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2章 四度あることは五度ある

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 均衡を破ったのは、美琴だった。

「当矢!」

 美琴の凛とした声が緊迫した空気を切り裂き、当矢はびくりと肩を震わせた。

「……当矢、あなたは本当に平気なの? 私が他の方の元に嫁いでも、他の方に触れられても、他の誰かと幸せになっても本当に平気なの?」

 そして美琴は当矢につかつかと歩み寄り、その前に立った。

「……美琴お嬢、様?」

 頭ひとつ大きいはずの当矢がなぜか美琴よりも小さく見えた気がして、椿は目をこする。

 美琴は真っ直ぐに当矢へと視線を向け、凛とした声で言った。

「……当矢。私は、あなたが好き。あなたのことが物心ついた頃からずっとずっと好きだった。あなた以上にありのままの私のことを知っている人はいないわ」

 美琴の気迫に圧されるように、当矢は困惑しつつうなずいた。

「大人になればいつかは誰かと結婚しなければならないと、ずっと思ってきたわ。たとえそれが好きな人でなくても、家のためにそうすべきなんだって。……でも私、あなたとじゃなきゃ絶対に幸せになんかなれない」
「美琴お嬢様……。ですが自分は……」

 一瞬当矢は泣きそうな表情を浮かべ、何かを言いかけようとして言葉を飲み込んだように見えた。

「……私は、幸せになれないの? この先ずっと叶えられなかった思いを後悔しながら、悲しみながら生きていかなくてはならないの? ……私は、あなたと幸せになりたいわ。ありのままをわかってくれるあなたと、二人で幸せになりたいの。当矢。あなたは違うの?」

 問いかけた美琴の目から、大粒の涙がぽろりと零れ落ちた。

 当矢は身じろぎもせず、それを見つめていた。一瞬美琴の涙を拭うようなそぶりを見せたけれど、その腕は途中で固まったまま動かない。

「……私は」

 この場にいる者全員が息をのんで、当矢の反応を待った。
 一瞬の静寂のあと、声を振り絞るように、当矢が叫んだ。

「私は……、私も美琴お嬢様のことを誰よりも大切に思っております。本当は誰にも渡したくない……! 誰にも触れさせたくなどありませんっ! 私はあなたが欲しいのです。あなたの心も未来もすべて……! けれどそれにふさわしい資格が今の自分にはないのです。こんな自分があなたを欲しいなど、言えるはずがないのです」

 遠くで木々に止まっていた鳥たちが羽ばたく音がする。
 ふいに一陣の風が吹き抜けて、見つめ合う美琴と当矢の髪を揺らした。

 目を見開いて信じられないと言った表情で見つめ合う二人に、和真が少し呆れたような色をにじませて口を挟んだ。

「資格なら、今からでも身につければいいじゃないか。その覚悟とやる気さえあるなら、死ぬ気でやれば手に入るんじゃないか? それとも挑みもせずに尻尾を巻いて逃げ出すのか?」

 その辛辣な言葉に、当矢は鋭い視線を向ける。

「しかし私はただの使用人で……一体何をすれば認めてもらえると? 生まれは変えられない。それに雪園家には大恩だってある。あの屋敷を出ることなど……」
「遠山家が、いや。俺が手を貸すと言ったらどうする? 自分の力を認めさせるだけの努力をする覚悟が、お前にはあるか?」

 和真は、真正面からじっとその心の奥底を探るような目で当矢を見すえた。
 その強い視線に、当矢はしばし黙り込んだ。

「覚悟なら、ある。いくらでも、この命でも人生でもなんだって懸ける覚悟はある! 美琴お嬢様とともに生きていけるのなら、なんだってやってみせる!」

 当矢の声が、静かな湖畔に響き渡った。

 その言葉に和真は満足そうな笑みを浮かべ、そして美琴は信じられないといった表情でそっと当矢へ歩み寄った。

「本当……? 本当に? 当矢、ならば私をあなたの妻にしてください。きっとどんなことも乗り越えてみせますから。どんな時でもあなたと一緒にいると誓うから。だから……」
「……美琴お嬢様、本当にいいのですか? 私があなたにしてあげられることなど、何もないのですよ。贅沢な暮らしも大きな屋敷も与えてはやれません。私の命と人生くらいしか、あげられるものなんて」

 苦しげな当矢の言葉に、美琴が小さく笑った。

「馬鹿ね。私だってあなたにあげられるものは、この命と人生だけよ。でもあなたがそばにいてくれるなら、それだけでいいの。あなたと一緒に生きられるのなら、それだけで」

 当矢の視線が美琴に真っ直ぐに注がれ、二人は見つめ合った。そして当矢はその場に膝をついた。

「美琴お嬢様、どうかあなたの残りの人生と命を私に預けてください。今は未熟でも、必ず……必ず幸せにしてみせますから! だからどうか、私の妻になってください」

 当矢の力強い求婚に、美琴の目から大粒の涙がこぼれた。

「……はい。謹んでお受けいたします。私はあなたとどこまでも一緒に、決して離れることなくともに生きてまいります」
「美琴お嬢様っ……!」

 二人の心が結び合った瞬間だった。



 その様子を、椿はじんと熱くなる思いで見つめていた。
 心が通じ合う瞬間と言うのは、なんて美しいものだろう。必死で少し格好悪くて、けれどとても真っ直ぐにひたむきで。

「ようやくまとまったみたいだね」

 気づけば隣に和真が並んでいた。

「そうね。二人とも嬉しそう。……でも、一時はどうなるかとハラハラしたわ。殴り合いにでもなるのかと」

 美琴と当矢はすっかり二人の世界に入り込んでいる様子で、椿と和真がすぐそばにいることなど忘れてしまったようである。
 友だちの幸せそうな姿は涙がこぼれるくらいに嬉しくはあるけれど、少々視線のやり場に困ってしまう。

 椿は二人から視線を外し、そっと和真の横顔を盗み見た。
 先ほどの甘い表情などどこかへいってしまったかのように、今はいつも通り飄々とした余裕ありげな表情を浮かべている。いつも通りの、子供の頃から見慣れた弟の顔だった。

 けれどどうしても、さっき見たまるで自分の知らない和真の表情や声が脳裏から離れない。

「ねぇ、さっきのあれ……」
「ん? 何だい?」

 椿は、続く言葉をのみ込んで慌てて首を振った。

 何を聞こうとしたのか自分でもよく分からない。
 でも美琴に向けたあの甘い言葉や態度が当矢に覚悟を決めさせるための振りであったことに、どこか安堵していた。
 と同時に、これまで他の女性にあんなふうに甘い言葉をささやいたり触れたことはあるのだろうか、という疑念が沸き上がる。

 そして、和真が他の女性に優しく触れて甘い言葉をささやいたり、たとえば抱きしめたりしている姿はできれば見たくないな、とも思うのだった。


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