ。
リュカが不安に思っているのなら、精霊王に尋ねた方が良い。
(まぁ、その目的の目的がどうだというのは、この際置いておくとして……)
クロエはリュカに柔らかな笑みを浮かべる。
「分かったわ。お義祖父様とお義祖母様には、結婚前に一度ご挨拶しただけだし、ご機嫌伺いも兼ねてお聞きしに行きましょうか」
「はい! じゃあ早速、精霊にお祖父様にご都合を聞いて来てくれるように頼みますね!」
そう言うや否や、リュカは甘橙を一切れ取り、テーブルの下へ身を屈めて差し出した。
「精霊王に、いつ遊びに行っていいか聞いて来てくれるかな?」
「え?」
リュカが摘んでいた甘橙が、一瞬で消えた。
驚くクロエの頬を、爽やかな風がかすめて行く。
振り返って見ても、食堂の窓は閉まったままだ。
そもそも、風は窓があるのとは逆の、リュカの足下から吹いて行った。
クロエはぱちくりと瞬いて、リュカに視線を戻した。
「今のが精霊?」
「そうです」
リュカは少しむっとした顔でうなずいた。
「この家はお祖父様の力で聖域化してますし、自分で言うのも何ですが僕も精霊に好かれているので、街中でも比較的精霊が多いんです。甘いものと引き替えにちょっとしたお願いを聞いてもらってます」
「そうなの」
クロエには精霊が見えないが、精霊が甘いものを好むというのは聞いたことがある。
それよりも、確認したいことは別に出来た。
「それで、どうして不機嫌になったの?」
リュカは感情が表情に出やすいというか、隠す気がないので分かりやすい。
が、どうしてそう感情が動いたのかは、常人のクロエには計りきれないところがある。
昨日の教訓は、分からないなら声に出して尋ねる、だ。
「何か気に障ることがあった?」
教訓に則って尋ねると、リュカは口を尖らせて答えた。
「今、伝言を頼んだ精霊が、出て行きがしらクロエさんの頬に口付けて行きました」
「あら、まぁ」
クロエはぽかんとして、風が撫ぜて行った右頬に手を当てた。
「私は精霊も見えないし、そう好かれる要素もないと思うのだけど」
「クロエさんは精霊に好かれている方ですよ。僕の思い人ということもありますけど、精霊はきちんとした人が好きですし」
「……なんだか照れるわね」
好かれて嫌なわけではないが、それを真っ直ぐに伝えられるとどうにも照れくさい。
クロエがほんのりと頬を染めていると、リュカが複雑そうな顔をして言った。
「……精霊は僕の、リュカの言うことを信じてくれてありがとうって言って口付けてましたけど、クロエさんのほっぺは僕のなのに……」
ぷっくりと薔薇色の頬をふくらませるリュカ。
クロエは苦笑して、ちぎったままだったパンを口にした。
これにどうこう言うと、完全に藪蛇になるので朝食を平らげることを優先する。
現にリュカがちらちらと何かを期待するかのような目で、クロエを見てきている。
クロエは紅茶を一口飲んで、にっこりと笑った。
「リュカ」
「はい!」
きらきらと目を輝かせ、リュカが前のめりになる。
クロエは笑顔のまま、リュカの前に並ぶ皿を指さした。
「朝食を食べるのを優先しましょうね」
「じゃあ食べ終わったら、いいですか?」
もじもじしながら上目遣いで、リュカが問う。
その様子は大変愛らしいが、出来れば聞き流してしまいたい。
恥ずかしい予感しかしないからだ。
しかし、歩み寄ると決めたばかりでは、聞き流すのもはばかられる。
クロエは数瞬の逡巡の後、完璧な笑みで聞き返した。
「……何を?」
「クロエさんのほっぺの上書きです! あっ、ほっぺだけじゃなくて唇に」
「食べ終わって片付けも済んだら、頬だけね」
「はい。約束ですよ」
リュカがふふっと笑う。
クロエは口を引き結び、黙って紅茶のカップに手を伸ばした。
なんだか、してやられた気がする。
実際に通したい要求より難度が高い要求を出して、相手に要求を飲みやすくするというのは、交渉の常套手段ではないか。
(……まぁ、折り合いと妥協は必要よね)
そう自分に言い聞かせて、クロエは冷めかけた紅茶を口に含んだ。


精霊王からの返事は、意外と早く返ってきた。
朝食の片づけをリュカと一緒にやっていると、皿を洗っていたリュカがふと手を止め、足下に視線を落とした。
「うん、分かった。ご苦労様」
リュカはうなずいてから、隣で皿を拭いていたクロエの方に顔を向けた。
「お祖父様は別にいつでも良いそうです。なんなら今日でも。むしろ今日の来い、くらいの勢いだったそうですけど。どうします?」
「不安を解消するには早い方がいいのでしょう? 私も一緒にご挨拶に伺いたいし次の休みは五日後だから、ご迷惑でなければ今日にしましょうか」
「そうですね。じゃあ、悪いけどもう一度、今日の午後に行くからとお祖父様に伝えて」
リュカが足下に向けてそう言う。
そしてリュカの目線が作業台の上に移動するのをクロエも目で追うと、角砂糖入れの小壷がカタンと揺れた。
「報酬は角砂糖が良いって?」
「はい。そうみたいです。ちょっと待って。今、手を拭くから」
後半は作業台の上に居るらしい精霊に向けて、リュカが言う。
クロエは布巾を定位置に戻して、リュカを押しとどめた。
「私があげるわ。いいかしら?」
見えない精霊に尋ねると、カタンと再び小壷が揺れた。
「良いそうです」
「分かった。今あげるから待ってね」
クロエは小壷の蓋をとり、角砂糖つかみで一つ差し出す。
途端に、角砂糖はかき消えた。
今度は風が額を撫ぜて行き、クロエの前髪を揺らした。
「あー! だからクロエさんが僕の奥さんだって分かっていてやるな!」
リュカが地団駄を踏んで、風が去って行った方へと怒鳴った。
クロエは何とも言えない表情を浮かべて、リュカに言う。
「……リュカがそういう反応をするから、精霊が面白がっているのではない?」
「だって! クロエさんは僕の奥さんなんですよ! 僕の! クロエさんに口付ける権利は僕だけのものなんです!」
そう言いながら、猛然と残りの皿を洗い出した。
クロエはリュカの勢いに首を傾げながらも、皿拭きを再開する。
リュカは全部の洗い物を水切りに置いて手を拭くと、クロエの持つ布巾を取り上げた。
「ちょっと、リュカ」
「拭くのは後でもいいじゃないですか」
クロエの抗議を流して、リュカはぐいぐいとクロエを居間へ引っ張って行く。
ぽすん。
リュカに手を引かれるまま、クロエはソファに腰掛けた。
「もう」
クロエは目の前に立つリュカを、眉根を寄せて見上げる。
本気で怒っているわけではないので、迫力はない。
リュカはクロエを囲うようにソファの背もたれに両手をついて、クロエを見下ろす。
「クロエさん、いいですよね」
その薄藍の瞳には期待と焦燥の色がチラついていた。
それを見ると、もう何でもして良いと許可を出しそうになるが、理性の欠片を集めてギリギリの所で踏み留まった。
じっとその目を見返す。
「や、約束通り、頬だけよ」
「精霊は額も口付けましたよ」
間髪入れずに返されて、クロエは視線を宙にさまよわせた。
リュカはクロエを囲ったまま、辛抱強く待っている。
けれど視線だけは、ビシビシと突き刺さるように感じる。
「あ~もう。頬と額ね」
半分やけのように、クロエは許可を出した。
「はい。頬と額だけにします」
今は。と小さくつぶやいて、リュカが艷やかに笑う。
既に唇に口付けられたこともあるのに、クロエはもういっぱいいっぱいになりそうだった。
たかが頬と額の口付けを受けるというだけで、心臓がバクバクとうるさい。
(もう。これもどれも、色気がだだ漏れのリュカが悪いのよ)
殊更にゆっくりと額に迫るリュカに耐え切れず、クロエはぎゅっと目をつむった。
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