獅子心姫の淑女闘争

若島まつ

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八、姫君の未知 - la Princesse ne sait pas -

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 口づけがこんなものだなんて、知らなかった。
 シダリーズは自ら舌を伸ばしてギイの口づけに応え、冷えた身体の奥で火が灯るのを感じた。
(この人が上手なのかしら。経験豊富だから?)
 そんなことを考えた。のぼせているのかもしれない。他の女性にこうしているのを想像するだけで、なんだか胸に靄がかかった気分になる。
「ん」
 ぐ、と舌を奥まで押し込まれ、シダリーズは呻いた。
「何に気を散らせてる」
 ギイが唇の触れ合う位置で口を開いた。声は、表情ほどは笑っていない。
「あなたが、命知らずなくせに案外研究熱心なのねと、思ったの」
 シダリーズは上擦った声で言った。昨夜みたいに触れられたわけでもないのに、身体の奥が燻るようだ。
「命知らず?」
「王族の女にこんなことをして――」
「あんたは教育局のリゼット・メルルなんだろ?」
 そうだった。と思った。
(まだわたしはリゼット・メルルとして振る舞っていいんだわ)
 ギイはシダリーズの心を見透かしたように吐息で笑い、もう一度シダリーズの唇を塞いだ。
「…で、研究熱心っていうのは?」
 吐息混じりの声がこんなに甘いなんていうことも、初めて知った。やはりこの男は危険だ。
「それは、あなたが…他の人にも、こう…」
 シダリーズはごにょごにょ言って、そのまま口を閉じた。なんて不毛なんだろう。
(これじゃ嫉妬してるみたいだわ)
 いや、違う。断じてそうではない。
 シダリーズはどこか面白がるように目を覗き込んでくるギイの深い青の目を見返して、決然と言った。
「あなたが、不特定多数の女性とこういう行為をしているのが、女性を喜ばせる術を研究しているみたいに熱心だと言いたかったの。皮肉よ」
 ギイが心底面白そうに目を細めたので、シダリーズはどきりとした。いつもみたいな不機嫌な顔より、ずっとたちが悪い。
「じゃあ、あんたも俺を研究材料にすればいい。今後のために」
「あなたにその価値があると言うの?」
「それはあんたが判断することだ」
 ギイが膝をついて椅子の肘掛けを掴み、檻で囲うようにシダリーズを椅子と自分の腕の中に閉じ込めた。
 不埒な大蛇が、膝を這い上がって来て、首に噛み付こうとしているみたいだ。
 ギイの太い腕が、近づいてくる。大きな手が粗野なこの男の言動とは真逆の優しさで頬に触れ、栗色のまつ毛に縁取られた深い青の瞳が、近づいてくる。
 その時、寝室の扉が叩かれた。
「シ…じゃない。リーズさま」
 ジャンだ。ギイがシダリーズの正体を知っているとわかった今も、当初の言いつけを守っている。
 シダリーズは急に激しい背徳感に襲われた。体調を崩して寝込んだ自分の代わりに、骨の髄まで王家に忠実なジャンとマノンは子供たちや若者たちに向けて今日も朗読会を開いてくれているというのに、自分はまんまとギイ・ルマレの挑発に乗って悪い遊びをしていた。
(なんて怠惰なの)
 シダリーズはギイの腕を押しのけて立ち上がり、何も言わずに扉へ向かった。
 開いた扉の奥に跪くギイ・ルマレの姿を見つけたジャンは、平素穏やかなこの男には似合わず、番犬のように牙を剥いた。
「…ルマレ閣下はこちらで何を?」
「姫殿下に朝の挨拶だ」
 ギイが白々と言って立ち上がり、捲った袖を直して、扉へ向かった。
「そうよ。よい一日を、ルマレ閣下」
 シダリーズはにっこりと笑顔を貼り付けて、部屋を出て行くギイを見送った。こんなことに心を乱されてはいけない。言葉通り、今みたいなことはギイ・ルマレにとっては挨拶のようなものなのだ。
 ジャンの用向きは、学用品に関わることだった。減っていた参加者が今朝また増えたために、シダリーズの手持ちのインクを貸してほしいというのだ。
 少し落ち込んでいた気分が上昇した。なんて単純だろうと自分でも思うが、字を識らないこの地の人々が物語を通して読み書きに意欲を見せていることは、シダリーズにとって大きな喜びだった。
「あっ、インクを貸してくださるだけで結構です」
 ぱあっと明るくなったシダリーズの顔を見たジャンが、硬い声で言った。
「わかってるわ」
 小首を傾げたシダリーズに向かって、ジャンが苦笑した。
「今にも外に出ていきそうでしたから」
「失礼ね。あなたに頼まれたのだから、ちゃんと大人しくしてるわ」
 ジャンは屈託ない笑顔を見せた。
「そうしてくださると助かります」
「でも、そろそろ引き時かもしれないわ。ルマレ閣下が王都に遣いを送ったの」
 シダリーズは声を落とした。
「初めて彼がまともだと思いました」
 ジャンが眉を上げて肩をすくめて見せたので、シダリーズは「もう」と彼を肘で小突いた。
「全速力でわたしを連れ戻しに来るでしょう。国王陛下が帰ってこいと言うならわたしも反抗する気はないわ」
 いつもこうだ。意地になって、気を張って、結局周りに迷惑をかける。十年前、ジャンは任務の途中で大怪我を負い生死の境を彷徨った。親友である王妃も、戦と混乱のために危険な目に遭い、国王は一度ならず命を賭けた。皆が傷付きながら、数々の混乱を乗り越えて、戦を終わらせたのだ。
 当時十七歳のシダリーズは無力感でいっぱいだった。何もできなかったことがあまりに悔しくて、せめて終戦後の荒廃した国を救う力になりたいと、この十年間王家の一員として力を尽くしてきたつもりだ。
(それなのに、この始末)
 ひとつの領地にひとつの学校を建てることがこんなに困難だなんて、思ってもみなかった。
「だから、ジャン――」
 顔を上げたシダリーズの目を、ジャンは誇らしい気持ちで見た。強い光が踊っている。
「それまでに、少しでもエラデールの人たちに読み書きの楽しさと大切さを植え付けていきましょ。領主にも会うわ。だって、出入りしているルマレ閣下が健康体なのだから、伝染病って疑いはもうないでしょう?忍び込んででも行くわよ。もう王族の人間だと宣言してもいい。なりふり構っていられないもの。使えるものはなんでも使わないと。潜入しているジルベールにも連絡を取ってくれるかしら」
 ジャンは眩しいものを見るように目を細めた。
「それでこそ、我らがシダリーズ姫さまです」
「力を貸してくれてありがとう、ジャン」
 シダリーズは子供が大きなぬいぐるみに飛びつくような軽やかさでジャンの胴をきゅっと抱き締め、すぐに離れて、ニッコリ笑った。今度は、心からの笑顔だ。
「淑女らしくないけど、今だけ許して。奮い立ったから」
「わかっています」
 ジャンは苦笑しながら、騎士らしく貴婦人に対する儀礼的なお辞儀をして、インクがいくつか入った小さな木箱を部屋の隅から回収し、辞去した。
 こうしてはいられない。
 シダリーズはトランクから料紙を取り出して鏡台の小さな板に折り曲げて置き、次に羽ペンをしごいて筆を走らせた。
 線を引いて直しては上に走り書きをして、下書きを終える頃にはシダリーズしか読めないほどの有様になっていた。
 空腹に耐えかねた身体がとうとう悲鳴を上げたとき、既に何時間もこの作業に没頭していたことに気づいた。昼はとうに過ぎている。
 きっとこの屋敷の使用人たちはシダリーズのために食事を用意することはないだろうから、自分で調達するしかない。
 ジャンにもマノンにも、自分のために食事を用意するより朗読会に時間を使うように言いつけてある。
 この町唯一の小さな市場に出向いて小さな硬いパンでも手に入れようかと思案していると、ノックの音とともに扉が開いた。
「今に始まったことではないけれど、女性の部屋へ返答を待たずに入ってくるのは非常識よ、ルマレ閣下」
 シダリーズは遠慮なく部屋に入ってくるギイに冷たく言った。
「早く出て行けと言われたのに半月も滞在するのは非常識じゃないのかよ。俺には俺の家を自由に歩き回る権利がある」
「…それは、一理あるわ」
 シダリーズは言いながら唇を尖らせた。
 面白そうに吐息だけで笑ったギイの手には、焼きたてのパンとスープの入った丸い器がある。よく煮込んだ野菜の柔らかな匂いが漂ってきた。ギイはシダリーズの目を見て眉を上げ、鏡台の小さな机を視線で指した。
 そこに乗っている紙を片付けろという意味だ。
 シダリーズがインクの滲んだ紙をベッドの上に避けると、ギイは鏡台にパンとスープを置き、ベッドに腰掛けた。
「どんな風の吹き回しで今日は食事の用意をしてくださったの?」
 感謝の言葉が素直に出ない。どうしてこの男の前では子供っぽくなってしまうのだろう。
「うちに、あんたたちの教え子の親が届けに来た。あんたが倒れたと聞いて大勢来たから、差し入れだけ受け取って帰らせた。ここに集まられちゃ迷惑だ」
「そうなの…」
 シダリーズは古びた陶の器に手を伸ばし、じんわりと手のひらを温めた。
 入っている野菜は少なく、少しの雑穀が混じっている。きっと、この地に於ける一般的な食事か、それよりも豪華にしてくれたに違いない。決して多くない食糧をわざわざ分けてくれる人がいるなんて、知らなかった。
 焼きたての温かいパンの下には、紙片が挟まっていた。
 学用品として持ち込んだ料紙の切れ端だ。子供が書くような拙い字で、「おだいじに」と書かれていた。それも、違う筆跡で、同じように回復を願う言葉がいくつも綴られている。
 初めてエラデールの人々と心が通じた気がした。今芽が出なくても、蒔いた種は必ず実を結ぶと、確かな希望が持てた瞬間だった。
「嬉しい。ありがたいわ。すごく…」
 じわじわと目の奥が熱くなって、決壊した。シダリーズはギイに背を向けて、ぐしぐしと涙を袖で拭った。ギイがベッドから立ち上がって近づいてくる気配があったが、シダリーズは動けなかった。胸がいっぱいだ。
 ギイの袖が目に押しつけられて、シダリーズは顔を上げた。
 青い目に吸い込まれそうだ。
「…早く食わないと冷める」
「そうね」
 食事の間、ギイはシダリーズのベッドに腰掛けていた。
 ひどく居心地が悪かったが、もしかしたらまた倒れないように気遣ってくれているのかもしれないと思い至ると、不思議な気分になった。案外、悪くない。
「…獅子心姫が泣くとはな」
 シダリーズが短い食事を終える頃、ギイが低い声で言った。
「そのあだ名嫌いなの」
 シダリーズは食べ終わった器を鏡台の隅に置くと、眉を寄せた。
「なんでそんなふうに呼ばれてる?シダリーズ姫は貞淑な王国の花なんだろ」
「花にだって、棘はあるわ」
 シダリーズは息をついて唇を開いた。
 どうしてこの男に話そうと思ったかは、わからない。この地の人々の優しさに触れて起きた、気まぐれだったかもしれない。
「…十年前に、戦が終わったでしょう」

 シダリーズが言っているのは、隣国イノイル王国とエマンシュナ王国の間で千年もの長きに渡り断続的に続いていた戦争のことだ。
 当時王太子だったレオネ王は、それまで敵国だったイノイル王国の姫を妃に迎えて和平を結び、戦乱の時代に終止符を打った。それと同時に新たな国王として即位し、程なくして旧制度を撤廃すべく、王国政府の組織を一新した。戦に明け暮れていた血生臭い時代から、豊かで平穏な時代へと舵を切るためだ。
 この時、新たに教育局が創設された。それまで皆無に等しかったエマンシュナ王国としての教育に関する指針をまとめ、国内の全ての地域に、人口に応じた数の教育施設をつくることを義務付けたのだ。
 教育施設と言っても、古くから様々な分野の専門的な研究機関がある王都のアストレンヌ大学などとは全く違い、簡単な読み書きや最低限の法律などの教養を庶民が身に付ける程度の機関だ。
 これまでは庶民の間で読み書きができるということが、それほどに重視されていなかったのだ。その意識を変えるべく、国王と王妃が中心となって改革を決めた。
 この教育令が発令されて以降、年に一度、各領内の教育事業に関する定期報告会が王都で行われている。
 シダリーズがルミエッタ王妃の要請でこの教育局の役員となったのは、一年前のことだ。事件は、その年の八月の定期報告会で起きた。
 発令から十年ほど経つが、三割程度の領地はその基準に達していない。まだ長い戦乱の痛手が残っており、教育機関の整備が追いついていない地域が多くあるためだ。元より、王府の意図としては長い時間をかけて行うつもりだったから、基準に達していない地域があることは無論承知しているし、無理に急かすこともない。まずは、領民の生活を立て直すことが第一だ。
 ところが、この報告会に一度も出席していない領地がひとつだけあった。それこそ、このエラデール地方だ。
 シダリーズが他の役員たちに理由を問うと、領主のデュロン伯爵が長く患っているために出席できないのだという。当然、疑問を持った。領主自ら教育局の報告会に出席している領地などない。みな代理のものを立てたり、独自の教育機関の責任者を派遣したりしている。基準に満たない領地も、年を追う毎に改善が見られ、十分に今後の見込みはある。教育に対する意識が良い方向に変わっている結果だ。――ただ一つ、エラデール地方を除いては。
「エラデールの領主どのは代理のものを選ぶこともできないほど重篤なのでしょうか。何年も?もし本当なら、領主の他に裁量権を持つ者がいるはずですよね。実際にエラデールは税収の報告や新年の挨拶には贈答品を送ってくるではありませんか。国王直々の発令を軽視していることは明らかなのに、今までどなたも調査をしなかったのですか?それはわたしたちの怠慢ではないですか」
 シダリーズの詰問に、役員の中でも地位の高い重臣などは眉を顰め、特に意味の無い理由を並べ立てて彼女を黙らせようとした。まるで癇癪を起こした子供に接するような態度だ。女性を下に見ていることを悪びれもせず、取り繕おうともしない。
「シダリーズ姫殿下におかれましては不慣れなことも多く煩わしいでしょうから、我々にお任せいただきたい」
 と、ある重臣の言葉に、堪忍袋の緒が切れた。
「怠け者の爺どもに、用はないって言うのよ!」
 憤然と吐き捨ててその場を後にし、後日、王族という権限を持って彼らを全員罷免してしまったのだ。
 
 ギイは弾けるように笑い出した。
「あんたらしい」
 胸がザワザワする。少年のように笑う顔は、初めて見る。
「笑えないわ。たった一回――たった一回よ。王族の権力を政府の人事に使ったの。それだけで、‘獅子心姫’だなんて揶揄されるようになるなんて、理不尽だと思わない?貞淑な王国の花だなんて、勝手にみんなが思ってただけなのに」
 シダリーズは腕を組んで憤然と言った。
 ギイが、目を柔らかく細めた。
 どきりとした。この男がこんなふうに、愛おしいものを見るような目で自分を見るなんて、信じられない。
「どちらもあんただろ。誇ればいいさ」
「簡単じゃないの。わたしが罷免した重臣たちは、国王陛下が他の役職を与えて体面を整えてあげていたのよ。結局、わたしが感情的になって陛下の手を煩わせただけだったわ」
 シダリーズは胸が鼓動を打ち始めたのを無視して、唇を尖らせた。
「政府なんて、そんなもんだろ。期待しない方がいい。誰にもな」
「突き放したような言い方をするのね」
 目は優しいのに。とは、言わなかった。
 この時、ギイの深い青の目が翳るのを見た。ついさっき見せたとびきり優しい目は、もうない。
「…俺は王国政府を恨んでる」
 ギイが硬い声で言った。
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