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第二章

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 ウォルターが席を外していたのは、せいぜい三〇分程度だったと思う。その間イーサンは、ずっと喋りっぱなしだった。

「失礼ですが、お嬢さんのお名前は?」
「すみません、名乗っていませんでしたね。リネット・ジャービスといいます」
「では、ミス・ジャービス」

 リネットは目をパチパチとさせ、照れた様子で言った。

「私は結婚しております。そんなに若く見えましたか?」

 確かにリネットは若々しく可愛らしい女性だが、イーサンが彼女を独身だと思ったのは、結婚指輪をしていなかったからだろう。しかしそんなことはおくびにも出さず、彼はいけしゃあしゃあと微笑む。

「えぇ。まだ十代でいらっしゃるかと」

 見え透いたお世辞だったが、全くそうは聞こえない。リネットは柄にもなく上品に、ホホホと笑った。

「まぁお上手ですね」
「ご結婚されているのであれば、悩みというのはやはりご主人のことで?」

 褒められて緊張が解れたのか、リネットはあっさりうなずいた。彼女の顔を見るかぎり、暴力的な夫に困っている、というような内容かもしれない。

「最近ご結婚されたんですか?」
「一年ほど前になります。夫のカールとは同郷なんですよ」
「ご出身はどちらなんです?」
「ランカシャー州です」

 綿工業の中心地だ。機械化によって仕事を奪われ、都会へ出てきたのかもしれない。文明の発展が、必ずしも人々を幸せにするわけではないのだ。

「こちらでの生活はどうですか?」

 リネットはうんざりした様子で目を伏せた。

「ここは町中ゴミだらけです。道端どころか池や川もですよ? そんな水を飲んでいれば、毎年のようにペストが流行するのも当然です」
「人が多すぎるんでしょうね」
「獣も多いですよ。大きな犬や雄牛が、路上に野放しにされてるんです。死ねばそのへんに捨てられますしね」

 人間の死体すら埋葬するという概念がないなら、獣の死体など放置されるに決まっている。この町が地獄絵図のようになっているのは、然もありなんというわけだ。

「乳牛ならまだわかりますが、雄牛を飼っているんですか?」
「見世物にするんですよ。首をつながれた雄牛に、グレイハウンドをけしかけて噛みつかせるんです。時には賭けの対象になることもあって」

 リネットはハッとして口を噤んだ。残酷な動物虐待が日常にあることを、恥じたのかもしれない。しかし飢えと貧困の中で惨めな生活を忘れるには、ひとときの娯楽でもないとやっていられないのだろう。
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