獅子心姫の淑女闘争

若島まつ

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九、姫君の決意 - la Princesse décide -

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 ギイが王国政府を憎んでいる。
 とは、あまり穏やかではない。何より、王族であるシダリーズには耳が痛い――と言うよりも、悲しい事実だった。
「…俺は、父と兄をアクイラ海峡で亡くした」
 ギイは冷たく暗い目をして言った。これが海上の事故で死んだという意味ではないことを、シダリーズはわかっている。

 十五年前に起きた「泥の道の事件」と呼ばれる出来事のことだ。
 当時、エマンシュナ王国とイノイル王国は休戦協定が結ばれている時期にあった。締結から四半世紀が経った頃、両国の代表者が双方に協定の継続の意志があることを確認するべく、国境で書面を取り交わすことになった。
 この場所として選ばれたのが、二つの国を隔てるアクイラ海峡だ。
 海峡と言っても、それぞれが海上に船を出すのではない。この海峡は、干潮を迎えると二つの国を結ぶおかが現れる。これが、通称「泥の道」と呼ばれているのである。
 海上では、互いに戦艦からの攻撃を受けかねない。かと言ってどちらかの国に足を踏み入れれば、使者が急襲を受けないとも限らない。そういう疑念や危険を互いに回避するべく、短い時間が経てば再び海に沈んでしまう泥の道を敢えて選んだのだ。最小限の事務的な調印を最短の時間で行い、互いに自らの領土へ穏便に帰る。これが干潮時にしか現れない「泥の道」を会場として選んだ目的だった。
 ところが、目論見が外れた。
 エマンシュナ軍の後方からイノイル軍に向けて矢が放たれたのだ。この矢が、休戦協定を破棄の合図だった。
 そのまま泥の道で乱戦になり、それぞれに王族を含む十余名の死者を出し、彼らがそれぞれの王都へ帰還した瞬間、二つの国を戦火が包んだ。結局、現在の国王が婚姻による和平を実現し、エマンシュナ・イノイル両国は友好的な同盟国となったが、長年の戦の代償として、国民の中にはまだイノイル王国を憎むものも少なくない。
 そして、エマンシュナ王国政府に憤りを感じているものも同様だ。
 なぜなら、泥の道で放たれた矢は、王国政府の意図とは関係なく、エマンシュナの武器商人が儲けのために戦を再び激化させるべく仕組んだ陰謀であったからだ。この陰謀が暴かれた後、首謀者は全員断罪されたものの、当時のエマンシュナ王国政府を静かに浸食していた腐敗がそのきっかけとなったことは間違いない。
 そして、泥の道で命を失ったものたちの家族は、その悲しみと当時感じた王国への失望を、今も心に抱き続けている。

 ギイは、その中の一人だったのだ。
 ごめんなさい。とは、言えなかった。
 シダリーズがここで謝罪の言葉を口にしたとしても、まったくの無意味だ。そんな儀式的な言葉一つではギイの心を軽くすることはできない。
「王国政府付きの騎士団長として追従した父と兄は、泥の道の乱戦で死んだ。潮に呑まれて死体も帰ってこなかった。母も心を壊して死んだ。十二のガキに何ができるわけもなく、ルマレ家は衰退の一途だ。残ったのは片田舎の古びた屋敷だけ。ガキの俺が王都からここへ来て必死で生きる術を身に付けてる間、王国政府は何をしてくれた?自分たちの不始末であんな戦を起こしてから、王国を立て直すのに必死で没落していくやつらには目もくれない。もう過ぎたことだし、あんたに言うのはお門違いだ。どこに吐き出したって溜飲なんか下がりゃしない。それでも俺は、あれは仕方のないことだったと、王国政府を許して敬ってやれるほど寛大じゃない」
 初めてギイが本心を見せたと思った。
(このひとは、こんな顔をずっと心に隠していたのだわ)
 他のエラデールの民と違ってギイが読み書きができるのは、子供の頃に一般的な教養を王都で身に付けたからだ。将来は父と兄のように騎士団に入るつもりでもあっただろう。爵位もない小さな家では、つてがなければ入団は難しい。彼らが亡くなった後は、一つの家族が生活するには少なすぎる王国政府の見舞金だけを頼りに生活するしかなかったはずだ。
 ギイが領主のために働くのは、きっと恩返しなのだ。この地を知らない十代の子供を領民として受け入れ、長じてからこの地の名士として取り立てた領主への深い恩義が、ギイにはある。
 シダリーズはどうしようもなく泣きたくなった。だが、駄目だ。涙を流すべきは、自分ではない。
「あなたは、強いひとね」
 シダリーズは立ち上がってベッドに座るギイの隣に腰掛け、手に触れた。他意はない。自分が弱ったときに、親友のルミエッタ王妃はよくこうしてくれる。相手に真心を伝えるのに、手のひらの熱は言葉より多くを語るのだ。
 ギイは、シダリーズの手を握り返して、そっと戻した。
「やめておけ。誘惑に見える」
「そ、そんなつもりはないわ。ただ――」
 シダリーズは唇を噛んだ。どう言ったら伝わるのだろう。
「…悪かったわ。あなたのこと、人でなしとか、最低とか言って」
ル・マル邪悪とか?」
 ギイが唇を吊り上げた。この顔こそ、誘惑に見える。
「ええ、そうよ。今も悪い男だと思っているけど、でも、あなたの背負っているものを理解しようともしないで、凄く自分勝手な言い方だったわ。ごめんなさい」
 シダリーズはギイの青い目をまっすぐ見て言った。手に、離れたはずのギイの手が触れた。指がシダリーズの指をなぞるように這い上がって、端正な貌が近付いてくる。次に何が起こるかはわかる。が、拒む理由がなかった。
 ギイの唇が自分の唇に触れた時、その優しさに驚いた。上下の唇を啄むようにそっと吸い付いてくる。舌が唇を割って歯の間から中へ入ってきて上顎の歯列を舐めると、シダリーズの背をむずむずともどかしい快感が走って、座っていられないほどに身体の力が抜けた。
(これも、悪い遊び?)
 優しい腕に支えられてベッドに倒されたときも、唇は解放されなかった。自分も舌を伸ばして、その口付けに応じている。
 今の自分は、何者だろうか。
 互いに唇を熱く濡らしながら離れたとき、視線が絡んだ。
 どう形容したらいいかわからない、不可解な感情が胸に迫って、シダリーズの身体の中を締め上げた。痛くて、ちくちくする。何か、小さな獣が胃のあたりで暴れているのではないかと思うくらいに身体の中が騒がしかった。
 ギイは形の良い眉を煩わしそうに寄せて、シダリーズから視線を外した。
「…これでチャラにしてやる」
 そう言ってギイの身体が自分の上からなくなったとき、シダリーズはひどく心許なくなった。心のどこかが小さく傷付いたのかも知れない。喪失感にも似ていた。
 シダリーズは暗い石の天井を見上げたまま、ギイが部屋の扉を閉める音を聞いた。
 大変なことに気付いてしまった。
(わたし、ギイ・ルマレに恋をしてしまったんだわ)
 そして恋がこんなに苦しい気持ちになるものだったなんて、想像もしていなかった。
 当然と言えば当然だ。ギイが、王国政府の人間に心を開くことはないだろう。恨みは消えず、傷も癒えない。身分も違う。そんなものはシダリーズはどうでもいいと思っているが、王族には呪いのようについて回るものだ。それに、男を知らないシダリーズと女を知り尽くしたギイでは、どう考えてもこちらの分が悪い。
 二人には、違いがありすぎる。この恋が成就することはない。
 初恋に気付いた瞬間に失恋が決まるなんて、皮肉なことだ。
「泣いてはだめよ、シダリーズ」
 小さく呟いて、奥歯を噛んだ。
 報われない恋でもよいではないか。心に秘めて、誰にも告げず、夜空を走る流れ星を見たときのように、ささやかな思い出にしていけばいい。
 エラデールを出ていけば、きっと二度とギイと会うことはない。それなら、戦で家族を失ってから孤独に戦ってきたギイのためになることをひとつでもすればいい。そしてそれは、ギイの手を借りずに早く目的を遂げて自分たちが消えることだ。エラデールの領主のために働いているギイに対して利害関係にある自分ができることと言えば、もうそれしかない。

 翌朝、シダリーズはいつものようにジャンとマノンとともに廃寺で朗読会を開いた。壁も剥がれ、太陽神の像などは腕が落ちて見るも無惨な状態だが、子供たちが多く集うと、この場所が世界でいちばん美しい場所のように思えた。
 驚いたことは、減っていた参加者が一番多いときの人数に戻った――というよりも、それよりも更に増えていたことだ。どうしたことかとジャンとマノンに訊ねたが、二人とも理由は分からないようだった。
 中には、酒場で一緒に賭博をしたギイ・ルマレの悪友たちもいる。
 彼らはシダリーズの快復を喜び、いつも以上に歓迎してくれた。
 朗読会の後の勉強会にも、多くの領民が残った。子供だけではない。若者や、その親たちも自分の名や朗読した物語の好きな一説を料紙に書き、書き言葉の文法を意欲的に学んだ。
「読み書きはともかく、こんな決まりを覚えて得があるか?作家になりたいやつが覚えたらいいんじゃないのか」
 と言う若者があったので、シダリーズはニッコリ笑ってこう答えた。
「たとえば、王国政府や領地の役所に公式な文書を提出するときには、とても重要です。暮らしの窮状を訴えること、領地の状況を知らせること、助けが欲しいときにも。知識は、わたしたちを裏切らないわ。持てば持つだけ力になります。だから、わたしたちがここからいなくなった後も、学ぶことをやめないでほしいの。近いうちに、この廃寺じゃなくてもっと大きな学校を造れるはずよ」
 そして、種は育つ。
 シダリーズは彼らを眺めて思った。
 持ってきた書物は全て寄贈しよう。学用品も、シダリーズの個人的な資産から出して提供し、エラデールの子供たちが成長して、その次に教える立場になるまで、支援を続けよう。そうすれば、力になるはずだ。その時はきっとギイもわかってくれる。知識と教育がこの地を豊かにすると、証明できる。

「ルマレ閣下、夕食を一緒にいかが?」
 と、シダリーズが声を掛けたのは、この日の夕暮れ時のことだった。出仕を終えて領主邸の門から騎乗で出てきたところを、十分ほど前から待ち構えていたシダリーズが捕まえたのだ。
「子分たちは?」
 ギイは怪訝そうな顔をして、辺りを見回した。
「ジャンとマノンのこと?その言い方は適切じゃないわね。さっきまで一緒だったけど、あなたのお友達も一緒に、先に酒場に行ってもらったわ」
「そうかよ」
 ギイはシダリーズの遙か後方に立つ樫の木のあたりを遠い目で見ながら笑った。忠実な騎士がそこから厳しい目でこちらを監視していることには、シダリーズは気付いていない。
「一体どういう風の吹き回しだ」
「勉強会が盛り上がったの。あなたの友達――ブリュノ。わたしがこの間酒場で踊った人。彼って言葉は乱暴だけどとっても面白い人だわ。手品が得意なのですって。それで、その幼馴染みの女の子たちが、みんなで食事しましょって誘ってくれたの。だからあなたも一緒にどうかしらと思って」
 ギイは不機嫌そうに眉を寄せ、馬から下りて、シダリーズに手を差し出した。
「乗れ。馬を引く」
「馬丁みたいな真似はいやなんでしょう。あなたも乗ったらいいじゃない。その方が早く食事ができるわ」
 ギイは眉間の皺を深くして小さく舌を打ち、シダリーズを鞍上に乗せた後、自分もその後ろに跨がった。
「じゃじゃ馬」
「意地悪」
 互いにささやかな悪口を言い合った。その後の沈黙は、何故か楽しかった。
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