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第一章 『前皇帝と北境の主』
第一章2 『ものがたりのはじまり』
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追憶が終わると、相変わらずの陰鬱とした地下牢が皇帝だった男を再度覆い尽くした。
ノアリデアート・エンバースは目の前に立つこの冷たい目をした、彼の生殺与奪の権を握る女を見つめ、記憶の中にある顔面蒼白になりながら涙一つ見せようとしなかった強い女の瞳と重ねた。
かつての忍耐と傷は、この底知れぬ平静と力を孕んだ目に取って代わられたのだろう。
「良く過ごすだと?」
ノアリデアート・エンバースは嘲笑うように口角を上げようとしたが、渇いた唇が動いたことで裂けて鋭い痛みを生んだだけだった。
しかし、痛みに屈する程の男でもない。嘲笑う声はそのままに、彼は続ける。
「俺を笑いに来たのか? 良かったな、ようやく仇を討てる日が来て。そうだろう?」
余裕を装う彼を見下ろしたマルガリータは、その言葉を受けて一歩前に進んだ。腰に下げた長銃がかちゃっと金属の音を奏でる。
彼女はやや腰を曲げて、彼に近づく。ひんやりとした松のような淡い香りが鼻に届いて、地下牢の腐り切った臭いと対比になるかのようで、あまりに似つかわしくなかった。
「笑う?」
マルガリータはゆっくりと彼の言葉を反芻する。まるで鋭利な刃のような声。
「どうして貴方を笑うことがありますか」
やや口角を上げて微笑みを作る彼女であるが、誰がどう見ても、その目は笑っていない。
「貴方はその手でわたしを婚約破棄し、わたしを相応しくないと吐き捨てた、尊き皇帝陛下ではありませんか……」
その目は、その言葉は、表情を作っているだけのノアリデアート・エンバースと比べて余程嘲笑の色が込められているよう思えた。
彼の呼吸がひゅっと引き締まるが、それを隠すように眉を顰めて少女を睨みつける。物言わぬ男を眺めて、何か口にしようとした彼女だったが、唐突の規則的なノック音によって遮られた。
「――お嬢様」
「あらヴァイス。牢屋までノックしなくてもいいのよ」
「失礼しました」
ヴァイス・クレンディ。マルガリータが婚約者だった時代からノアリデアート・エンバースも知っている男だ。彼女の影のような存在だったが、やはり今も傍にいるようだ。
マルガリータはゆっくりと腰を上げ、牢の陰に縮まるノアリデアート・エンバースを一瞥した後に、颯爽と身を翻して去っていった。
錆びた門が彼女の背後でゆっくりと閉じられていき、内側の絶望と屈辱、そして外側の光と情報の一切を、隔絶した。
門の外は城の地下通路になっていた。壁の上で燃えるランプが揺れる光の影を作り出す。ヴァイスはいつものように、お辞儀をした状態でマルガリータを待っていた。
「どうしたの? ヴァイス」
マルガリータの声は通常の穏やかでいて強靭な感情を取り戻しており、先ほどの凍て付く対峙を思い起こさせもしないようだった。
ヴァイスは特殊な魔法で封をした封筒を差し出し、声を沈めて囁いた。
「帝都からの最新情報……並びに、私が観測した、物語の進度についての報告です」
マルガリータが指先を刹那の間光らせると、手紙の封印が容易く解除される。彼女は手早く内容を目で追っていくが、徐々に眉をひそめていった。
想定内のことではあったが、こうも早くこんな展開になることは予想外だったと言っていい。
「お嬢様、原作では貴方は北方から逃げ出し、南方貴族に助けを求める、というより『わたくしを助ける栄誉を与えに行く』わけなのですが」
「怖っ。どう考えたって南方貴族が受け入れるとは思わないわ」
「はい。家族にも内緒で、助けられるのが当たり前だと思って南方までどうにかして行くわけですが、誰にも受け入れられず、貴族居住地帯にすら入れない状況になります」
「護衛を付けていたにしても、ひとりで北から南に行くバカがどこに居るのよ。どうせ道中騎士の人たちには迷惑をかけっぱなしだったんでしょうね。よく付いてきてくれたものだわ」
「前宰相閣下に娘を託すと言われたからだと書いてありました。ともかく、あなたは貴族の身なりをしていたので、散々な目に遭い、そして当時はやっていた伝染病に運悪くかかってしまい、免疫もクソもないのでストーリーの端っこでひっそり死ぬわけです。ヒロインが泣いてくれてたかな?」
「言い方……。ま、全体的にバカね。それで、今は完全に逆の方向に進んでるわけだけど……」
「問題は、それです」
ヴァイスの表情が、少しだけ陰る。
「皇帝もこの時点で処刑されているはずです。悪役令嬢ひとりどこかでひっそり生きていてもいいかもしれませんが、皇帝はまずいです。つまり『ストーリー』はもう修復不可能!」
マルガリータの指先が紙を軽くとんとんと叩きながら、その目が鋭い光を帯びていく。
「――『彼ら』は、もうストーリーのようには動かない。なら、あなたの目から見て、エルムライト・ルカス・フォン・アーレンスフォルトとアメリア・ローズウェルはどう動く?」
ヴァイスはほぼ寸分の迷いもなく、即答する。
「エルムライト・ルカス親王……ああいや陛下? の性格とアメリアの異常な執着心からして、とりあえずへい……ああ元陛下の生死と位置を獲得しようと必死になるでしょう。ここで見失ったとなると、お嬢様に危害を加えようとする可能性が高いです。まあスパイを派遣するのが基本の『き』じゃないですかね。永夜城は気を付けておくべきかと」
「あそこは境だからね。……あの人も、そこそこ人気なようね」
フン、と鼻で音を鳴らしたマルガリータは、その鋭い目つきのままヴァイスと目を合わせた。
それが命令の合図と知っているヴァイスは、慣れた動きで頭を下げて指令を待つ。
「命令を下しなさい。北境はこれより極秘で二級警戒に入るわ。検問の厳しさは最高レベルまで引き上げて、買収にも気を付けて。『暗影』を使ってスパイの撃退もお願い。指揮はあなたに任せるわ。何かあったら、わたしにすぐ報告を。わたしが直接出ることにするわ」
「はい、お嬢様」
その命令が下されると同時に、ヴァイスの姿が見えなくなる。彼はいつも暗躍が得意だ。あのノアリデアートですら、嘲笑しつつその能力は認めていたのを覚えている。
マルガリータはすぐには立ち去らず、湿気の立ち込める石壁をじっと見つめていた。はるか遠くを見るような目で。
地下牢に入れられた元皇帝。そしてヴァイスの緊張を込めた指摘。事態が急激に動き出したのは、あの豪雪の日がきっかけだった。
あの日、もう二度と会うこともないと思っていたあの人を、救ってしまったせいで。
ノアリデアート・エンバースは目の前に立つこの冷たい目をした、彼の生殺与奪の権を握る女を見つめ、記憶の中にある顔面蒼白になりながら涙一つ見せようとしなかった強い女の瞳と重ねた。
かつての忍耐と傷は、この底知れぬ平静と力を孕んだ目に取って代わられたのだろう。
「良く過ごすだと?」
ノアリデアート・エンバースは嘲笑うように口角を上げようとしたが、渇いた唇が動いたことで裂けて鋭い痛みを生んだだけだった。
しかし、痛みに屈する程の男でもない。嘲笑う声はそのままに、彼は続ける。
「俺を笑いに来たのか? 良かったな、ようやく仇を討てる日が来て。そうだろう?」
余裕を装う彼を見下ろしたマルガリータは、その言葉を受けて一歩前に進んだ。腰に下げた長銃がかちゃっと金属の音を奏でる。
彼女はやや腰を曲げて、彼に近づく。ひんやりとした松のような淡い香りが鼻に届いて、地下牢の腐り切った臭いと対比になるかのようで、あまりに似つかわしくなかった。
「笑う?」
マルガリータはゆっくりと彼の言葉を反芻する。まるで鋭利な刃のような声。
「どうして貴方を笑うことがありますか」
やや口角を上げて微笑みを作る彼女であるが、誰がどう見ても、その目は笑っていない。
「貴方はその手でわたしを婚約破棄し、わたしを相応しくないと吐き捨てた、尊き皇帝陛下ではありませんか……」
その目は、その言葉は、表情を作っているだけのノアリデアート・エンバースと比べて余程嘲笑の色が込められているよう思えた。
彼の呼吸がひゅっと引き締まるが、それを隠すように眉を顰めて少女を睨みつける。物言わぬ男を眺めて、何か口にしようとした彼女だったが、唐突の規則的なノック音によって遮られた。
「――お嬢様」
「あらヴァイス。牢屋までノックしなくてもいいのよ」
「失礼しました」
ヴァイス・クレンディ。マルガリータが婚約者だった時代からノアリデアート・エンバースも知っている男だ。彼女の影のような存在だったが、やはり今も傍にいるようだ。
マルガリータはゆっくりと腰を上げ、牢の陰に縮まるノアリデアート・エンバースを一瞥した後に、颯爽と身を翻して去っていった。
錆びた門が彼女の背後でゆっくりと閉じられていき、内側の絶望と屈辱、そして外側の光と情報の一切を、隔絶した。
門の外は城の地下通路になっていた。壁の上で燃えるランプが揺れる光の影を作り出す。ヴァイスはいつものように、お辞儀をした状態でマルガリータを待っていた。
「どうしたの? ヴァイス」
マルガリータの声は通常の穏やかでいて強靭な感情を取り戻しており、先ほどの凍て付く対峙を思い起こさせもしないようだった。
ヴァイスは特殊な魔法で封をした封筒を差し出し、声を沈めて囁いた。
「帝都からの最新情報……並びに、私が観測した、物語の進度についての報告です」
マルガリータが指先を刹那の間光らせると、手紙の封印が容易く解除される。彼女は手早く内容を目で追っていくが、徐々に眉をひそめていった。
想定内のことではあったが、こうも早くこんな展開になることは予想外だったと言っていい。
「お嬢様、原作では貴方は北方から逃げ出し、南方貴族に助けを求める、というより『わたくしを助ける栄誉を与えに行く』わけなのですが」
「怖っ。どう考えたって南方貴族が受け入れるとは思わないわ」
「はい。家族にも内緒で、助けられるのが当たり前だと思って南方までどうにかして行くわけですが、誰にも受け入れられず、貴族居住地帯にすら入れない状況になります」
「護衛を付けていたにしても、ひとりで北から南に行くバカがどこに居るのよ。どうせ道中騎士の人たちには迷惑をかけっぱなしだったんでしょうね。よく付いてきてくれたものだわ」
「前宰相閣下に娘を託すと言われたからだと書いてありました。ともかく、あなたは貴族の身なりをしていたので、散々な目に遭い、そして当時はやっていた伝染病に運悪くかかってしまい、免疫もクソもないのでストーリーの端っこでひっそり死ぬわけです。ヒロインが泣いてくれてたかな?」
「言い方……。ま、全体的にバカね。それで、今は完全に逆の方向に進んでるわけだけど……」
「問題は、それです」
ヴァイスの表情が、少しだけ陰る。
「皇帝もこの時点で処刑されているはずです。悪役令嬢ひとりどこかでひっそり生きていてもいいかもしれませんが、皇帝はまずいです。つまり『ストーリー』はもう修復不可能!」
マルガリータの指先が紙を軽くとんとんと叩きながら、その目が鋭い光を帯びていく。
「――『彼ら』は、もうストーリーのようには動かない。なら、あなたの目から見て、エルムライト・ルカス・フォン・アーレンスフォルトとアメリア・ローズウェルはどう動く?」
ヴァイスはほぼ寸分の迷いもなく、即答する。
「エルムライト・ルカス親王……ああいや陛下? の性格とアメリアの異常な執着心からして、とりあえずへい……ああ元陛下の生死と位置を獲得しようと必死になるでしょう。ここで見失ったとなると、お嬢様に危害を加えようとする可能性が高いです。まあスパイを派遣するのが基本の『き』じゃないですかね。永夜城は気を付けておくべきかと」
「あそこは境だからね。……あの人も、そこそこ人気なようね」
フン、と鼻で音を鳴らしたマルガリータは、その鋭い目つきのままヴァイスと目を合わせた。
それが命令の合図と知っているヴァイスは、慣れた動きで頭を下げて指令を待つ。
「命令を下しなさい。北境はこれより極秘で二級警戒に入るわ。検問の厳しさは最高レベルまで引き上げて、買収にも気を付けて。『暗影』を使ってスパイの撃退もお願い。指揮はあなたに任せるわ。何かあったら、わたしにすぐ報告を。わたしが直接出ることにするわ」
「はい、お嬢様」
その命令が下されると同時に、ヴァイスの姿が見えなくなる。彼はいつも暗躍が得意だ。あのノアリデアートですら、嘲笑しつつその能力は認めていたのを覚えている。
マルガリータはすぐには立ち去らず、湿気の立ち込める石壁をじっと見つめていた。はるか遠くを見るような目で。
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