氷上の悪役令嬢

Estella

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第三章 『マルガリータ・エステル・ド・シャトーブラン』

第三章4 『華麗な監獄』

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 婚約してから一年目の日々は、二つの単語に全てを圧縮することができる。『勉強』『忍耐』。それだけだ。
 いわゆる「皇后教育」というものは、いっそ極刑の方がマシだと思えるくらい過酷だった。日の明けないうちから深夜まで、わたしの時間は歴史学、儀礼学、紋章学、外交辞令、更には酒や食べ物の種類の記憶や音楽、芸術の鑑賞と選別、そして自らもそれらを習得することなどに埋め尽くされていた。

 わたしの教育を担当していた皇宮侍女長は年老いた伝統派で、一挙手一投足でも『帝国の皇后』に相応しくない点があれば、容赦なく叩き直してきた。文字通り、物理的に。
 『マルガリータ』としての全てが磨かれてなくなるまで、わたしの全てが計算された。
 目線のひとつひとつ、笑顔の角度、歩く歩幅と速度、身振り手振りの規格。まるで顕微鏡で見られているかのように審査される日々。

 疲れた――、のかどうかも、よく分からない。
 ただただ怒涛の日々に追われているばかりだった。
 そうであるからこそ、止まれなかった。止まってしまったら、今の自分を客観的に見てしまったら。何が起こるか分からないほど、愚かなわたしではなかったから。

(そうだわ、陛下も日々大変でいらっしゃる。わたしも皇后として相応しくならなくては、彼に並び立つことができない。わたしにできることはこれだけなんだから、頑張らなくちゃ)

 そう、当時のノアリデアートがどのような状況にあったかと言えば、即位まもない彼は権力を固めるための闘争の中に埋もれていた。
 帝国を背負う彼の指の先は重く、血にまみれ、凄惨だった。
 わたしは彼と会うことすら稀で、そもそも皇后教育を終えていないため公の場に出ることもできず、ごくごく稀に教育の進捗の確認と貴族の口をふさぐための情報交換の席が設けられた時だけ、わたしたちは顔を合わせた。

 翡翠殿は恐ろしいくらいに静かだけれど、外は平静ではなかった。
 敏感なわたしは、自分がどんな風に言われているのか痛いほど承知していて。

『陛下に相応しいのか? 身分だけ見れば公爵令嬢ではあるが……』
『そもそも陛下が貴族の口を塞ぐための道具として婚約しただけでしょう。愛はないわ』
『ああ、全然会ってないらしいよ。関係が悪いのかもな』
『運で皇后になっただけですわね』
『悔しいわ……運でなり上がった女に皇后の座を奪われるなんて……』

 わたしが社交界に出ない間に、わたしに友好的でない侍女たちかあるいはほかの誰かの恣意的な噂話によって、後ろ指をさされて久しくなった。
 歩くたびに四方八方から突き刺さる悪意に、慣れようと努力する時間が苦痛で仕方なかった。
 日増しに重さを増す婚約者の名。日増しに悪意を増す人々の目。
 その重みと痛みから、自分の感覚を覆い隠すことばかり上手くなった。

 無表情で廊下を歩くことができるようになって。どんな噂話も聞き流すことが出来て。理不尽もプレッシャーも全部呑み込んで。
 けれどひとりで居る時、鏡の中に映る自分を見た時に、いつも泣き崩れた。
 完璧になっていくその顔が、わたしの知る『わたし』ではなくなっていっている。

(――それが、怖い)

 今考えたら分かることではあるのだが、正直当時からノアリデアートの支配欲は露見していて、わたしの生活を侵食していた。

「――詩歌? 必要ない。この部分は『帝国財政史』に変更だ」

「――」

 わたしの日々のスケジュールは彼が恣意的に変えることができる。

「こちら、陛下からのものです」

「……」

 わたしがある日読書のし過ぎて倒れ、目が覚めた時に侍女から渡されたのが、その大量の薬と飲食に対する細かな注意事項が書かれた書類だった。
 恐らく臣下に用意させたのだろうとは思うが、喜びたかった。わたしのことを一瞬でも考えてくれたことを喜びたくて、笑顔を作りたくて、口角を上げたのに、涙が流れた。

 ――幸せって、どんな形をしているんだろう?

(この薬、飲まなくちゃいけないのよね。飲食もきっとこの紙の通りに……)

 疲れた。
 ――いや、疲れるって、どんな感覚だったっけ?

 何も、何も分からない。

 『わたし』って、誰だっけ?
 何が好きだったっけ?
 どんなことに興味があったっけ?
 どんな性格だったっけ?
 わたしは、わたしは。

 『マルガリータ・エステル』は、何だっけ?

(ヴァイスが、いてくれたら……)

 ふと脳裏をかすめたその考えを、振り払った。ノアリデアートがそれを許すはずがない。それに、弱音を吐くのも皇后らしくない。
 大丈夫、大丈夫。
 ちゃんと、話を聞いていれば、きっと、大丈夫になれるから……。
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