氷上の悪役令嬢

Estella

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第三章 『マルガリータ・エステル・ド・シャトーブラン』

第三章3 『心の壁』

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 ――そんな、ずっと昔のことを、ふと思い出してしまった。

 あの後、舞踏会でわたしのなかでは感動的な再会を迎えたり、あの子が皇太子だったと知ってひとりで仰天したり、彼があの幼さで皇帝になったことに一喜一憂したり、した。
 その全部の感情はわたしのなかで完結していたことで、彼にとっては記憶するに値しない時間だっただろう。
 そんな彼との運命が本当に交わる日が来るとは、思っていなかった。

 だけれど自惚れてもいない。皇太子時代から冷酷と評価されていた彼は、皇帝に即位すると一層独断的で冷徹な絶対的支配者として君臨した。
 国政以外のことには視線さえ向けない彼は、人々の畏怖のもとで順調に政権を固めていた。
 皇帝に限らず、その周囲も冷たい人間だと噂だ。
 そんな彼に嫁ぎ、これから皇宮で生きていかなくてはいけないわたしは、きっと何かを期待するだけ無駄だと分かっていた。
 あの時わたしを助けてくれたことも、舞踏会でのことも、彼の一時の気の迷いか、もしくは面倒事を片付けたかったに過ぎないだろう。

 十五歳。
 彼と婚約を結んで、一ヶ月。その情報が首都中に伝わったころ、わたしと彼の初めての顔合わせが今日に設定された。
 窒息しそうな生活の中、彼の光だけを頼りに生きてきた。
 けれど彼は光を放ち、その範囲内のものを照らすだけで、誰かのためにその光を与えることは決してしない。
 分かってる。分かってるの。

 これだけ長く言い訳をして、自分を落ち着けようとしてきた。
 けれど、口から飛び出してしまいそうな心臓の激しい鼓動が、わたしの心の動揺と恋の脈動をこれ以上なく示してしまっていた。
 掌を強く握りしめたことで鋭い痛みが伝わる。夢じゃない。
 婚約者として、ふたりきりで、また彼に会えることは夢じゃない。それで、もう、十分だ。

 深く深く深呼吸をして、自分の身なりをよくよく確認して、扉を軽く叩いて開けた。
 扉が開かれると共に、強い光に目を細めた。太陽の光が室内に広がっているけれど、不思議と空虚な静寂が感じられる部屋だ。
 ノアリデアートは巨大な窓の傍に、わたしに背を向けて立っていた。
 その佇まいは相変わらず凛としていて、黒色の装束が彼の触れることさえ許されぬ神聖さを一層感じさせた。
 わたしの足音を聞いて、彼は緩やかに振り返った。

 呼吸が、止まる。
 陽の光を背に立つ彼の姿は、まるで幼き日の再現であるかのようで。
 その輝きによってややおぼろげに映る整った五官は、最後に会った時よりも冷たく凍り付いていた。

「……――シャトーブラン公爵家長女、マルガリータ・エステル・ド・シャトーブランが、皇帝陛下にご挨拶申し上げます」

 逸る気持ちと少しの気恥ずかしさを抑えて、今まで習ってきた淑女の在り方を損なわないように、完璧な一礼を彼に捧げた。
 彼の視線が、わたしに向けられていることが分かる。
 けれども、その目を見なくとも、それが何の感情もない視線だと分かる。書類を処理するのと変わらぬ心で、今日のわたしとの対面を『処理』しようとしているはずだ。

「……あぁ」

 磁力でもあるかのような、低く深い声。凍り付いた冬の湖のように、何の温度も籠らぬ声。
 その一言は恐らく、礼を解いてもいいということだ。わたしはカーテシーをやめたけれど、この心を抑えられなくなるのが怖くて、顔を上げることができなかった。
 こんな状況でも頬が熱くなっている自分が、何だか馬鹿だと思える。
 幼い日のたった数十分の思い出を、十年も大事にしまって執着するわたしは、彼の目にどう映るのだろうか。

 短い沈黙。窒息しそうな気まずい空気が、流れる。
 驚くことにこの沈黙を打破したのは、ノアリデアートの方だった。まあ、彼は一切の無駄を許さぬ人間だ。寡黙ではあるが、必要なことは決して怠らない。
 わたしとの対面と連絡事項を伝えることは、今日この時間の彼の『仕事』だ。

「皇后教育が一週間後に始まる。教師はすでにつけてある。一週間後には宮殿に移るように」

「はい、陛下」

「公衆の場ではこれまで以上に言動に注意せよ。貴様の言動は国母の身分でなされることを忘れるな」

「承知いたしました」

 淡々とした会話が、広々とした部屋の中を壁打ちしていく。感情のこもらぬ空虚な会話は、婚約者同士のものとはまるで思えない。
 恐らく話すべきことを話し終えたであろう彼は、またもや視線を窓の外にやってしまった。変わらず硬いその表情筋は、まるで緩む兆しさえない。

 話そうと思っていたこと。
 伝えたいと感じていたこと。
 全部喉の奥で詰まってしまって、この冷たい壁の前に立ち尽くすことしかできない。

「連絡事項は以上だ。下がれ」

 人間も、書類も、彼の目には違いがない。
 だが、だからと言って自分を尊ぶことはなく、恐らく自身のことも国の機械のように使っている。わたしが立ち去った後、彼はまた終わりない仕事に没頭する事だろう。

 ――わたしも、忙しくなる。
 翡翠殿。
 皇后のためにある宮殿。婚約者に過ぎないわたしだが、貴族達の期待度を見れば、いずれは結婚までせねばならないだろう。だから、直接翡翠殿に行かなくてはならない。
 その分、わたしの皇后としての教育も、人一倍厳しくなるのだろう。

「――仰せのままに」

 けれど、わたしが皇后として完璧であることで、皇帝である彼の地位をより確固たるものにできるのならば。
 この冷たい声に生涯を拘束されることになっても、構わない。
 わたしにとっては彼の声よりも、この世界そのものの方が、余程冷たかったから。その冷たさに暖かな光を灯してくれたのは、彼が初めてだったから。

 そうして、扉がゆっくりと閉じられていく。
 最後まで目を合わせられなかった彼の姿が、扉の隙間が小さくなるにつれて隠されていった。

 たった、それだけの対面だった。

(いいの……一目でも会うことができた。婚約者にならなかったら、会うどころか目にすることも難しいのだから。欲張りになっては駄目よ。期待するのもおこがましいわ)

 彼は必要のない人間と言葉を交わすことがない。わたしと会い、言葉を交わしてくれたということは、少なくともわたしは彼にとって不必要ではなく、彼の人生の中を、ほんの少しだけでも占めることができたということでもある。
 壮絶な人生を送ってきて、これからも厳しい世界に身を投げる彼から、それ以上のことを求めるのは身勝手ではないか。
 帝国のために産まれ、帝国のために生きた彼は、人を愛することはない。

 分かっている。分かっているの。
 そんなことは全部わかっていたのに。

 どうして。どうして?

 ――どうして、涙が止まらないの?
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